――第2話 異世界で出会った少女――
朔夜が目を覚ますと、そこには見覚えのない光景が広がっていた。
ぱっと見は東京の街並みにも見える。
雑居ビルや高層建築が立ち並び、かつては多くの人々で賑わっていたであろう都市。
しかし、その姿は朔夜が意識を失う前に見た景色とはあまりにもかけ離れていた。
人の気配はどこにもない。
無数の人々が行き交っていたはずの道路は静まり返り、高層ビルの多くは朽ち果て、壁面には大量のツル植物が絡みついている。
窓ガラスは割れ、コンクリートの隙間からは草木が生い茂り、緑が都市を飲み込もうとしていた。
中には崩落したのか、上半分が消え失せているビルまである。
まるで人類が姿を消してから何十年、あるいは何百年も経過した後の世界だった。
「なん……だ、ここ。それに俺は死んだはずじゃ……」
朔夜は呆然と呟き、自分の両手を見下ろす。
指を動かす。握る。感覚はある。痛みもある。
「生きてる……? でも、ここはいったい……」
あの世、と呼ばれる場所なのだろうか。
朔夜はそう考えた。
もっとも、先ほどまでいた日本ですら、朔夜にとっては理解の及ばない世界だった。
ネオンが輝く街。
空を埋めるように並ぶ建物。
溢れ返る人々。
山奥の施設で育ち、人を殺す技術しか教わらなかった朔夜には、そのすべてが未知の光景だった。
だが、目の前の世界はそれ以上に異常だった。
気づけば見知らぬ高度文明社会へ放り込まれたと思った次の瞬間、その文明が滅び去った後のような光景が広がっている。
まるで栄枯盛衰を一瞬で見せつけられたかのようだった。
風が吹く。
誰もいない道路を乾いた風が通り抜け、割れた窓ガラスを揺らして不気味な音を鳴らす。その音だけが、この世界に残された最後の息遣いのように響いていた。
ぎゃ……ぎゃぎゃ……。
獣のような鳴き声が聞こえる。
それも一匹ではない。複数だ。
これだけ荒廃した都市だ。野生動物くらいいてもおかしくはない。
朔夜は慌てなかった。
施設にいた頃は熊と一対一で格闘する訓練すら受けたことがある。
狼程度なら大した脅威ではない。
問題は武器がないことだ。
素手で獣を仕留める技術は叩き込まれているが、怪我をするリスクもある。できれば避けたい。
「しょうがないけど……やるか」
朔夜は小さく息を吐き、覚悟を決めて振り返る。
そして、そのまま動きを止めた。
「……なに?」
そこにいたのは朔夜の想像を遥かに超える存在だった。
ライオン。
そう呼ぶのが一番近い。
だが、明らかに違う。
全身は黒紫色の皮膚に覆われ、目があるべき場所には何も存在しない。
眼窩そのものがなく、皮膚で塞がれていた。
それだけでも十分異様だったが、本当に目を引くのはたてがみだった。
黒い毛並みの奥で赤い光が脈打っている。
どくん、どくんとまるで心臓のような鼓動を刻みながら、不気味に明滅していた。
そして何より大きい。
でかすぎる。
肩までの高さだけで朔夜の身長を超えている。
体長は三メートルどころではないかもしれない。
大型の乗用車がそのまま獣になったような巨体だった。
そんな化け物が三頭。
まるで獲物を追い詰める猟犬のように、朔夜を囲む位置に立っている。
「お、おいおい……冗談だろ」
さすがの朔夜も顔を引きつらせた。
こんな生き物が存在するはずがない。
いや、存在していたとしても、自分の知る生物の枠組みに収まっていない。
三頭の獣は、ぎゃ、ぎゃ、と耳障りな鳴き声を上げながらゆっくりと朔夜の周囲を回り始める。
まるで品定めでもしているかのようだった。
その動きには焦りも警戒もない。
ぎゃー! と朔夜の後ろへ回り込んだ獣が甲高い声を上げる。
それが合図だった。
三匹の獣が同時に地面を蹴り、朔夜へ襲いかかる。
獣の爪は鋭利だ。
あんなものに触れられれば、人間の身体など簡単に三枚おろしになるだろう。
そして切り裂いた後は、あの牙で骨まで食い尽くすに違いない。
「俺の肉だけじゃ物足りなさそうな体だけどな……!」
軽口を叩きながらも朔夜は違和感に気づく。
――遅い。
獣の動きがあまりにも遅かった。
まるでスローモーション映像を見ているかのように、一挙手一投足がはっきりと見える。
自分の感覚が生前とは比較にならないほど研ぎ澄まされていることを、朔夜は本能的に理解した。
これはいける。
不思議なほど恐怖が湧いてこない。
前方の獣が爪を振り上げる。
その軌道が見える。
筋肉の動きも、体重移動も、次にどこへ力が流れるのかも手に取るように分かった。
