――第10話 スキップ――
エレジアの屋敷を後にして、フィアと朔夜は並んで歩いていた。
世界樹の内部に作られた都市は相変わらず不思議な光景だった。遥か上空には天井があるはずなのに、そこからは朝日のような柔らかな光が降り注いでいる。空はない。雲もない。それなのに外を歩いているような感覚になるのだから奇妙なものだ。
「それにしても、人を殺すと原罪種か……」朔夜はぽつりと呟いた。
先ほど聞いた話が頭から離れない。
「あのピエロも元は人間だったんだろ?」
「そうね」
「じゃあ、俺も人殺しになるのかな」朔夜は自分の手を見下ろした。
あの時は迷わなかった。
殺さなければ自分が死んでいた。
それでも、殺したという事実は変わらない。
「アビスになった原罪種は人という扱いにはならないのよ」フィアはそんな朔夜を横目で見ながら答えた。
「そうなのか?」
「ええ。アビスを殺してもルール違反じゃないわ。だから討伐対象になる」フィアは淡々と説明する。
「ただし、原罪種になったばかりの人間は別。まだ自我も理性もあるから、人として扱わなきゃいけない」
「へえ」
「だから原罪種だからって勝手に処分することもできないの」
そこまでは理解できた。
だが次の言葉は少し意外だった。
「混沌のルールとしては、人を監禁したり傷つけたりすることも禁止されているわ」
「え?」
「追放もね」フィアは指を一本立てる。
「生活基盤のある人間を社会から追い出すことは、実質的な死刑と変わらないもの。だから禁止」
「意外だな」朔夜は正直な感想を漏らした。
もっと理不尽なルールばかりかと思っていた。
「だから原罪種になった人間も、アビスになるまでは普通に生活する権利がある」そう言ってフィアは前方を指差した。
朔夜も視線を向ける。
そこには人とは少し違う姿の者たちがいた。
頭から牛のような角が生えている男。
顔の半分を鱗に覆われた女性。
爬虫類を思わせる瞳を持つ老人。
おそらく原罪種なのだろう。
しかし街の人々は彼らを攻撃しない。
石を投げることもなければ罵声を浴びせることもない。
ただ――見ていた。
じっと。
監視するように。
まるで猛獣を観察する飼育員のような目で。
いつ暴れ出すかわからない危険物を見るような目で。
「過度なプライバシーの侵害はルール違反だけどね」フィアは肩をすくめる。
「外に出れば、ああして監視されるわ」
「……なんかかわいそうだな」朔夜はそう呟いた。
誰にも殴られていない。
誰にも罵倒されていない。
それでもあの視線は十分に苦しい気がした。
自分が施設にいた頃を少し思い出す。
恐怖や嫌悪の混じった目で見られることには慣れている。
だから余計にそう感じた。
しかしフィアは首を横に振った。
「かわいそうじゃないわ」その声には迷いがなかった。
「原罪種になる人は混沌のルールの被害者でもあるけど、同時に加害者でもある」
「……」
「人殺しや傷害、その他の重大なルール違反をした結果なんだから」フィアは前を向いたまま続ける。
「むしろ分かりやすくていいわ。危険な人間が誰なのか一目で分かるもの」その言葉は冷たかった。
残酷ですらある。
だが、それがフィアの価値観なのだろう。
朔夜は少しだけ苦笑した。
「フィアって結構厳しいよな」
「そうかしら?」
「そうだよ」朔夜は肩をすくめる。
そしてふと気になったことを口にした。
「じゃあさ」
「なに?」
「フィアはなんかしたの?」
「?」
「犯罪」
フィアの足がぴたりと止まった。
「そうねー。私、いや、私もエレジアもそうだけど、私たちは混沌のルールによって原罪種や終焉種になったわけではないの。つまり"最初"からよ」フィアはそう言いながら髪をかき上げた。
「最初から?」
「ええ。エレジア達六体の終焉種は元々人間だったけれど、自分たちの力で終焉種になったの。混沌の呪いはそれを疑似的に再現しているだけ。だから混沌によって生まれた原罪種は理性を保てないのが欠点ね」そこでフィアは少し考えるような顔をした。
「あ、私は終焉種じゃないわ」
「違うのか?」
「もっと特異なものと思ってくれていいわ」そう言うとフィアは唇に人差し指を当てる。
「詳しくは乙女の秘密ね」内緒話をする子供のような仕草だった。
「なるほどねえ」朔夜は苦笑する。
