八歳の春_知らない場所で
# 第10話「八歳の春、知らない場所で」
知らない天井だった。
低く木目が荒い。隙間からわずかに光が漏れている。
ロインはゆっくり、瞬きをした。
体が重い。
喉が渇いている。
頭の中に靄がかかっていた。何かを思い出そうとして思い出せない。
ベッドの脇に小さな机があった。
木の水差しと杯が置かれている。
手を伸ばす。
指先が震えていた。両手で杯を支えて、水を注いだ。
一口、飲む。
冷たかった。
喉の奥がひりひりと痛んだ。
そこで、ようやく、思い出した。
鐘の音。
低く、長く、骨の奥まで響いた音。
霧の色。
セラの石と同じ、青みがかった灰色。
そして、いなくなった人たちのこと。
カイル。
リーサ。
ヴェル。
シルヴァ。
四人が消えた。
胸が痛んだ。
肺の奥がぎゅっと縮んで息が上手く吸えない。
ロインは杯を机に戻した。
それからベッドに倒れ込んだ。
毛布を頭まで被って目を閉じる。
それでも霧の色は消えなかった。
──
階下から人の声が聞こえた。
低い男の声。
何かを運んでいるような足音。
ロインは毛布の隙間から目だけを出した。
部屋は狭い。
ベッドと机と小さな窓が一つ。
窓の外から人々の話し声が聞こえてくる。子供の笑い声も。荷車の車輪の音も。
知らない街の音だった。
フェルニ村では聞いたことのない音。
ロインはゆっくり、起き上がった。
足がふらついた。
それでも窓まで歩いた。
外を覗いた。
石畳の道。
両側に木と石でできた二階建ての家が並んでいる。看板がたくさん出ていた。文字も絵も村では見たことのないものばかり。
人がたくさん歩いていた。荷物を運ぶ人。子供と手を繋いだ人。馬を引いた人。
知らない街だった。
ロインは窓枠を握った。
帰りたい、と、思った。
母のところに帰りたい。
──
階段を上ってくる足音がした。
低く重い足音。
戸がゆっくり、開いた。
ガレンだった。
両手に木の盆を持っていた。盆の上に湯気の立った椀とパンが載っている。
「起きたか」
ガレンの声は低かった。
ロインは振り返った。何も、言えなかった。
ガレンは机の上に盆を置いた。
「食え」
短く、それだけ言った。
ロインはベッドに座った。椀を覗き込む。
中に薄い色のスープが入っていた。湯気と一緒に温かい匂いが立ち上る。芋と肉の匂いだった。
「ここは」
ロインの声は掠れていた。
ガレンはベッドの端に腰を下ろした。
「俺の店だ。王都ロワン、ハーレム街のはずれ」
「王都」
ロインは繰り返した。
王都という言葉は父から何度も聞いたことがあった。
けれど、実際に来たのは、初めてだった。
「俺の店の二階だ。今お前が寝てる部屋。当分、ここにいろ」
ガレンの言葉は短い。
けれど、断る隙がなかった。
ロインは椀を手に取った。
匙でスープをすくう。
口に運んだ。
温かかった。
舌の上で芋の甘さがほどけた。
それなのに、涙が出た。
なぜ出たのか、わからなかった。
ロインは匙を握ったまま肩を震わせた。
ガレンは何も言わなかった。
ただロインの隣に座って黙っていた。
──
しばらくして、ロインは尋ねた。
「母さんは」
声が小さくなった。
「フェルニ村にいる」
ガレンが、答えた。
「無事?」
「無事だ」
「他は?」
ガレンが少しだけ、間を置いた。
「トルムもエリンもマイアもハヤもみんな無事だ。お前のお母さんが知らせを受け取った」
ロインは椀をぎゅっと握った。
温かさが指先に染みた。
「俺は村に戻る?」
ガレンの目がロインを見た。
鈍い青の瞳だった。
左目の傷が朝の光に少しだけ光った。
「一度戻る。お前のお母さんに会いに」
「それから?」
