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鐘の鳴った日

# 第9話「鐘の鳴った日」


## 前半(事件当日の朝・調査開始)


夜が明けた。


ロインは火の近くで目を覚ました。

昨夜、ガレンの隣で眠ったままだった。

ガレンはもう、火の前にはいなかった。寝具に入って、休んでいる。火の番はいつの間にか父に交代していた。


父は火の前で何か書いていた。

ロインから見ると父は地図に何かを書き加えているらしかった。

父の手の動きはいつもと同じ静かさだった。けれど、目だけがいつもよりも強く、地図に注がれていた。


「お父さん」

ロインが小さく呼んだ。

「ん?」

「眠れた?」

「少し」

「俺と一緒、寝なくてよかった?」

「ガレンが横にいたから大丈夫だ」

「ガレンも寝た?」

「さっき」


父はそう言って、地図から目を上げた。

ロインを見て、少し笑った。

笑い方はいつもよりほんの少しだけ、柔らかかった。


「ロイン」

父が呼んだ。

「ん?」

「今日、起きたら、村に戻る話をしようと思う」

「戻る?」

「中の本格調査は今回はやめる。家に帰って、お前の母さんに村の鐘の話を聞いてからもう一度、考える」

「ふん」

「お前にも村のセラにもう一度、会わせてあげられる」

「ほんとう?」

「ほんとうだ」


ロインは少しだけ、息を吸った。

胸の奥が軽くなった気がした。

セラにもう一度、会える。

予定よりずっと早く。


「お父さん、ありがとう」

ロインが言った。

父は答えなかった。代わりにロインの頭を軽く、撫でた。

父がロインの頭を撫でるのはめったになかった。


──


しばらくするとリーサが寝具から起きてきた。

顔はまだ少し、眠そうだった。けれど、目だけがもう、しっかりと開いていた。


「カイル」

リーサが声をかけた。

「ん?」

「昨日の夜、もう一度、手帳を見直したの」

「何か、出てきたか?」

「ええ」

リーサは父の隣に座り、手帳のページを開いた。

ロインは二人の話を横で聞いていた。聞こえないふりはしなかった。聞いていてもいい話だ、と父がそう振る舞っていたからだ。


「祠の中の鐘の側面に文字が6つ、あった」

リーサが言った。

「俺も見た。お前の手帳に書いてある」

父が目を伏せるように目を細めた。

「その6文字、私、見覚えがあるの」

「どこで?」

「マレンが私に見せてくれた本」

「マレンの?」


父の手が地図から離れた。


「いつ、見せてもらった?」

「もう、10年以上前。あなたとマレンが結婚する、少し前」

「マレンがお前にそれを見せたのか」

「学者の本、と言っていたわ。彼女のお母さんから引き継いだもの」

「俺はその本のことをよく知らない」

「マレンはあなたには見せていない、ということ?」

「そうだ」


父はしばらく、リーサを見ていた。

リーサも父を見返した。

二人の間にロインには見えない、何かが流れた。


「リーサ」

父がようやく口を開いた。

「俺は村に戻る決定を変えない」

「そう」

「戻ってからマレンにその本のことを聞く」

「いいと思う」

「お前も村に来てくれるか?」

「行く」

「マレンともう一度、話してくれ」

「ええ」


リーサは父に目を伏せた。

父もリーサに頷き返した。


──


ヴェルとシルヴァが続いて起きてきた。

ヴェルはいつも通りの顔だった。馬の世話を始めるために火の前をすぐに離れた。

シルヴァは寝具から起きた後、しばらく、ぼんやりと空を見上げていた。


ロインはシルヴァを横目で見ていた。

シルヴァの目にはまだ、昨夜の「引かれている色」

が、残っていた。

むしろ、昨夜より強くなっている気がした。


「シルヴァ」

父がシルヴァに声をかけた。

「はい」

「今日は村に戻る」

「戻る?」

「中の本格調査はしない」

「……」

シルヴァはしばらく、答えなかった。

火の前でしゃがんだまま、地面を見ていた。

「シルヴァ?」

父がもう一度、呼んだ。

