遠征の旅
# 第7話「遠征の旅」
## 前半(出発の朝・6人との別れ)
3日後の朝が来た。
ロインはいつもより早く目を覚ました。
天井の光がまだ薄い時間だった。鳥の声もまだ少なかった。
布団から起き上がると家の中にすでに人の動きの気配があった。父と母がもう起きているらしい。
ロインははしごを降りた。
居間では父が出発の準備をしていた。
革の袋をいくつか、テーブルの上に並べていた。袋の中身は食料、地図、書類、ロインには名前のわからない道具。それらを父は慣れた手つきで整理していた。
母は台所で最後のパンを焼いていた。旅の途中で食べるパンらしい。
夏の朝の家の中に薪の煙と焼けるパンの匂いが混じっていた。
「おはよう、ロイン」
父がロインに最初に気付いた。
「おはよう、お父さん」
ロインは答えた。
「準備、できてるか」
「そう」
「腰のナイフ、忘れるなよ」
「忘れない」
ロインは自分の腰を軽く、叩いた。
父が冬に作ってくれたナイフがいつも通り、そこにあった。
母が台所から出てきた。
「ロイン、朝ごはん、食べていきなさい」
「そう」
朝食はいつもより少しだけ豪華だった。
焼きたてのパンと薄い豆のスープと薬草の茶と、それから母が特別に作った、卵を煮込んだ料理。
卵料理は村ではたまにしか出ない。鶏の卵は貴重だ。村の中で卵を持っている家は数えるほどしかない。母はその朝のために村の隣のおばさんから卵を分けてもらってきたらしい。
「お母さん、卵」
ロインが皿を見て、言った。
「最後の朝ごはん、ちゃんとしたいから」
母が笑った。
「最後の?」
「しばらくお母さんの作るご飯、食べられないでしょう」
「ふん」
「東でお父さんにちゃんと食べさせてもらいなさい」
「そう」
父は横でパンを切っていた。
「お母さんの料理ほどではない」
父がそれだけ言った。
母はそれを聞いて、また、笑った。
3人で朝食を食べた。
誰も出発のことを直接、口に出さなかった。
ただ母はいつもよりロインの皿に料理をたくさん、移した。
ロインはそれを残さず、食べた。
朝食の後、ロインは自分の荷物をもう一度確認した。
腰にナイフ。
ポケットの中に二つの石。
小さな布袋の中にハヤがくれた鈴。
別の布袋の中にマイアの祝福の紙。
それからエリンがくれた絵本も革の袋に入れて、持っていく。
トルムがくれた動物の像は家に置いていく。旅に持っていくと壊れそうだったからだ。
すべての持ち物をロインは布袋にまとめた。
布袋は母がロインのために縫ってくれた。
肩からかけられるように紐がついていた。
「行く前に村の子たちに挨拶していらっしゃい」
母がロインに言った。
「そう」
──
外に出るとまだ朝の早い時間だった。
広場には誰もいなかった。
村の人もほとんど、起きていない時間帯だった。
夏の朝の空気はまだ涼しかった。これから日が高くなるにつれて、暑くなる。
ロインは5人の家を順番に回ることにした。
最初にトルムの家に向かった。
トルムの家の前に着くと戸がもう開いていた。トルムはいつも早起きだった。父と一緒に朝の森の仕事に出る。
「トルム」
ロインが戸の前で呼んだ。
「お、ロイン」
トルムは家の中から出てきた。すでに仕事の格好をしていた。
「今日、出発か」
「そう」
「気をつけて行けよ」
「そう」
トルムはそれ以上、何も言わなかった。
ただロインの肩をもう一度強く、叩いた。
昨日の別れの時より強かった。
「父ちゃんにロインによろしく、って言われた」
トルムが付け加えた。
「お父さんに?」
「父ちゃんにロインが東に行くって話したら、父ちゃんが心配してた」
「お父さん、何て?」
「東は知らない方がいいことが多い場所だ、って」
「知らない方がいい?」
「父ちゃんはそれしか、言わなかった」
ロインはトルムの父の言葉を覚えておこうと思った。
東は知らない方がいいことが多い場所。
意味はわからない。けれど覚えておこう。
「行ってくる」
ロインはトルムに頭を下げた。
「気をつけてな」
トルムももう一度言った。
──
次にハヤの家に向かった。
ハヤの家は村の鍛冶屋の隣だ。鍛冶屋の音はまだ始まっていなかった。
ハヤの家の戸を叩くとハヤ自身がすぐに出てきた。
「ロイン!」
ハヤはまだ寝間着だった。
「もう出発?」
「もうすぐ」
「お土産、忘れないでね!」