「それはお前のお母さんと話してから決める」
ガレンの言い方には何か含みがあった。
ロインはそれを感じた。
けれど、追って、聞かなかった。
聞く力が、今は、なかった。
──
ロインはスープを最後まで飲んだ。
パンも半分、食べた。
ガレンは食器を盆に戻した。
「もう少し休め。夕方になったら出る」
「夕方?」
「夜のうちに村の近くまで行く。明日の朝に村に入る」
「そう」
ガレンが立ち上がった。
戸の前まで来て、振り返った。
「ロイン」
「ん?」
「お前の腰のナイフ机の上だ。3つの石も、リーサの手帳も、机の上に置いてある。確認しろ」
「そう」
ガレンは戸を閉めた。
階段を下りていく足音が聞こえた。
──
ロインは机を見た。
ナイフ。
父が作ってくれたナイフだった。革の鞘に入っている。
布袋。
中に3つの石が入っているはずだった。袋の口を開けると確かに3つあった。青みがかった灰色。セラの「お守り」。
革表紙の手帳。
リーサの手帳だった。
ガレンが祠の地面から拾ってきたもの。
ロインは手帳に手を伸ばした。
触れる前に止まった。
開ける勇気が、まだ、なかった。
母に渡すまで、開けない方がいい気がした。
それは自分が決めたことではなく何かが言っているような感覚だった。
ロインは手帳の革表紙にだけ指で触れた。
ざらついていた。
リーサの指がいつもこの表紙に触れていた。
ロインはそれを思い出した。
──
ロインはもう一度ベッドに横になった。
目を閉じる。
眠れる気はしなかった。
それでも目を閉じた。
階下から、ガレンが誰かと話す声が聞こえた。
内容まではわからない。
ただガレンの声ともう一人の男の低い声が交互に聞こえた。
時々ガレンの声が短く強くなった。
何かを断っているような声だった。
ロインはそれを聞いていた。
聞きながら、いつの間にか、眠っていた。
──
目が覚めた時、窓の外の光は赤かった。
夕方になっていた。
戸が開いた。
ガレンが立っていた。
「ロイン、出るぞ」
「そう」
ロインはベッドから降りた。
ナイフを腰に差した。
3つの石をポケットに入れた。
リーサの手帳を胸に抱えた。
ガレンが背中の革袋を肩に掛けていた。
ガレンの腰にはロインが見たこともない太い剣がぶら下がっていた。
「その剣」
ロインが思わず言った。
「昔のだ」
ガレンが、答えた。
「夜の道だからな」
ロインは何も言わなかった。
ただガレンの剣を見ていた。
ガレンが普段のバーのおじさんとは違う姿に見えた。
これがガレンの本当の姿なのかとロインはぼんやり思った。
──
階段を下りた。
一階は店だった。
木のカウンターがあって、奥に酒の樽が並んでいた。
椅子と机がいくつか。
天井の梁から、古い鐘が一つ、ぶら下がっていた。
ロインはその鐘を見た。
森の鐘と、形が違った。
小さくて、銀色で、表面に文字も模様もない。
普通の鐘だった。
それでもロインの胸が一瞬ざわついた。
鐘というものが、もうただの鐘には見えなかった。
ガレンがロインの視線に気づいた。
「呼び鈴だ。客を呼ぶ時に使う」
ガレンは短く説明した。
それ以上のことは言わなかった。
「店の名前は?」
ロインが聞いた。
ガレンは少しだけ間を置いた。
「忘れ鐘」
低く答えた。
「忘れ鐘」
ロインは口の中で繰り返した。
意味はわからなかった。
ただ何かを忘れるために、名前を付けたのか、それとも、忘れさせないために付けたのか、ロインは聞かなかった。
ガレンが先に、戸を開けた。
外の空気が流れ込んできた。
村の空気とは違った。
人の匂い、料理の匂い、煙の匂いが混じっていた。
──
馬車は店の裏に止めてあった。
ガレンが手綱を握った。