「あ、はい」

シルヴァはようやく顔を上げた。

「わかりました。村に戻りましょう」


返事ははっきりしていた。

けれど、目はまだ、別のものを見ていた。


ロインはそれを見ていた。

胸の奥で何か、強い、警告のようなものがまた、ざわついた。

夏のフェルニ村の森でトルムが野犬の前で震えた時の、あの感じに似ていた。

冬の村の北で父が狼の前で剣を半分抜いた時の、あの感じにも似ていた。


何かが起きる。

ロインの胸はそう告げていた。


ロインはポケットの上から布袋に手を当てた。

三つの石が布袋の中で互いに触れた。

セラのお守り。

ロインは強く、握った。


──


朝食を6人で急いで取った。

パンと干し肉と薬草の茶。

誰も多くを話さなかった。


食事の後、父が6人を集めた。

「今日、出発する」

「もう?」

ヴェルが驚いた声を出した。

「馬車に荷物を積み直してくれ」

「外周の調査は?」

「いい。今回はやめる」

「わかった」

ヴェルはそれ以上は聞かなかった。


ガレンは何も言わずに火を消す準備を始めた。

リーサは自分の手帳をしまった。

シルヴァは薪の片付けにゆっくり、立ち上がった。


ロインは自分の布袋を肩にかけた。

父の隣に立った。

父はロインを横目で見て、少しだけ、目を細めた。


「ロイン」

父が言った。

「ん?」

「もう少しで家に帰れる」

「そう」

「お母さんに会える」

「そう」

「セラにも」

「そう」


ロインは父の言葉を覚えておこうと、思った。

父がこれだけ、続けて、優しい言葉を並べるのは珍しい。

珍しいから覚えておこう、と思った。


──


## 中盤(鐘の鳴った日・事件)


馬車に荷物を積み直す作業が半分ほど、進んだ時だった。


シルヴァの姿が急に見えなくなった。


最初に気付いたのはリーサだった。

「シルヴァ?」

リーサが声を上げた。

全員が手を止めた。

ヴェルが「さっきまで薪のところにいた」

と答えた。

ガレンがすぐに周りを見渡した。


「祠の方だ」

ガレンが低く言った。


父の顔が変わった。

ロインは父の顔がこんなに早く変わるのを初めて見た。

それまでの「いつもの父」

から、「今までに見たことのない父」

に、瞬間で変わった。


「ガレン、お前は俺の後ろ」

父が言った。

「ロインを頼む」

「カイル」

ガレンがすぐ応じた。

「お前一人で行くな」

「行く。お前はロインを守れ」


父は走り出した。

祠の方角に。

ガレンはロインの腕を強く、掴んだ。

「ロイン、ここを動くな」

「そう」


リーサとヴェルが父の後を追って、走った。


ロインはガレンに掴まれたまま、祠の方角を見ていた。


──


しばらくして、声が聞こえた。


「シルヴァ、戻れ!」


父の声だった。

普段の父の声ではなかった。

これまでロインが聞いたことのある、どの父の声とも違っていた。

怒り、ではなかった。

命令、でもなかった。

祈り、に近かった。

父が誰かに祈るような声を出すのをロインは初めて聞いた。


「カイル、待って、これは……」


リーサの声が続いた。

「これは──」


リーサの声が途切れた。


──


そして、それが聞こえた。


鐘の音だった。


一度だけ。

低く。

長く。

ロインの腹の奥まで響いてくる音だった。


夏の森の中。

鳥のいない森。

虫のいない森。

そこに一度だけ、鐘が鳴った。


──


ロインは息を止めた。

止めた息を戻すことができなかった。


ガレンの腕がロインを強く、抱き寄せた。

ロインの身体がガレンの胸に押し付けられた。

ガレンの心臓の音がロインの耳に直接、伝わった。

ガレンの心臓はいつもよりずっと速く、打っていた。


「目を閉じろ、ロイン」

ガレンがロインの耳元で言った。

「そう」

ロインは目を閉じた。


閉じた目の中でロインは、それでも感じた。


風の流れが変わった。

祠の方から強い、流れ。

そして、覚えのない匂いが急に濃くなった。