結局よく分からなかった。
「じゃあ、その混沌を倒せばあの人たちは元に戻れるのかな」朔夜は通りを歩く異形たちへ視線を向けた。
角の生えた男。
鱗に覆われた女。
どの顔にも活気がない。
まるで人生を諦めているようだった。
「戻らないわ」フィアは即答した。
あまりにも迷いのない返答だった。
「体の構造を不可逆的に変えている呪いだもの。加熱した卵が生卵に戻らないのと同じよ」
「……」
「それに、自業自得の部分もあるわ。私は別にかわいそうだとは思わない」フィアの声は冷たい。
しかしそこに悪意はない。
ただ事実を述べているだけだった。
「それもそうか……」朔夜は曖昧に頷いた。
だが、胸の奥には小さな引っ掛かりが残っていた。
本当にそうなのだろうか。
原罪種になった者は皆、紛れもない罪人なのだろうか。
冤罪。
正当防衛。
あるいは誰かを庇った結果。
そんな事情でルールに触れてしまった人間はいないのだろうか。
混沌のルールは結果だけを見るのか。
それとも過程まで見ているのか。
そもそも誰が有罪を決めるのだろう。
裁判官がいるのか。
神がいるのか。
あるいは混沌そのものが判断しているのか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
朔夜は再び原罪種たちへ目を向けた。
監視されながら歩く彼らの姿は、罪人というよりも檻の中の動物のように見えた。
少なくとも。
全員が全員、心から罰されるべき悪人には見えなかった。
「ねえ、サクヤ? おなかすいた?」フィアは唐突にそんなことを言った。
先ほどまで原罪種や混沌について話していたというのに、まるで何事もなかったかのような話題転換だった。
おそらく気を遣ったのだろう。
朔夜が考え込んでいることに気付いて。
少しでも重苦しい空気を変えようとして。
不器用ながらもそんな意図が感じられた。
「おなかすいた」朔夜は即答した。
「屋敷で何かおいしいものが食べられるって話だったのに騙されたよ」
その瞬間、腹の虫が抗議するように鳴った。
ぐうう、と情けない音が響く。
食べ物につられてエレジアの屋敷まで来たというのに、待っていたのは終焉種の話と世界の命運についての会話ばかりだった。
出てきたのは紅茶くらいである。
「ほんとうよね」フィアは不満そうに頬を膨らませる。
「エレジアが勝手に長話を始めたせいよ」
「こっちの世界も、あっちの世界も基本的な食材は同じよ。だからきっとサクヤの舌にも合うわ」そう言うとフィアは機嫌を取り戻したように歩き出す。
しかも少しだけスキップしている。
どうやら食事の話になると彼女も嬉しいらしい。
「フィアは料理できるの?」朔夜はなんとなく聞いてみた。
するとフィアは胸を張った。
「できるわ」その返答には妙な自信があった。
「パスタのお店を開いてるもの」
「へえ」朔夜は感心した。
終焉種だの世界の危機だの言っている少女が、まさか飲食店経営者だったとは思わなかった。
「私の趣味ね」
「趣味で店?」
「趣味で店」フィアは当然のように頷く。
朔夜は少しだけ感覚の違いを感じた。
「……そういえばフィア」
「なに?」
「フィア、終焉領域に出てどれくらい経つんだ?」
「1週間くらいかしら」
「店は?」
「閉めてないわ」
「え?」
「店番の子がいるもの」フィアはきょとんとした顔をした。
「いや、一週間も店長がいなくて大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。優秀な子だから」フィアは何の疑問も抱いていないらしい。
むしろ自信満々だった。
「きっと何とかしてくれているはずよ」
その言葉を聞いて、朔夜は店番の顔も知らない誰かに同情した。
絶対苦労している。
間違いなく苦労している。
店長が突然一週間失踪しているのだ。
優秀とかそういう問題ではない。
だがフィア本人はそんなことを気にした様子もなく、鼻歌交じりに歩き続けている。
まあ、いいか。
朔夜は考えるのをやめた。
今は腹が減っている。
原罪種のことも、混沌のことも、終焉種のことも。
全部後回しだ。
とりあえず。
うまい飯が食えるならそれでいい。
朔夜は少しだけ歩く速度を速め、楽しそうに先を行くフィアの後を追った。




