――第18話 森に棲んでいるもの――
夜の終わりを告げる淡い光が、ゆっくりと部屋へ差し込み始める。
朔夜は静かに目を開けた。
朝が苦手だった。
眠いからではない。
施設にいた頃、眠りとは身体を休めるためのものではなく、神経を極限まで研ぎ澄ませる時間だった。
教官は何の前触れもなく、強烈な殺気を放ちながら眠る朔夜たちへ拳を振り下ろす。
一度目は素手、二度目は鉄棒、三度目はナイフ。
殺気に気付けず、攻撃を避けられなければ、その場で命を落とす。
だから朔夜は、どれだけ深く眠っていても、殺気を感じた瞬間には目を覚ます。
そうしなければ、生き残れなかった。
しかし、この世界に来てからは、その感覚がどこか空回りしているようにも思えた。
少なくとも、暗殺を警戒しながら眠ることが当たり前という文化はないらしい。
朔夜は隣へ目を向ける。
任務中だというのに、ミントは同じ部屋で穏やかな寝息を立てながら眠っている。
その寝顔には一片の警戒心もなく、いつ敵に襲われてもおかしくないという危機感すら感じられない。
そのあまりにも無防備な姿を見るたび、朔夜は拍子抜けしてしまう。
(……さて、少し準備するか)
朔夜は音を立てないよう静かに布団を抜け出すと、ミントを起こさないよう足音を殺してテーブルへ向かった。
ナイフを腰へ差し、予備を数本ベルトへ固定する。
懐にはワイヤーと簡易の応急処置道具をしまい、装備に不備がないか一つひとつ指先で確かめていく。
朔夜は静かに戦闘の準備を整えた。
——————数時間後。
朝日がカーテンの隙間から差し込み、新しい一日の始まりを告げる。
「ん……ほわぁ」ミントがゆっくりと体を起こし、大きく背伸びをした。
「おはよう、ミント。よく眠れた?」すでに身支度を終えていた朔夜が声をかける。
「おはよお。朔夜、もう起きてるんだねえ。早いなあ」そう言ってミントは朔夜へ視線を向ける。
一緒に風呂へ入ったこともあるため、朔夜の体つきはよく知っていた。
一見すると細身だが、その身体には無駄な肉が一切なく、皮膚の下には密度の高い筋肉が静かに息づいている。
派手に鍛えた身体ではない。極限まで実戦だけを追い求めた、兵器のような肉体だった。
そして今の朔夜は、身体にぴったりと密着する黒いコンバットスーツの上から軽量の防刃ベストを着込み、膝下まである黒いブーツを履いている。
腰や太腿にはナイフホルダーが幾つも取り付けられ、左右合わせて十数本ものナイフが収められていた。
さらに黒いマントの内側にも数本のナイフが隠されており、少し動くだけで柄がわずかに覗く。
その姿は、まるで特殊部隊の隊員そのものだった。
しかし、その装備はミントにとって見慣れないものだった。
「なんか、かっこいいねえ。すごく似合ってるよお」ミントは素直に感想を口にする。
「でも、武器をそんなに持ち歩いて重くなあい?」
「俺はみんなみたいに魔法が使えないからな」朔夜は腰のナイフへ軽く手を添えた。
「収納魔法は便利だと思う。でも、俺は武器がすぐ手の届く場所になきゃ落ち着かないんだ」
今身に着けている装備は、フィアに頼んで施設時代のものを可能な限り再現してもらった特注品だった。
重量の配分も、ナイフを抜く角度も、革の質感まで記憶どおりに仕上げられている。
その完成度に、朔夜は密かに満足していた。
「朔夜、魔法なーんにも使えないもんねえ」ミントはくすくすと笑う。
「いいから早く準備しろ。寝癖ひどいぞ」
「ふぁーい。お風呂入ってくるから、朔夜、髪洗ってー」
「自分で洗え」
「えへへ、やっぱりだめかあ」ミントは悪戯っぽく笑うと、ぱたぱたと浴室へ向かって駆けていった。
「朝から元気だな……」その後ろ姿を見送りながら、朔夜は小さく肩をすくめる。
▼▼▼▼▼▼
グラトの居所は、旅館から徒歩で二時間ほどの山間にある。
朔夜とミントは相談の末、公共交通機関は使わず徒歩で向かうことにした。
街並みや建物、人々の生活など、この街を少しでも自分の目で見ておきたかったからだ。
途中から山道へ入ると、朔夜はあえて整備された道を外れ、林の中へ足を踏み入れた。
目的地まで一直線に進めることもあるが、それ以上に人目を避けて接近できる利点が大きい。
ミントは文句一つ言わず、その後ろを軽い足取りでついてくる。
急な斜面や木の根が張り巡らされた足場でも息一つ乱さない。
