――第21話 油断――
「グラド!」「グラド!」「グラド!」
広場に割れんばかりの歓声が響く。
人々は両手を掲げ、その名を叫び続けていた。
その中心に立つグラドは、そんな声には一切反応を示さない。
ただ黙々とアビスの死骸に手を突っ込み、内臓を引きずり出して口へ運んでいく。
血が滴り、骨が砕ける音が静かに響く。
その表情は苦痛とは正反対だった。
恍惚とした笑みを浮かべ、まるで至福の食事でも味わっているかのように目を細めている。
凄惨極まりない光景だった。
普通なら悲鳴が上がり、人々は目を背けるだろう。
しかし、この場には誰一人として嫌悪を示す者はいなかった。
「ありがとう!」
「英雄だ!」
「今日も街を救ってくれた!」
感謝と称賛の声だけが絶え間なく降り注ぐ。
グラドに人を救う意思はない。
ただアビスを喰らいたいだけだ。
それでも結果として、人々を脅かすアビスは倒され、街には束の間の平穏が訪れる。
明日生きられるかも分からない世界で、その事実だけが人々には何より重要だった。
だから彼らは英雄と呼ぶ。
化け物であることを知りながら。
「……ハル……ハル……すまない……ハル……」グラドは涙を流しながら肉を喰らい続ける。
その瞳には、目の前のアビスではなく、とうの昔に失った最愛の人が映っているかのようだった。
誰も、その姿を哀れまない。
誰も、止めようとしない。
“グラドは壊れている”
そんなことは、この街の誰もが知っている。
それでも、自分たちに牙を向けず、アビスだけを喰らってくれるのなら構わない。
恐怖の象徴ですら、自分たちを守る存在である限り歓迎する。
それが、この街の人々の選んだ答えだった。
「いったいどういうことなんだろうねぇ。」
朔夜とともに広場へ到着したミントが、呆れたように息を吐く。
「グラドはアビスじゃないみたいだけど、あれじゃあ完全に狂ってるよぉ。どう判断すればいいんだか……。」
「……」朔夜は返事をしない。
そのまま人混みをかき分け、一歩ずつグラドへ近づいていく。
「朔夜……! 危ないよ!」
ミントの制止も耳に入らない。
「グラド……あなたはいったい何者なんだ。それは"汚染"の呪いのせいなのか。呪いがあなたを狂わせたのか……。」独り言のようにつぶやきながら歩みを進める。
朔夜の目に映るグラドは、アビスではない。
だが、人間とも思えなかった。
壊れている。
理性も、心も、何もかも。
朔夜の胸に一つの疑問が浮かぶ。
——なぜ、そこまで狂える。
人は、本当にここまで壊れるものなのか。
自分にも、いつかそんな出来事が訪れるのだろうか。
知りたい。
ただ、その答えが知りたかった。
考えに沈み込んだ朔夜の視線は、いつしかグラドではなく虚空を見つめていた。
「———朔夜——!」
ミントの叫びで意識が引き戻される。
顔を上げた、その瞬間。
視界いっぱいに、巨大な拳が迫っていた。
「アビス……! アビスはころおおおおおおすッ!!」
咆哮と同時に放たれた拳が、朔夜の頬へ直撃する。
ゴッ——という鈍い衝撃。
次の瞬間、朔夜の姿は消えていた。
いや、速すぎて誰の目にも映らなかったのだ。
ドォォォォォォン!!