昨日の風に混じっていた、あの匂い。

鉄でも土でも木でもない、何か。

それが今、洪水のように流れてきた。


「カイル」

ガレンが叫んだ。

「カイル!」


父の答えはなかった。


「リーサ! ヴェル!」

ガレンが続けて叫んだ。

答えはない。


「シルヴァ!」


答えはない。


──


ロインは目を開けた。


開けてはいけない、と、ガレンが言ったわけではない。

ただ、開ける怖さがあった。けれど、開けないともっと怖い気がした。

ロインは開けた。


祠の方角を見た。


霧が流れていた。

祠の入口から白い、しかし、白くない、何かが地面を這うように流れ出していた。

霧は夏の昼の光の中で薄く光っていた。光っている色は青みがかった灰色だった。

ロインのポケットの中の、3つの石と同じ色だった。


光と霧の中に人影はなかった。


父も。

リーサも。

ヴェルも。

シルヴァも。


誰もいなかった。


「カイル」

ガレンの声がもう一度、聞こえた。

今度のガレンの声は叫びではなかった。

小さく、低く、ほとんど、つぶやきに近かった。

「カイル、お前、また」


「また」

ロインはその言葉を聞いた。

ガレンは「また」

と言った。

何の「また」

か、ロインにはわからなかった。

ただ、ガレンがそれを知っている、というのはわかった。


──


ガレンがロインを抱き上げた。

「ロイン、しっかり、掴まれ」

「そう」

「祠の方は見るな」

「そう」


ガレンはロインを抱えたまま、馬車の方に走った。

ガレンの足はこれまでロインが見たことのある、どんな大人の足よりも速かった。


馬車に着くとガレンはロインを馬車の客席に乗せた。

「動くな」

「そう」

「お前はここにいろ」

「ガレンは?」

「俺はもう一度、戻る」

「もどる?」

「お前のお父さんを探す」

「俺も行く」

「ダメだ」

ガレンの声は強かった。

「お前はここにいろ。動くな」

「そう」


ガレンは馬車から離れ、もう一度、祠の方角に走った。


ロインはガレンの後ろ姿を見ていた。

ガレンの背中が霧の中に消えた。


──


しばらく、時間が止まった。


ロインは馬車の客席で動かなかった。

動けなかった、というのが正確だった。

身体が震えていた。

膝が震えていた。

胸の奥が震えていた。


ロインはポケットから3つの石を出した。

布袋の中で3つの石が互いに触れていた。

3つとも夏の朝の地面の温度よりももっと冷たくなっていた。

セラの「お守り」

だった。


セラ。

ロインはその名前を口の中で呼んだ。

セラ。

セラ。


涙が出るはずだった。

けれど、出なかった。

身体の中の水分が全部、止まっているような感覚だった。


──


ロインは思い出した。


母の言葉。

「見たものを覚えていなさい」

「忘れることはもう一度、起こすこと」

「覚えていれば、それが何か、わかる」


ロインは目を開けた。

祠の方を見るな、とガレンは言った。

けれど、ロインは見た。


霧はまだ、流れていた。

青みがかった灰色の光が霧の中でゆっくり、動いていた。

光の中に人の影が見えそうで見えなかった。


ロインは見た。

覚えるために見た。

忘れない、ために。

母の言葉を守るために。

父が最後にどこに消えたか、を、覚えるために。


──


ガレンが戻ってきた。


ガレンは一人だった。

父もリーサもヴェルもシルヴァもガレンの隣にはいなかった。

ガレンの右手に革表紙の手帳が握られていた。

リーサの手帳だった。

リーサは消えた。

けれど、リーサの手帳は地面に残っていた。

ガレンはそれを拾ってきた。


ガレンが馬車に近づいた。

ロインの顔を見た。

ガレンの顔はいつもの「無口で優しい顔」

ではなかった。

ロインが見たことのない、別の顔だった。

深い、深い、悲しみを必死で抑えている顔だった。


「ロイン」

ガレンが呼んだ。

「ん?」

「お前の、お父さんは」

「お父さんは?」

「戻ってこない」


