――第11話 ポテトサラダ――
そこはエレジアの屋敷からバスを乗り継ぎ、2時間ほど走った先にあった。
世界樹内部の中心街からは大きく離れているらしく、先ほどまでの賑やかさはすっかり消えている。窓の外に広がる景色も徐々に建物が少なくなり、やがて自然が目立つようになっていった。
そして辿り着いた場所は湖畔だった。
目の前には広大な湖が広がっている。
世界樹の天井から降り注ぐ人工の陽光を受け、水面は宝石を散りばめたようにきらきらと輝いていた。
透き通った水の向こうには湖底まではっきりと見え、魚の群れがゆったりと泳ぐ姿さえ確認できる。
静かだった。
街中の喧噪とは無縁の場所。
風が木々を揺らす音と、水面が岸辺を撫でる音だけが耳に届く。
そんな湖畔にぽつんと一軒の店が建っていた。
赤レンガで造られたアンティーク調の建物だ。
大きな窓には木製の枠が使われており、どこか古い絵本に出てきそうな温かみを感じる。
入口の上には木製の看板が吊るされていた。
『フィーネ・デレテルノ』
白い文字でそう書かれている。
店の前まで来ると、ふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐった。
焼きたてのパン。
溶けたチーズ。
ガーリックとバター。
それらが混ざり合った凶悪な香りが店の中から漏れ出している。
ぐううううううう。
朔夜の腹が盛大に鳴いた。
もはや隠す気すらない音量だった。
「あー……腹減った」朔夜はその場で項垂れる。
「もう無理だ、フィア……」
バスに揺られている間も空腹を我慢していたのだ。
気付けば2時間以上経っている。
世界樹の天井から降り注ぐ光も少し弱まり始めている。
おそらく外の世界では夜になっているのだろう。
空腹はとっくに限界だった。
「ふふん」そんな朔夜を見てフィアは得意げに胸を張る。
「ついたわ!」その顔には妙な自信があった。
「もう大丈夫! とびっきりのものを用意してあげるわ!」まるで自分のことのように誇らしげだ。
今は飯だ。
それ以外はどうでもいい。
フィアは勢いよく扉を押し開ける。
店内から暖かな光と食欲を刺激する香りが一気に溢れ出した。
その瞬間、食べ物の匂いだけで、朔夜は心の底から幸せを感じていた。
「いらっしゃいませー!……って、んんー? あ! てんちょ!」フィアが店の中へ入った瞬間、元気な声とともに何かが飛び込んできた。
それは猫の耳と長い尻尾を持つ少女だった。
身長は朔夜とほとんど変わらないくらいで、黄色い瞳は完全に猫のそれだ。
尻尾を器用に動かしながら何本ものジョッキを載せたサービストレイを支えているあたり、かなり器用なのだろう。
「どこに行ってたの! ばーか忙しかったんですよお!」猫耳の少女は怒りを隠そうともせず、燃えるような目でフィアを睨みつける。
「ごめんね、キャス。いい子にしてたかい?」しかしフィアはまったく気にした様子もなく、キャスと呼ばれた少女の頭を優しく撫でた。
「ふー! 今日は騙されませんから!」キャスは頬を膨らませながらフィアの手を振り払うと、そのまま厨房へ飛び込んでいく。
「ヨーゴ! ヨーゴ! てんちょ帰ってきた!」
「マジか! やっと帰ってきやがったか!」
厨房から顔を出したのは、朔夜より少し背の高い青年だった。
ぱっと見は人間に見えるが、ニッと笑った口元からは鋭い牙が並び、首元には魚のエラのようなものが見える。
エプロン姿ではあるものの、どう見ても似合っていなかった。
「てめえ店長! てめえがいねえから俺が他のやつらの面倒見てたんだぞ! 俺がどんだけ苦労したことか……」ヨーゴは拳を握り締めながら不満をぶちまける。
「まあまあ、いいでしょお。何とかなってるんだし。なんだったら、フィアがいなくても回ったんじゃなあい?」気だるそうな声が横から聞こえた。
カウンター席に座る女が、自分の爪を磨きながらそう言う。
その額には一本だけ細く伸びた角が生えていた。
まるで伝承に登場する麒麟のような、美しくも不思議な角だった。
「でしょー? シン?」女はさらに隣に座る少年へ声をかける。
「そんなことない。ミント、言い過ぎ。」シンと呼ばれた少年は短く言い切った。
その額には二本の角があり、口元からは小さな犬歯が覗いている。そして何より、彼だけは最初から朔夜を警戒するような視線を向けていた。