ロインは客席に乗った。
「行くぞ」
ガレンが言った。
馬車が動き始めた。
ハーレム街の石畳をしばらく進んだ。
両側の家々から、夕食の匂いが漂っていた。
誰かが歌を歌っていた。
子供が泣いていた。
犬が吠えていた。
ロインは客席から外を見ていた。
村にはなかった音が次々と流れて、消えていった。
街の門を出た。
門番が二人、立っていた。
ガレンに会釈をして通した。
ガレンも軽く手を挙げた。
街道に出た。
夜が深くなり始めていた。
道の両側に低い、丘と森が続いていた。
空に星が出始めていた。
ロインは客席の毛布を肩に掛けた。
リーサの手帳を胸に抱えた。
──
「ガレン」
ロインが呼んだ。
「ん?」
「父さんは、戻ってこないの?」
ガレンは前を向いたまま、手綱を握っていた。
ロインの問いに、すぐには答えなかった。
しばらくの沈黙の後、ガレンが口を開いた。
「俺は、戻ってこないと思う」
「思う?」
「絶対とは、言わない。だが、戻ってこない可能性が高い」
「リーサも? ヴェルも? シルヴァも?」
「ああ」
ガレンの声は低かった。
それ以上は説明しなかった。
ロインは星を見ていた。
夏の星座だった。
父が教えてくれた北の七つの星が見えた。
「ガレン」
「ん?」
「父さんとガレンは昔、何があったの?」
ガレンの手綱を握る手が一瞬止まった。
それからまた動いた。
「それはお前のお母さんと話した後だ。お母さんが話したいならお前に話す」
「母さんは、知ってる?」
「ある程度は」
「そう」
ロインはもう聞かなかった。
聞いてはいけない領域があるとロインは感じた。
──
馬車は夜の街道を進んだ。
ガレンは何度か、ロインに寝るよう促した。
ロインは何度か、目を閉じた。
けれど、深くは眠れなかった。
夜の中、時々、フクロウの声が聞こえた。
村の森のフクロウとは少しだけ声が違った。
馬の蹄の音だけが規則的に続いていた。
ロインは星を見ていた。
リーサの手帳を抱えていた。
3つの石はポケットの中で互いに触れて微かな音を立てていた。
夜が明け始める頃、馬車は森に入った。
東の森だった。
フェルニ村の近くの森。
匂いでロインはわかった。
村の森、夏の朝の匂い。
「もうすぐだ」
ガレンが言った。
「そう」
──
馬車が村の入口に着いたのは、朝の早い時間だった。
村の人たちが、もう起きていた。
井戸の周りに数人が集まっていた。
ロインが馬車から降りた。
ガレンも降りた。
村の人たちが、ロインに気づいた。
「ロイン」
誰かが呼んだ。
別の誰かが駆け寄ってきた。
ロインは知っている顔ばかりだったが誰もが普段と違う表情をしていた。
悲しみと安堵と何かを聞きたいような表情が混ざっていた。
ロインは何も言わずに家の方へ歩き出した。
ガレンが少し後ろを歩いた。
──
家の戸の前に立った。
戸はいつもと同じだった。
父が直した戸の金具。
ロインは指でその金具に触れた。
冷たかった。
戸を開けた。
家の中の匂いがした。
母の作る麦の粥の匂い。
父の使っていた木の油の匂い。
ロインが生まれてからずっと変わらなかった匂い。
「母さん」
ロインが呼んだ。
奥から、足音がした。
ゆっくり近づいてくる。
母が現れた。
マレンだった。
母は痩せて見えた。
たった数日でこんなに痩せるものかとロインは思った。
頬がこけて目の下に深い影があった。
それでも母は立っていた。
背筋を伸ばして立っていた。
母の目がロインを見た。
ロインの目を母は黙って見ていた。
何も言わなかった。
それから母は腕を広げた。
ロインは母の胸に飛び込んだ。
声を上げずに泣いた。
母も声を上げずに泣いた。