「ねえ、朔夜ー。対象にはどうやって接触するのお? 『こんにちはー』って感じ?」
「まずは気配を悟られない場所から観察する。いきなり襲われるのは面倒だからね。今回みたいな任務より、奇襲の方が得意なんだけど……」朔夜は周囲へ視線を配りながら、低い枝を払いのける。
「目標を確認して、危険性を見極める。そのあとで接触する」
「はーい」ミントは素直に頷いた。
やがて木々が途切れ、視界が開ける。
その先には、一軒の古びた木造小屋が建っていた。
――カコーン。
――カコーン。
規則正しく薪を割る音が静かな山中へ響いている。
音のする方へ目を向けると、一人の男が斧を振り下ろしていた。
身長は二メートル近く。
全身は黒い体毛に覆われ、その姿はまるで巨大なゴリラのようだった。
「……」「……」
朔夜とミントは言葉を交わさず、木の陰からその男を観察する。
見た目は原罪種。
しかし、その動きには理性があった。
薪を一定の位置へ並べ、一振りごとに正確に斧を振り下ろす。
その所作には狂気も暴力性も感じられない。
少なくとも、理性を失ったアビスではない。
朔夜は胸の内で小さく息を吐いた。
緊張をほんのわずかに解こうとした——その瞬間だった。
キラリ。
木漏れ日の中、不自然な光が樹林のさらに奥で一瞬だけ反射する。
反射ではない。
刃だ。
朔夜の瞳が見開かれる。
死神の鎌にも似た一閃が、音もなく巨躯の男の首を刈り取らんと一直線に迫っていた。
ギィィィィィンッ!!
甲高い金属音が山中に響き渡る。
朔夜は地面を蹴ると同時に目にも止まらぬ速さで飛び出し、巨躯の男へ振り下ろされた刃をナイフで弾き返した。
ワンテンポ遅れて轟音が響く。
――ドォンッ!!
音速を超えた衝撃波が周囲の木々を大きく揺らし、葉が一斉に舞い上がった。
「……邪魔をするか」低く呟いたのは、全身を黒いマントで包み、深くローブを被った男だった。
暗殺は完全に失敗した。
男は小さく舌打ちをすると、朔夜へ冷たい視線を向ける。
「悪いけど、俺も任務なんだ。勝手に殺されると困る」朔夜はナイフを構えたまま、一歩も退かない。
「……そうか」ローブの男は静かに頷いた。
「お前がギルドから派遣された男か」
「……?」朔夜は眉をひそめる。
「……これは一体どういうことなんだろうな」背後から重々しい声が聞こえる。
巨躯の男――グラドは斧を地面へ立てかけ、乾いた笑みを浮かべていた。
「死神が来たのか。それとも救いの神が来たのか」少しだけ空を見上げる。
「……俺としては、死神だった方がありがたかったがな」
その声には恐怖も怒りもない。
ただ、長い年月を諦め続けた者だけが持つ静かな疲労が滲んでいた。
「あなたがグラドですね」朔夜はローブの男から視線を外さないまま口を開く。
「俺はあなたに聞きたいことがある。だから、勝手に死なれては困る」
ナイフを握る手に力が入る。
「今だけは、生きていてください」
グラドは何も答えなかった。
ただ静かに朔夜の背中を見つめている。
その様子を、ローブの男も無言で眺めていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……災禍種殺しか」その一言に、わずかな警戒が混じる。
「一対一では分が悪い」男はゆっくりと後ずさる。
「今回は退く」
言葉を言い終えるより早く、その姿は霧が晴れるように掻き消えた。
山中には、揺れる木々の音だけが静かに残っていた。
「小僧……大したもんだな!」ローブの男の姿が完全に消えたのを確認すると、グラドは腹の底から豪快に笑った。
次の瞬間――
バシィンッ!!
大木を叩いたような轟音とともに、その分厚い手のひらが朔夜の背中を叩く。
普通の人間なら、その一撃だけで数メートルは吹き飛ばされてもおかしくない。
しかし、朔夜の身体はわずかに揺れただけだった。
「……痛っ」小さく眉をひそめる程度で済んだ朔夜を見て、グラドはさらに豪快に笑う。
「はっはっはっ! やっぱりただ者じゃねぇな!」そう言うと、グラドは太い腕を組み、牙を見せながら豪快に笑った。
「俺はグラド。今はしがない木こりのグラドだ」
胸をどんと叩く。
「よろしくな、小僧!」
その笑顔は先ほどまで死を受け入れていた男とは思えないほど明るく、まるで長年の友人を迎えるかのような気さくさに満ちていた。