ガレンの声は震えていなかった。

震えていないからこそ、その重さが強かった。


ロインは何も答えなかった。

答え方がわからなかった。


ガレンは馬車に乗った。

御者席に座って、手綱を握った。

リーサの手帳をロインの隣に置いた。


「これはお前が持っていろ」

ガレンが言った。

「リーサの?」

「お前のお母さんに渡してくれ」

「そう」

「俺たちは村に戻る」

「そう」


ガレンが手綱を揺らした。

馬が動き始めた。

馬車も動いた。


──


## 後半(意識の沈降・章末)


馬車は東の森から離れた。


ロインは客席でしばらく、座っていた。

リーサの手帳が隣にあった。

3つの石はポケットの中だった。

ナイフは腰のままだった。


馬車の客席から振り向くと霧はまだ、祠の方角に見えた。

青みがかった灰色の光が霧の中で点滅していた。

遠くなるにつれて、霧は小さくなった。


ロインは声を出さなかった。

ガレンも何も言わなかった。

馬の蹄の音だけが規則的に地面に響いていた。


──


しばらくして、ロインの身体に急に疲れが来た。

身体が重くなった。

目が開けていられなくなった。


「ガレン」

ロインがようやく口を開いた。

「ん?」

「眠い」

「眠れ」

「そう」

「俺がいる」

「そう」


ロインは客席で横になった。

ガレンの背中が御者席に見えた。

ガレンの背中は父の背中とほぼ、同じ大きさだった。

けれど、父の背中ではなかった。

父の背中はもう、ここにはない。


ロインの目からようやく、涙が流れた。

止まらなかった。

声は出さなかった。

ガレンに聞かれたくない、と、なぜか、思った。


涙が流れている間、ロインは考えた。


セラに何と伝えればいいか。

「絶対、帰ってくる」

と、約束した。

ロインは帰ってくる。

けれど、父は帰らない。

それをセラにどう、伝えればいいか。


母に何と伝えればいいか。

父は戻らない。

リーサも戻らない。

ロインはリーサの手帳を母に渡す。

母はそれを見て、何を思うだろうか。

母の手の震えがもう一度、見えるだろうか。

冬の朝、「鐘」

と聞いて、母の手が震えた、あの時のことをロインは思い出した。


母は知っていたのかもしれない。

鐘が何か。

何が起きるか。

ロインはそれを覚えておこう、と思った。


──


ロインは意識をゆっくり、失った。

最後に見たものは馬車の客席の天井だった。

天井の木目が見える。

木目の中に白い、霧のような、模様が浮かんで見えた。

気のせいだ、と、思った。


ガレンの背中がまだ、見えた。

ガレンの背中は揺れなかった。

ガレンは馬の手綱を確実に握っていた。


「絶対」

ロインは口の中でもう一度、呟いた。

セラに約束した言葉だった。

セラにもう一度、会う。

絶対。


──


意識が深いところに沈んでいく時、ロインは母の声を聞いた気がした。


「これを覚えていなさい」


母の声か、それともリーサの声か、ロインにはわからなかった。

両方とも似た声だった。

両方とも「覚えていなさい」

と、言っていた。


ロインは目を閉じた。


──


ガレンが振り返った。

ロインが寝具の上で眠っているのを確認した。

それからガレンはもう一度、前を向いて、手綱を握った。


ガレンの背中が夏の昼の光の中で揺れずに続いた。

馬車は東の森からゆっくり、離れていった。

祠の方角の霧はもう、見えなかった。


ロインは眠っていた。

ロインの腰には父が作ったナイフ。

ロインのポケットにはセラの3つの石。

ロインの隣にはリーサの手帳。


ガレンの手帳の中にシルヴァの名前はもう、書かれない。

カイルの名前もリーサの名前もヴェルの名前も書かれない。


──


その日が後に「鐘の鳴った日」

と呼ばれた。


ロインがその名前を知るのはもっと先の話だった。


──


(第9話本文終わり)

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