数百メートル先のビルへ一直線に叩き込まれ、コンクリートの壁を何枚も突き破る。
建物の反対側まで貫通した衝撃で、巨大な風穴が穿たれ、遅れて爆風と粉塵が街中へ吹き荒れた。
「あ……。」
ミントは、その光景を見つめたまま言葉を失った。
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「いっててて……」朔夜は頭を押さえながらゆっくりと身を起こした。
油断した。
……いや、そもそもなぜあの場で考え事などしていたのか、自分でもよく分からない。
だが、グラドの姿を見ていると、どうしても他人事とは思えなかった。
人類を蝕む終焉種の呪い。
それはグラドだけではない。
この世界で生きるすべての人間に降りかかる災厄であり、終焉種を倒さない限り終わることのない悲劇だ。
本来なら、そんなものは自分には関係ない。
他人がどうなろうと知ったことではないはずだった。
なのに、気になってしまう。
グラドのことが。
ミントのことが。
フィアのことが。
そして、この世界で出会ってきたすべての人々のことが。
彼らと過ごす時間は、朔夜の知らなかった感情を教えてくれた。
人としての価値観を少しずつ広げ、気づけば、もっと一緒にいたいと思える存在になっていた。
「……俺は、弱くなったんだろうな。」ぽつりと漏れた言葉には、自嘲が混じっていた。
暗殺者としての自分なら、他人に情など抱かなかった。
任務の邪魔になる感情は切り捨て、必要なら迷いなく命を奪う。
それが当たり前だった。
なのに今は違う。
誰かを気に掛け、誰かのために悩み、誰かを失うことを恐れている。
冷たく、非情でいられた自分は、いったいいつ、どこへ消えてしまったのだろう。
「……それにしても、ここはいったいどこだ。」朔夜は立ち上がり、周囲を見回す。
「どこまで吹っ飛ばされたんだ、俺は。」
「……早く元の場所に戻らないと。」
そう口にしかけた、その瞬間だった。
「「そんなに急がなくてもいいじゃないか。少しくらい、ゆっくりしていけよ。朔夜くん。」」
不意に背後から声が響く。
朔夜は反射的に振り返った。
そこには、黒いタキシードに身を包み、シルクハットを被った男が立っていた。
片手にはステッキ。
まるで舞台役者のような出で立ちで、口元には芝居がかった笑みを浮かべている。
「……」朔夜は無言のまま男を観察する。
異形ではない。
少なくとも見た目は人間だ。
だが——。
(……なんだ、この圧。)
肌を刺すような威圧感。
目の前に立っているだけで、本能が警鐘を鳴らしてくる。
圧倒的な"何か"が、この男にはあった。
「あれ? 君、朔夜くんで合ってるよね?」男は首を傾げ、困ったように笑う。
「返事してくれないと、お兄さん困っちゃうなぁ。」芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「ああ、なるほど。」ぽん、と手を打った。
「先に名乗らないから警戒してるのか。それは失礼した。」
男はシルクハットを軽く持ち上げ、優雅に一礼する。
「私の名はカール・パンツラム。」
その名を告げた瞬間、男の笑みがさらに深くなった。
「"戦争"の崩壊種さ。」
その一言だけで、周囲の空気が重く沈む。
「今日は新しい仲間ができそうでね。迎えに来たんだよ。」
まるで友人を迎えに来たかのような軽い口調だった。
「もっとも、その前に君が邪魔になりそうでね。」
カールはステッキの先を朔夜へ向ける。
「だから君には少しだけ、ここで時間を潰してもらおうと思ってる。」
ヒュン——。
一筋の閃光が空気を裂き、カールの首筋をかすめた。
「おっと。」カールはわずかに身を傾ける。
「危ない危ない。物騒だねぇ。」
次の瞬間には朔夜が目の前まで踏み込み、刃を振るっていた。
鋭い斬撃が幾重にも走る。
カールは紙一重でそれをかわし続けるが、完全には避けきれない。
首筋が浅く裂け、赤い血が一筋流れ落ちた。
「これも避けられない程度で、俺の邪魔ができると思っているのか。」朔夜は刃を構えたまま、冷え切った声で告げる。
「殺されたくなければ、どけ。」その瞳には一切の感情が宿っていなかった。
「あはは。」カールは首筋の血を指でなぞり、その赤を眺めながら笑う。
「やっぱり君はすごいね。さすが"噂"になるだけはある。」肩をすくめ、あっさりと続けた。
「君の言うとおりだ。私じゃ君には勝てない。」
その言葉に嘘は感じられない。
しかし、不敵な笑みだけは消えなかった。
「……だがね。」
カールはゆっくりとステッキで地面を叩く。
「——『亡者の行軍』」
黒い魔法陣が地面いっぱいに広がった。
直後、地面が脈打つように盛り上がり、異形の腕が土を突き破る。
一体。
二体。
十体。
数える間もなく、異形の原罪種と思しき屍兵が次々と這い出してきた。
その数は瞬く間に朔夜を取り囲む。
「我々の仲間になるにふさわしいのは、あの美しい"白い一角"を持つ少女だ。」カールは恍惚とした笑みを浮かべる。
「あれほどの才能を、このまま人類に埋もれさせるのは実にもったいない。」
(……)
朔夜の表情は変わらない。
だが、その言葉だけは聞き流せなかった。
胸の奥で、小さく動揺が広がる。
ただ、朔夜の纏う空気は一段と冷たさを増していった。




