――第1話 死刑判決――
ーーーーーーーー六人の英雄は災厄を防いだ。
ーーーーーーーーーーー六人の英雄は新たな災厄となった。
▼◇▼◇▼◇▼◇
一人の少女が地球儀を覗いていた。
恋焦がれるように。
待ち望むように。
何十年も。
何百年も。
ただ一つの世界を見つめ続けている。
小さな手がそっと地球儀に触れる。
その瞳に映っていたのは――
一人の少年だった。
▼◇▼◇▼◇▼◇
影山朔夜は、高校の廊下を歩いていた。
朝の校舎は騒がしい。
教室から漏れる笑い声、机を引きずる音、廊下を走る生徒を叱る教師の声。
どれも朔夜には馴染みのない音だった。
かつて国家の暗部として存在した暗殺者育成機関。
朔夜はそこで育った。
だが、長い平和の到来により、その機関は現代日本に不要なものと判断され、数か月前に正式に解体された。
行き場を失った育成対象者たちは、年齢や適性に応じて社会へ戻されることになり、朔夜もその一人として、この高校へ通わされていた。
表向きには転校生。実際には社会復帰プログラムの実験体。
学校という場所が、人間にとって普通を学ぶための場所であることは説明されていた。
しかし朔夜には、その普通が分からなかった。
教室で隣の席の生徒に話しかけられた時、朔夜はまず相手の利き手を見た。
距離を測り、視線の動きから敵意の有無を探り、机の上に置かれたシャープペンシルが武器として使えるかを確認した。
相手はただ「よろしく」と言っただけだった。
それに対してどう返すのが正解なのか、朔夜には分からなかった。
育成機関では、挨拶は合図だった。
返事の遅れは隙であり、隙は死に繋がる。
だが、この教室では誰も朔夜を殺そうとしていない。
少なくとも、今のところは。
午前の授業も苦痛だった。
黒板の文字を書き写す意味が分からない。
教師は何度も「分かったか」と確認してきたが、朔夜には分かるも分からないもなかった。
数学の問題は解ける。
国語の文章も読める。
だが、周囲の生徒たちが授業中に小声で笑い、教師に隠れてスマートフォンを触り、眠そうにあくびをする理由が分からなかった。
訓練中に眠れば殴られる。
命令中に私語をすれば罰を受ける。
失敗すれば次はない。
そういう世界で育った朔夜にとって、ここはあまりにも緩く、あまりにも無防備だった。
昼休みになると、クラスの女子生徒が購買のパンを持って朔夜の机に近付いてきた。
「影山くん、お昼それだけ?」彼女はそう言って、朔夜の机の上を見た。
そこには栄養補助食品と水しかなかった。
朔夜は一瞬、質問の意図を測りかねた。
食事量を確認しているのか。
体調を探っているのか。
それとも何かの罠か。
「必要量は足りている」朔夜がそう答えると、女子生徒は困ったように笑った。
「そういう意味じゃなくてさ。足りるのかなって思っただけ」その言葉に悪意はなかった。
だが、朔夜には悪意がない会話の処理方法が分からない。
沈黙が流れる。
周囲の生徒たちがこちらを見ている。
女子生徒は気まずそうに笑い、結局「そっか」とだけ言って離れていった。
朔夜はその背中を見ながら、自分がまた何かを間違えたのだと理解した。
何を間違えたのかは分からない。
午後の授業が終わる頃には、朔夜の中に疲労が溜まっていた。
肉体的な疲労ではない。
任務で三日三晩眠らずに移動したこともある。
だが、学校という場所で過ごす数時間は、それとは別の疲労を朔夜に与えた。
常に正解が分からない。
何を言えばいいのか、どこで笑えばいいのか、どこまで近付いていいのか、どこからが威嚇になるのか。
そのすべてを測り続けることは、戦闘よりも難しかった。
放課後、朔夜は昇降口へ向かうため廊下を歩いていた。
そこへ三人の男子生徒が立ちはだかった。
制服を着崩し、髪を染め、廊下の真ん中を塞ぐように立っている。
クラスで何度か見た顔だった。
教師の前では適当に笑い、裏では弱い生徒から金を取っている。
朔夜は朝の時点でそう判断していた。
「おい、転校生」真ん中の男が顎をしゃくる。
「お前、昼に女子と喋ってただろ。調子乗ってんの?」
意味が分からなかった。
女子と話したことと、調子に乗ることがどう繋がるのか理解できない。
朔夜は何も答えず、横を通り抜けようとした。
その瞬間、男が朔夜の肩を掴んだ。
瞬間、身体が反応した。
考えるより先だった。
肩を掴まれる。
拘束の初動。
ならば手首を外し、重心を崩し、相手を無力化する。
それは朔夜にとって呼吸と同じだった。
朔夜は男の手首を払った。
ただ、それだけのつもりだった。
だが、男の身体は廊下の床を滑るように吹き飛び、数メートル先の壁へ激突した。
鈍い音が響いた。
周囲の空気が止まる。
壁に叩きつけられた男はその場に崩れ落ち、額から血を流していた。
残りの二人が顔を青ざめさせる。
遠巻きに見ていた生徒たちの口から悲鳴が上がった。
朔夜は自分の手を見た。
加減はした。