「忘れない」
「何でもいい。東の、何か」
「そう」
ハヤは寝間着の袖で自分の目を軽く、こすった。
「ハヤ、目、痛いの?」
「ちがう。目にゴミが入った」
「そう」
ロインはそれ以上、聞かなかった。
ハヤの目に何が入ったのかはロインにはわかっていた。
ハヤ自身が「ゴミ」
と言うなら、ゴミ、ということでいいと思った。
「気をつけて行ってきてね」
ハヤが言った。
「そう」
「絶対、帰ってきてね」
「絶対」
ハヤも絶対、という言葉を使った。
セラと同じだった。
ロインはまた、「絶対」
と、答えた。
──
マイアの家は村の南端、教会の近くにある。
ロインが歩いていくと家の前でマイアがもう待っていた。
マイアはロインが来ることを知っていたらしい。
「ロインさん」
マイアは両手を胸の前で組んでいた。
「マイア、おはよう」
「祝福をもう一度受けてください」
マイアはロインの前に進み出た。
それからロインの額に軽く、自分の指を当てた。
「神様の祝福があなたと共にありますように」
マイアの声はいつもよりずっと強かった。
ロインはしばらく目を閉じていた。
マイアの指の温度が額に伝わっていた。
温かい温度ではなかった。けれど冷たくもなかった。
何か、別の、種類の温度だった。
「お母さんもロインさんのために祈ってます」
マイアが続けた。
「ありがとう」
「無事に帰ってきてください」
「そう」
マイアはその後、ロインの手を両手で握った。
それからすぐに離した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
──
エリンの家は村長の家の近くにある。
エリンの家の戸を叩くとエリンの父が出てきた。
エリンの父は村の村長の助手をしている人で村の中では教養のある方の人だ。
「ロイン、聞いたぞ」
エリンの父が笑った。
「東に行くんだってな」
「はい」
「うちのエリンがお前を見送りたい、ってさ。今、起こすからちょっと待っててくれ」
しばらくして、エリンが出てきた。
本を抱えていた。
今日の本はロインの家にもある本に似ていた。
「ロイン」
「エリン」
「これを持っていけ」
エリンが本をロインに差し出した。
「本?」
「旅の途中で暇な時に読め」
「読めない」
「読めなくてもページをめくれ。絵を見るだけでもいい」
「ふん」
ロインは本を受け取った。
本はエリンが持っていたものよりもう少し古い本だった。
ページの紙が黄ばんでいた。
絵がいくつか、入っていた。
ロインの知らない場所の、絵だった。
「これ、どこの場所の本?」
「東の方の、地形の本だ。父ちゃんが持ってた」
「東?」
「お前が東に行くから父ちゃんが貸してくれた」
「お父さん、すごい」
「父ちゃんは村長の助手だから本がいくつかある」
ロインはエリンの父に頭を下げた。
「ありがとうございます」
エリンの父は笑った。
「無事に帰ってきな。本も無事に持って帰ってこい」
「はい」
──
最後にセラの家に行った。
セラの家の戸を叩く前にロインはしばらく立ち止まった。
セラと別れる。
昨日、もう別れた。
今日もまた、別れることになる。
ロインは戸を叩いた。
セラの母が戸を開けた。
セラの母の琥珀色の瞳が朝の光の中で母と同じ色をしているのがもう一度見えた。
「あら、ロイン」
セラの母が笑った。
「セラに会いに来ました」
「セラ、起こしてくる」
「あ、いえ……」
「いいのよ。セラも起きたがってたから」
しばらくして、セラが出てきた。
セラの顔はいつもより白かった。
セラの瞳はいつもより深い、琥珀色だった。
「ロイン」
「セラ」
「今日、出発?」
「そう」
「いつ、出る?」
「お父さんが決めたら」
「すぐ?」
「たぶん」
セラはしばらくロインを見ていた。
セラの目には昨日、ロインが見たものと同じものがあった。
昨日、セラが「絶対?」
と聞いた時の、目だった。
「ロイン、これ」
セラがロインに何かを差し出した。
小さな布袋だった。
ロインが受け取って、中を覗いた。
中にはもう一つの、青みがかった灰色の石が入っていた。
今度の石はこれまでの石より少しだけ、大きかった。
そして、色も少しだけ、濃かった。
「3つ目?」
ロインが聞いた。
「お母さんが見つけた。昨日の夜」
「セラのお母さん、よく、見つけるね」