二人とも声を出さなかった。
ただ互いに強く抱きしめていた。
ガレンは戸の外に立っていた。
中には入らなかった。
ガレンは戸の外で黙って空を見ていた。
──
母が落ち着くまでしばらく時間が要った。
母はロインの頭を撫でた。
何度も何度も撫でた。
「無事で」
母がようやく口を開いた。
「無事でよかった」
「父さんは」
ロインが言った。
「戻らない」
母が即答した。
母の声は震えていなかった。
震えていないからこそ、重さが強かった。
「知ってた?」
ロインが聞いた。
母は少しだけ間を置いた。
「いつか、こうなる、と、思っていた」
「いつか」
「あなたのお父さんはいつかまた行くとわかっていた。だからこうなるということも覚悟していた」
母の言葉は静かだった。
怒りも嘆きも混ざっていなかった。
ただ長い時間をかけて用意してきた言葉のような響きだった。
ロインは何も言えなかった。
母がロインの手を取った。
「ガレンさんを呼んでらっしゃい」
ロインは戸の外に出た。
ガレンが空を見ていた。
ガレンの横顔はいつもよりも深かった。
「ガレン、母さんが呼んでる」
「ああ」
ガレンが家の中に入った。
──
家の中で、三人が向かい合った。
母とガレンが机を挟んで座った。
ロインは母の隣に座った。
ロインは胸に抱えていたリーサの手帳を、机の上に置いた。
「これ、リーサのもの。ガレンが祠で拾った」
ロインが言った。
母の手が動いた。
手帳に触れた。
革の表紙を撫でた。
母の手が震えた。
ほんの少しだけ震えた。
「リーサ」
母が呟いた。
母は手帳を開いた。
最後のページからゆっくり戻っていった。
リーサの字。
古代文字。
紋様。
雲の流れ。
霧の濃度。
母の指がページの上で止まった。
古代文字のページだった。
母は長い間そのページを見ていた。
「マレン」
ガレンがようやく口を開いた。
「リーサは、書いてました」
母が答えた。
ガレンの方を見ずにページを見たまま答えた。
「私が見せた本のことを。リーサは覚えていました」
「俺も覚えている」
ガレンが言った。
「あの夏のことを?」
「ああ」
母とガレンの会話は二人にしかわからない領域があった。
ロインはその領域の外にいた。
それを感じながらロインはただ聞いていた。
──
母がページから顔を上げた。
ロインの方を見た。
「ロイン」
「ん?」
「あなたに話しておかなければいけないことがあります」
母の声は静かだった。
「母さんの家のこと。母さんがどこから来たかということ」
「フェルニ村じゃないの?」
「フェルニ村は嫁いできた村。私が生まれたのはもっと北。北の森の中の村」
「北の森」
ロインは繰り返した。
「私の家は学者の家系だった。古い書物を扱う家。古代の文字を読む家」
母の言葉はゆっくり出てきた。
一語一語確かめるように出てきた。
「私は子供の頃、家の書庫でたくさんの本を読みました。古い本。誰も読まない本。中に、鐘のこと霧のこと人が消える場所のことが書かれていた本も、あった」
「鐘」
ロインが小さく言った。
「ええ」
母が頷いた。
「東の森の祠の、鐘」
「あの鐘も書物に書かれていたの?」
「同じ鐘ではないかもしれない。けれど似たような鐘の話は複数ありました。鐘が鳴ると人が消える。消えた人は戻らない。あるいは長い時間が経って別の場所で別の姿で戻る」
ロインは息を呑んだ。
「別の姿?」
母は少しだけ間を置いた。
「これは書物に書かれていたことです。本当かどうかはわからない。ただ書かれていたというだけ」
「そう」
ロインは言った。
──
ガレンが口を開いた。
「マレン、それはあなたの父親の代の話ですか?」