なら、あごに一発。
それだけで十分だ。
朔夜は一瞬でそう判断し、そのまま踏み込む。
思考と同時に身体が動いた。
長年叩き込まれた技術に、この身体が完全についてきている。
拳が前へ伸びる。
獣のあごへ向かって放たれたアッパーカットは、朔夜の予想を遥かに超える威力を秘めていた。
ぱかん。
そんな拍子抜けするほど軽い音が響く。
だが次の瞬間、獣の頭部があごごと消し飛んだ。
「……は?」
思わず朔夜自身が目を見開く。
想定していたのは脳震盪だ。
頭を吹き飛ばすつもりなどなかった。
だが驚いている暇はない。
横から二匹目が迫る。
朔夜は反射的に身体を捻り、フックを叩き込んだ。
拳が胴体へめり込む。
続けて振り向きざまに、後方の三匹目の獣に対して回し蹴りを放つ。
鋼鉄の柱でも蹴るような感触が足へ伝わった。
パン。
どごっ。
音だけが遅れて聞こえた。
その瞬間、スローモーションになっていた世界が元へ戻る。
二匹目の身体が中央から弾け飛ぶ。
三匹目は頭部を失ったまま宙を舞い、胴体ごとねじ切れるように砕け散った。
三体の獣はほぼ同時に肉塊へ変わり果てる。
遅れて衝撃波が周囲へ広がった。
雑居ビルの窓ガラスがびりびりと震え、道路脇に放置されていた看板が大きく揺れる。
血肉の破片が雨のように降り注ぐ中、朔夜だけがその場に立っていた。
そして、自分の拳を見つめる。
「……なんだよ、これ」
呆然と呟く。
目の前の化け物よりも、自分自身の方がよほど得体の知れない存在になっている気がした。
ぱち、ぱち、ぱち。
軽い拍手の音が響く。
小さな手を打ち鳴らす音だ。
血と肉片が散らばり、荒廃した都市が広がるこの場所にはあまりにも不釣り合いな音だった。
朔夜は反射的にばっと振り返る。
そこにいたのは白いワンピースを着た少女だった。
年齢は十六歳ほどだろうか。
少女は楽しそうに拍手をしながら笑顔を浮かべている。
しかし、その姿は明らかに人間ではなかった。
雪のように白い肌。
腰まで伸びた真っ白な髪。
頭には空想上の龍を思わせる白い角が二本生えている。
猫のように整った瞳は真珠のような輝きを宿し、口元から覗く二本の犬歯がどこか愛らしさすら感じさせた。
異形だった。
だが、不気味さはまるで感じない。
むしろ目を奪われる。
美しい。
朔夜の頭に浮かんだのはその一言だった。
もしこの世に美という概念そのものが存在するのなら、きっとこんな姿をしているのだろう。
そんな馬鹿げた考えが自然と脳裏をよぎるほど、少女は現実離れした美しさを持っていた。
「すごいね。きみ」
鈴を転がしたような声が耳に届く。
その声は心地よく、思わず聞き惚れてしまいそうになる。
「原罪種だけれども、魔法も使わないで素手で倒しちゃうなんて……きみのおなまえは?」
少女は興味深そうに朔夜の瞳をじっと見つめていた。
「えっと、ありがとう……でいいのかな? 影山朔夜だ。あなたは?」
朔夜がそう答えると、少女はくすくすと楽しそうに笑う。
「カゲヤマサクヤ?」
一度口の中で転がすように名前を繰り返し、それから首を傾げた。
「言いにくいね。サクヤでいいや」そう言って目を細める。
「私はフィア・エヴァーレイン。フィアって呼んで。よろしくね、サクヤ」
フィアはそう言いながら、すっと朔夜へ手を差し出した。
握手だろうか。
こんな世界にそんな文化があるようには見えなかったが、朔夜にとっては目覚めてからずっと意味の分からないことばかりだ。
今さら気にしても仕方がない。
「じゃあ、フィア。よろしく」
朔夜は差し出された手をそっと握る。
小さい手だった。
冷たいようでいて、どこか温かい。
あまりにも華奢で、少し力を入れれば壊れてしまいそうなほどだった。
その感触を確かめるように握った瞬間、フィアはにこりと笑った。
「サクヤ、私はきみを”愛してる”。まってたんだよ♪」
フィアは満面の笑みを浮かべながら唐突にそう言った。
その笑顔はあまりにも眩しかった。
まるで長い冬が終わり、ようやく春を迎えた人のような。
あるいは、もう二度と会えないと思っていた大切な人と再会できた人のような。
心の底から安堵し、救われたような笑顔だった。
嬉しそうだった。
本当に。
その表情には打算も嘘も見当たらない。
ただ純粋な喜びだけがあった。
朔夜は小さく苦笑しながらも、その笑顔につられるように自然と表情がほころんでいた。
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