「そんなことあると思うけどなあー」ミントは気にした様子もなく、磨き終えた爪を天井の明かりへかざしながら呟く。
その様子を眺めながら、朔夜は店内を見回した。
誰も彼もが人間ではない。
猫耳の少女、魚人のような青年、一本角を持つ女、鬼のような少年。
そして店の客たちもまた、獣の耳や翼、鱗や角など、都市の中心部ではあまり見かけない原罪種と呼ばれる者ばかりだった。
それなのに、この店には妙な居心地の良さがある。
まるで家族の集まりのような、騒がしくも温かな空気がそこにはあった。
「さ、そこに座って、朔夜。私のお店、『フィーネ・デレテルノ』の料理を振る舞ってあげるわ。ヨーゴ、準備して」フィアはそう言うと、長い髪をかき上げながら厨房へと入っていく。
「ええ!? 今、閉店作業終わったばっかなんだが……」ヨーゴが慌てて引き留めようとするが、
「いいから! 朔夜はもう餓死寸前なの。たぶん。あんたも手伝いなさい」
「うっそだろ……」有無を言わせぬ口調に、ヨーゴはそれ以上反論できず肩を落として厨房へ消えていった。
朔夜は言われた通り、カウンター席へ腰を下ろす。
隣にはミントが座っていた。
ミントは興味深そうに朔夜を眺めると、少しだけ身を寄せてくる。
ふわりと金木犀を思わせる甘い香りが鼻をくすぐった。
「あんたあ、人間?」ミントの唐突な質問だった。
「さあ」朔夜はキャスが運んできた水を一口飲む。
普通の水ではない。
果実を思わせるほのかな香りと爽やかな甘みがあり、喉を通るだけで身体に染み渡るようだった。
「見た目的には人間だけど、災禍種とやらを素手で倒せるのは人間業じゃないらしいから、人間じゃないのかもね」
「「……は?」」ミントとシンの声が見事に重なった。
店内の空気がわずかに止まる。
ミントは瞬きを忘れたように朔夜を見つめ、シンも鋭い視線を向けたまま黙り込んでいた。
「……なに?」その沈黙に耐えきれず朔夜が尋ねる。
「それが、てんちょがあなたをここに連れてきた理由なのかなー」後ろから声が聞こえた。
振り返ると、キャスが小鉢を持って立っている。
「はい、これ」
ことん、と目の前に置かれたのはポテトサラダだった。
白い器の中に盛られたそれは、家庭料理のような見た目でありながら不思議なほど食欲をそそる香りを放っている。
「朔夜は強いのねー。災禍種なんて、人類で単独討伐できるのは剣聖クラスくらいしかいないのよー。あ、それ料理ができるまでの間にどうぞ。作り置きしてたやつだから」そう言い残し、キャスは再び厨房へ戻っていった。
朔夜は小鉢を見下ろす。
ただのポテトサラダにしか見えない。
だが、腹の奥が焼けるように空腹を訴えていた。
朔夜はスプーンを手に取り、一口だけ口へ運ぶ。
その瞬間だった。
「――っ」
脳の奥で何かが弾けた。
甘み、塩味、香辛料の刺激、それらが完璧な均衡を保ちながら舌の上で広がり、噛むたびに旨味が溢れ出してくる。じゃがいもの柔らかな食感と野菜の歯応えが混ざり合い、飲み込むのが惜しくなるほどだった。
うまい。
うますぎる。
思わず無言で二口目を口へ運ぶ。
気付けば手が止まらない。
極限状態に置かれた身体が求めているのか、それとも純粋に料理の完成度が異常なのか、朔夜には分からなかった。
ただ一つ分かるのは――今まで食べてきたどんな料理よりも美味いということだけだった。
「あなた、本当に災禍種を……?」ミントが朔夜に声をかける。
「……もぐもぐ」しかし朔夜は返事をしなかった。
というより聞いていないようだった。
目の前のポテトサラダに完全に意識を持っていかれている。
「……」
「……」
数秒ほど沈黙が流れる。
「聞いてないわね」ミントは呆れたように頬杖をついた。
「どう? シン。彼、そんなに強いの?」ミントが隣のシンへ問いかける。
シンはしばらく朔夜を見つめていたが、やがて小さく首を横に振った。
「わからない。けど……」
「けど?」
「さっきと比べて明らかに危険度が上がってる気がする」
「え?」
「ご飯食べてるからかな」シンは真面目な顔でそう言った。
ミントは一瞬ぽかんとしたあと、小さく笑う。
「なによそれ」そう言いながらも再び朔夜へ視線を向ける。
朔夜は相変わらず無言でポテトサラダを食べ続けていた。
「きっと私たち、いつか彼に殺されちゃうんだろーねえ」
ミントはぼんやりと壁を見つめながら呟いた。
その表情には諦念にも似た感情が宿っていた。