「いいえ、もっと古い」
母が答えた。
「私の祖父の祖父よりも古い時代の書物」
「カイルはそれを知っていた?」
「ある程度は。あなたと一緒に遠征に行く時、カイルは私の書物を何冊か読んだ。だからカイルも可能性は知っていた。けれど行った。彼はそれでも行った」
母の声に初めてわずかな震えが混じった。
ロインはそれを聞いた。
ガレンが目を伏せた。
「カイルはそういう人だった」
ガレンが低く言った。
「ええ」
母が答えた。
「カイルは知っていて行く人だった。私はそれを止められなかった。今度も止められなかった」
──
しばらく沈黙が続いた。
ロインは母の隣で机の上のリーサの手帳を見ていた。
古代文字のページが開いたままだった。
ロインが口を開いた。
「母さん」
「ええ?」
「父さんは本当に戻らないの?」
「わからない」
母が答えた。
「ただ戻らない可能性が高いというだけ」
「鐘が鳴って消えた人は戻らないって書物に書いてあったんでしょ?」
「書いてあった。けれど戻った人の話も書いてあった」
「戻った人?」
ロインが顔を上げた。
母が頷いた。
「ごく稀に戻った人がいたと。けれど戻った人はもう元の人ではなかったと。記憶も姿も変わっていたと」
「それでも」
ロインが言った。
「それでも戻ったってこと?」
「ええ」
「だったら」
ロインの声が少しだけ強くなった。
「だったら父さんもいつか戻るかもしれない」
母はロインの顔を見た。
長い間、ロインの顔を見ていた。
それから母は小さく微笑んだ。
痩せた頬に薄い笑みが浮かんだ。
「あなたがそう思うならそう信じていなさい」
母が言った。
「信じることは悪いことではない」
──
母が手帳を閉じた。
革の表紙を撫でた。
「リーサ」
母がもう一度リーサの名前を呼んだ。
「リーサは私の友人でした。書物の話をできる数少ない人だった」
母はガレンの方を見た。
「ガレンさん」
「はい」
「ロインを預かってもらえますか」
ガレンが息を吸った。
深く長く吸った。
「いいんですか」
ガレンが聞いた。
「あなたはロインを村で育てることもできる」
「できません」
母が即答した。
「私にはできない」
「マレン」
「私の体はもう長くない」
母の言葉にロインが顔を上げた。
「母さん」
「ロイン」
母がロインの手を握った。
「驚かないで聞いて。母さんの体はもう長くない。ずっと前からわかっていたこと。あなたがもう少し大きくなるまでと思って隠してきた。けれどもう隠せない」
ロインの目から涙が一気に流れた。
「いつから」
ロインが言った。
「あなたが生まれた頃から少しずつ。ここ二、三年は特に悪い」
「父さんは、知ってた?」
「知っていた」
「それで遠征に行ったの?」
「私が行きなさいと言った。あなたのお父さんは行きたい人だった。私は止めないと決めていた」
ロインは何も言えなかった。
ただ涙が止まらなかった。
──
ガレンが立ち上がった。
窓の方へ歩いて外を見た。
ガレンの背中が震えていた。
ガレンも泣いているとロインは思った。
それでもガレンは声を出さなかった。
しばらくして、ガレンが振り返った。
「マレン」
「はい」
「ロインは俺が預かります」
「ありがとう」
「俺の店で育てます。学園に入る歳になったら入れます」
「ええ」
「あなたはいつまで」
ガレンが言葉を切った。
「あと一年保つかどうか」
母が静かに答えた。
「ロインが九歳になる前には私はもういない」
ロインは泣き続けていた。
声を出さずに、泣き続けていた。
──
母がロインの手を両手で包んだ。
「ロイン」
「母さん」
「母さんはあなたを産んでよかった。あなたが生まれてくれて本当によかった」