訓練施設なら、骨が折れるか、せいぜい意識が飛ぶ程度の力しか使っていない。
だが、この場所ではそれすら過剰だった。
ここは訓練施設ではない。
相手は敵ではない。
朔夜はそのことを頭では理解していたはずだった。
しかし身体は理解していなかった。
教師が駆け寄ってくる。
誰かが救急車を呼んでいる。
生徒たちは朔夜を見る。
恐怖、嫌悪、拒絶。
これまで任務中に何度も向けられた視線だった。
だが、同年代の人間から向けられるそれは、奇妙に胸の奥をざらつかせた。
その時だった。
びびびびびび――。
脳の奥に、壊れた機械音のようなノイズが走った。
朔夜は眉をひそめる。
視界が揺れる。
廊下の蛍光灯が明滅し、壁の輪郭が滲み、世界そのものに亀裂が入るような錯覚がした。
耳鳴りではない。
頭痛でもない。
もっと深い場所。
自分の内側ではなく、世界の裏側から何かが軋んでいるような感覚だった。
『きた』少女の声が聞こえた。
朔夜は反射的に周囲を見た。
だが、そこに少女の姿はない。
教師も生徒も、倒れた男を見て騒いでいるだけだ。
誰もその声に反応していない。
『やっと見つけた』声は嬉しそうだった。
泣き出しそうなほど嬉しそうで、それでいて、ひどく疲れているようにも聞こえた。
朔夜は問い返そうとした。
お前は誰だ、と。
しかし言葉は出なかった。
胸の奥から黒い何かが広がる。
視界が暗く染まり、足元の感覚が消える。
最後に見えたのは、自分を怪物のように見つめるクラスメイトたちの顔だった。
次に目を覚ました時、朔夜は取調室の椅子に座っていた。
両手には手錠。
机の向こうには刑事が二人。
何が起きたのか説明を求められたが、朔夜にも説明できなかった。
不良を振り払った。
ノイズが聞こえた。
少女の声がした。
意識が消えた。
そう話しても、刑事たちは表情を変えなかった。
数日後、事件は報道された。
元暗殺者育成機関の少年が、学校で生徒を重傷に追い込んだ。
存在しないはずの機関。
隠されていた国家の暗部。
ニュースは朔夜一人の傷害事件では終わらなかった。
国民は怒った。
なぜそんな機関が存在したのか。
なぜそんな少年が普通の高校に通っていたのか。
なぜ危険人物を社会に放ったのか。
世論は一気に燃え上がった。
そして、その怒りの矛先は、いつの間にか朔夜一人へ向けられていた。
お前は人間ではない。
兵器だ。怪物だ。殺人鬼だ。
ネットにもテレビにも、そんな言葉が溢れた。
朔夜はそれを拘置所の小さなテレビで見ていた。
自分が何者なのか、自分でもよく分からなかった。
ただ一つ分かるのは、誰も朔夜の話を聞こうとしていないということだった。
裁判は異様な速度で進んだ。
弁護人はいたが、ほとんど何もできなかった。
証拠は揃っているとされた。
朔夜が危険な存在であること、国家機関で殺人技術を学んでいたこと、一般社会に適応できないこと、そして今後も重大な危害を及ぼす可能性が高いこと。
朔夜には分からなかった。
自分は人を殺していない。
相手は生きている。
ならば、なぜここまで大きな話になるのか。
だが、法廷にいる人々の目を見て、朔夜は理解した。
彼らにとって事実は重要ではない。
彼らはすでに朔夜を怪物として見ている。
怪物ならば、殺してもいい。
そういう目だった。
判決の日、法廷は静まり返っていた。
裁判官が紙をめくる音だけが響く。
朔夜は被告人席に立ち、まっすぐ前を見ていた。
怖いとは思わなかった。
ただ、理解できなかった。
なぜ自分はここにいるのか。
なぜあの学校へ行かされたのか。
なぜ普通に生きろと言われ、普通を知らないまま放り出され、失敗した途端に裁かれるのか。
答えは誰も教えてくれない。
やがて裁判官が口を開いた。
「主文。被告影山朔夜を死刑に処す」その瞬間、傍聴席がざわめいた。
誰かが息を呑み、誰かが泣き、誰かが小さく頷いた。
朔夜は何も言わなかった。
言うべき言葉が見つからなかった。
死刑。
自分が殺されるという意味だ。
それは分かる。
だが、なぜそうなるのかは、最後まで分からなかった。
三か月後、刑は執行された。
狭い部屋だった。
白い壁。
無機質な床。
薬剤を準備する音。
刑務官の視線。
誰も朔夜と目を合わせようとしない。
最後に言い残すことを問われたが、朔夜はしばらく黙っていた。
恨みはなかった。
怒りもよく分からなかった。
ただ、あの廊下で聞こえた少女の声だけが、頭の奥に残っていた。
『やっと見つけた』
あれは何だったのか。
自分は何に見つかったのか。
分からないまま、朔夜は目を閉じた。
薬剤が体内へ流れ込む。
指先の感覚が薄れ、呼吸が重くなり、意識がゆっくりと沈んでいく。
暗い。何も見えない。
音もない。匂いもない。
ただ、どこまでも続く闇だけがあった。朔夜が最後に見た景色は、真っ暗な闇だった。
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