「母さん」
「母さんがいなくなってもあなたは生きていきなさい。ガレンさんがいる。トルムもエリンもマイアもハヤもいる。あなたは一人じゃない」
ロインは母の手を握り返した。
強く握った。
「セラは?」
ロインが言った。
「セラもいる?」
母は少しだけ間を置いた。
「セラのことは母さんにはわからない。あの子も何かが起き始めているような気がします。けれどそれが何か母さんにはわからない」
「セラ、無事?」
「無事です。今、村にいます。あなたに会いたがっているはず」
ロインは涙を拭った。
拭っても、拭っても出てきた。
「セラに会ってきていい?」
「ええ。会ってきなさい」
──
ロインは家を出た。
ガレンは家に残った。
母と話すことがまだあるようだった。
ロインは村の道を歩いた。
セラの家は村の北のはずれにあった。
ロインの家から徒歩で五分。
ロインの足は自然にその道を進んだ。
何度も歩いた道。
セラと一緒に歩いた道。
──
セラの家の前に立った。
戸は開いていた。
中からセラの母の声が聞こえた。
ロインに気づいて出てきた。
「ロイン」
セラの母が言った。
セラの母も痩せて見えた。
ロインの母と同じくらい痩せて見えた。
「セラは?」
ロインが聞いた。
「裏の井戸のところ」
セラの母が答えた。
ロインは家の裏に回った。
セラがいた。
井戸のそばに座っていた。
木の桶の縁に手を置いていた。
じっと桶の中の水を見ていた。
「セラ」
ロインが呼んだ。
セラが顔を上げた。
セラの目がロインを見た。
琥珀色の目だった。
いつも通りのセラの目のはずだった。
それでもロインは、何かが違うと感じた。
琥珀の色が、いつもよりほんの少しだけ薄く見えた。
朝の光のせいかもしれなかった。
ただ、その奥に薄い霧のようなものがかかっているような気がした。
気のせいかもしれなかった。
それでもロインは感じた。
──
セラが立ち上がった。
「ロイン」
セラが言った。
「セラ」
ロインも言った。
二人ともそれ以上の言葉が出てこなかった。
しばらくの沈黙の後にセラが言った。
「お父さん戻ってこないんだって」
「そう」
ロインが答えた。
「ごめん」
セラが言った。
「私のお父さんは戻ってきた。ロインのお父さんは戻らないのに」
「セラのせいじゃない」
ロインが言った。
「私のせいじゃないってわかってる。けどごめん」
セラの目から涙が出た。
セラは涙を、隠さなかった。
ただ流していた。
ロインはセラの隣に立った。
何も言わずに、立っていた。
──
しばらくしてロインがポケットから3つの石を出した。
「これ」
ロインが言った。
「持ってた」
セラが3つの石を見た。
セラの目が少しだけ揺れた。
それからセラは首を傾げた。
「それ、何?」
セラが聞いた。
ロインは息を止めた。
「セラのお守り」
ロインが言った。
「セラがくれた。遠征に行く前に3つ」
セラはもう一度3つの石を見た。
「ごめん」
セラが言った。
「覚えてない」
──
ロインの胸の中で何かが崩れた。
崩れた。けれどロインはそれを顔には出さなかった。
「いいよ」
ロインが言った。
「忘れちゃってもいいよ。俺が覚えてる」
セラはロインの顔を長い間見ていた。
それからセラは首を傾げた。
「ロイン、何か、変」
「変?」
「うん。変。何が変か、わからないけど、変」
セラの言い方は、いつものセラの言い方ではなかった。
どこか、霧の向こうから、話しているような、そんな言い方だった。
ロインは何も、答えなかった。
ただ3つの石を、ポケットに戻した。
──
「セラ」
ロインが言った。
「ん?」
「俺、明日、村を、出る」
「出る?」
「うん。ガレンと一緒に。王都の、店で、暮らす」
セラは少しだけ間を置いた。
「いつ、戻ってくる?」
「わからない」
「そう」
セラはそれだけ答えた。
それ以上のことは、聞かなかった。
ロインはセラの顔を見ていた。
「セラ」
「ん?」
「俺、いつか絶対、また、会いに、来る」
「そう」
セラが答えた。
「待ってる」
セラの返事は、村でいつも聞いたものとは少し違った。
軽くて、薄くて、いつ消えてもおかしくない、ような響きだった。
それでもロインはその返事の響きを覚えた。
忘れないために。
母の言葉を、守るために。
──
ロインは家に戻った。
ガレンがまだ母と話していた。
ロインが入ると、二人は会話を止めた。
「セラには会えた?」
母が聞いた。
「そう」
ロインが答えた。
母はそれ以上、聞かなかった。
ロインの顔を見て、何か、感じたようだった。
──
その日、ロインは家で、母と二人で、夕食を食べた。
ガレンは店に戻って、夜中に、また、迎えに来る、と言った。
ロインと母を、二人にする、ための、配慮だった。
母の作る麦の粥。
父の好きだった、塩漬けの野菜。
ロインの好きだった干し肉。
母はゆっくり食べた。
ロインもゆっくり食べた。
二人とも、ほとんど、話さなかった。
それでも二人とも、満ち足りた表情だった。
ロインはそれを覚えた。
──
夜、ロインは母の隣で寝た。
母の腕がロインを抱いた。
ロインが小さい頃に何度もこうして寝たようだった。
ロインはそれを覚えていた。
「ロイン」
母が言った。
「ん?」
「母さんは、あなたに、ひとつ、お願いがあります」
「ん」
「あなたが、これから見るものは、たくさんある。良いものも、悪いものも、たくさんある。母さんは、もうあなたと一緒には、いられない。だから、母さんの代わりに、あなたが、見て、覚えてください」
「そう」
「忘れることは、もう一度起こすこと。覚えていれば、それが何か、わかる」
「うん。覚えてる」
「ええ。あなたは、覚えている」
母の腕が、強くロインを抱いた。
ロインは目を閉じた。
母の鼓動が、耳に伝わった。
父の鼓動と、ガレンの鼓動と、違う鼓動だった。
柔らかくて、少しだけ不規則だった。
ロインはその鼓動を覚えた。
忘れないために。
──
夜中、戸を叩く音がした。
ガレンだった。
ロインは起き上がった。
ナイフを腰に差した。
3つの石をポケットに入れた。
リーサの手帳は、母に、渡してあった。
それでよかった。
母が戸まで、ロインを送った。
「行きなさい」
母が言った。
「そう」
ロインが答えた。
母はそれ以上、何も言わなかった。
ロインの頬に、片手を添えた。
その手は、温かかった。
病気の手のはずなのに、温かかった。
ロインはその温度を覚えた。
──
馬車に乗った。
ガレンが手綱を握った。
ロインは客席に座った。
ガレンが手綱を振った。
馬が動き始めた。
馬車が、村の道を、ゆっくり進んだ。
ロインは振り返った。
母が家の前に立っていた。
夜の闇の中で、母の姿が、小さく見えた。
それでも母は立っていた。
背筋を伸ばして立っていた。
ロインの父の妻として、リーサの友人として、フェルニ村のマレンとして、立っていた。
ロインはその姿を覚えた。
忘れないために。
馬車が、坂を下りた。
母の姿が、見えなくなった。
──
街道に出た。
夜が深かった。
星が見えた。
北の七つの星。
父が教えてくれた星座。
ロインは星を見ていた。
「ガレン」
ロインが呼んだ。
「ん?」
「セラが俺のこと忘れてた」
ガレンの背中が一瞬動いた。
「3つの石も忘れてた。俺が、誰か、何が、変か、わからないけど、変、って、言った」
ガレンは何も言わなかった。
しばらく無言で、手綱を握っていた。
それからガレンが口を開いた。
「ロイン」
「ん?」
「セラはもうお前の知ってる、セラじゃないかもしれない」
「そう」
「それでもお前は、セラを、待つか?」
ロインは少しだけ考えた。
それから答えた。
「待つ」
「そうか」
「俺、覚えてるから。母さんが、見て、覚えなさい、って言った。俺、覚えてる」
「そうか」
ガレンはそれだけ言った。
それ以上のことは、聞かなかった。
──
馬車は街道を、進み続けた。
東の森が、遠ざかった。
フェルニ村が、遠ざかった。
母が遠ざかった。
セラが遠ざかった。
ロインは客席で、毛布を、肩に掛けた。
3つの石は、ポケットの中で、互いに、触れていた。
ナイフは、腰のままだった。
ロインは星を見ていた。
眠らずに見ていた。
覚えるために見ていた。
──
夜明け前、馬車は、王都ロワンの、門の手前に着いた。
ガレンが手綱を緩めた。
「ロイン」
「ん?」
「ここから、王都に入る。お前の、新しい家だ」
「そう」
「店の名前は、忘れ鐘」
「そう」
「俺が、お前を預かる。お前のお母さんと、約束した」
「そう」
「お前は、五年、ここで暮らす。五年経ったら、学園に、行く」
「そう」
「俺は、お前に教える。ギルドの魔法を教える。冒険の基礎を教える。世界の見方を教える。お前のお父さんが、教えるはずだった、ことを、俺が、代わりに、教える」
ロインはガレンの背中を見ていた。
「ガレン」
「ん?」
「ありがとう」
ガレンの手綱を握る手が、一瞬止まった。
それからまた動いた。
「礼は、いい」
ガレンが低く答えた。
「俺は、お前のお父さんに、借りがある。借りを、返してるだけだ」
ロインは何も言わなかった。
ただガレンの背中を見ていた。
ガレンの背中は、父の背中と、ほぼ同じ大きさだった。
それでも父の背中ではなかった。
父の背中は、もうここにはない。
それでもガレンの背中は、ここにあった。
──
朝、王都の門が開いた。
馬車が、門をくぐった。
ハーレム街の方向へ、馬車が進んだ。
ロインは客席から、街を見ていた。
知らない街の、知らない朝の風景。
人々が、起き始めて、動き始めていた。
ロインはその風景を覚えた。
忘れないために。
──
馬車が、忘れ鐘の前に止まった。
ガレンが降りた。
ロインも降りた。
ガレンが店の戸を開けた。
中の薄暗さが見えた。
カウンター。
酒の樽。
椅子と机。
天井の梁から、ぶら下がった銀色の鐘。
ガレンが振り返った。
「入れ」
ガレンが言った。
「そう」
ロインが答えた。
ロインは忘れ鐘の戸をくぐった。
──
ロインの八歳の春が、ここから始まった。
知らない場所で、知らない街で、知らない毎日が始まった。
それでもロインはナイフを腰に差していた。
3つの石をポケットに入れていた。
母の鼓動を覚えていた。
父の星座を覚えていた。
リーサの古代文字を覚えていた。
セラの返事を覚えていた。
ロインは忘れないと決めた。
それが、ロインの八歳の春だった。
──
(後に、ロインは五年間を、忘れ鐘で過ごす。
ガレンから、ギルドの魔法を学ぶ。
冒険の基礎を学ぶ。
世界の見方を学ぶ。
その間、母が亡くなる。
セラが村から、いなくなる。
4幼馴染が、それぞれの、道に進む。
それらの出来事を、ロインは一つずつ、覚えていく。
忘れずに、覚えていく。
そして、十三歳の春、ロインはアーカム魔法学園に入学する。
学園で、ロインは変わり切った、セラと再会する。
それは、まだ先の話だった。)
──
第1章編「森の鐘」完。