「最近、家の周りによく、ある、って」
「ふん」
ロインは3つ目の石を自分の布袋の中に入れた。
すでに入っている、二つの石と合わせて、3つになった。
「これ、お守り」
セラが言った。
「お守り?」
「お母さんがそう言ってた。持っていくといいことがある、って」
「そう」
「絶対、持ってて」
「絶対、持ってる」
セラはしばらくロインを見ていた。
それから急にロインに抱きついた。
セラの腕は夏の暑さの中なのに冷たかった。
ロインの背中に回ったセラの腕の力がいつもより強かった。
セラの息がロインの肩のあたりで白く、見えた気がした。気のせいかもしれない。夏の朝に息が白く見えるはずがない。けれどロインには白く見えた。
「絶対、帰ってきてね」
セラがロインの肩の上で言った。
「絶対、帰ってくる」
ロインも答えた。
セラはしばらく抱きついたままだった。
それからゆっくり、ロインから離れた。
セラの目には涙はなかった。
ただ目の奥がいつもより深い色をしていた。
「行ってきます」
ロインはセラに言った。
「行ってらっしゃい」
セラが答えた。
ロインはセラの家から離れた。
歩きながら、一度だけ、振り向いた。
セラは戸の前に立ったまま、ロインを見ていた。
セラの母もセラの隣に立っていた。
二人の、琥珀色の瞳が朝の光の中で同じ色に光っていた。
ロインはもう一度頭を下げた。
それから家の方向に戻り始めた。
──
## 中盤(馬車の旅・合流地点)
家に戻ると父がもう馬車を家の前に停めていた。
馬車は村に一つだけある、村の共有の馬車だった。父が村長から借りてきたらしい。
馬車にはもう父の荷物が積まれていた。
「ロイン、お前の荷物もここに」
父が馬車の後ろを指差した。
ロインは自分の布袋を馬車の後ろに積んだ。
母が家の中から出てきた。
母の手にはもう一つ、布袋があった。中には旅の食料とロインの着替えが入っていた。
「気をつけてね」
母がロインに言った。
「そう」
「お父さんの言うことをよく聞くのよ」
「そう」
「無理はしないでね」
「そう」
母は3回、同じことを言った。
1回目はいつもの母の声だった。
2回目は少しだけ、声が高くなっていた。
3回目は声が少しだけ、震えていた。
「ロイン」
父が馬車の御者席から呼んだ。
「そう」
「乗れ」
「そう」
ロインは馬車の客席に乗った。
父は御者席に座った。
父が手綱を握った。
「行ってくる」
父が母に言った。
「行ってらっしゃい」
母が答えた。
母の声はもう震えていなかった。
ロインを見送る顔に戻っていた。
父が手綱を軽く、揺らした。
馬がゆっくり、歩き始めた。
馬車が動いた。
ロインは客席から家の方を振り向いた。
母が家の前に立っていた。
母の手は胸の前で組まれていた。
祈っているような、形だった。
ロインは母に手を振った。
母も手を振り返した。
馬車は村の中をゆっくり、進んでいった。
村の道を進む途中、ロインは5人の家の方を見た。
誰も外にはいなかった。
たぶん皆、家の中でロインを見送っていた。
村のはずれに着いた。
小屋の前で老人が切り株に座っていた。
老人は馬車を見て、ゆっくり、目を開けた。
ロインと目が合った。
老人は軽く、頭を上げた。それだけだった。
ロインも軽く、頭を下げた。それだけだった。
老人の「鐘の音を聞いても振り向くな」
という言葉がロインの頭の中でもう一度聞こえた。
意味はまだわからなかった。
ただ覚えておこうと思った。
馬車は村のはずれを抜けた。
村が後ろに小さくなっていった。
──
ロインはこれまで村のはずれより遠くに行ったことがなかった。
村のはずれの森の入口までは何度も行った。
けれどその先は知らない。
馬車は村のはずれの森を迂回するように別の道を進んでいた。
父が馬車を村の南東の方角に向けていた。
ロインの知らない道だった。
「ここ、どこ?」
ロインが父に聞いた。
「村の南。これから東に折れる」
「東?」
「東の街道だ」
「街道?」
「他の村と村を繋ぐ道だ。村の中の道より少しだけ、広い」
しばらく進むと確かに道が少しだけ、広くなった。
土の道だったけれど村の道より轍が深く、はっきり、見えた。
人や馬車がよく、通る道らしい。
馬車の客席でロインは座って、外を見ていた。
村の周りの風景が流れていった。
ロインが初めて見る風景だった。
森の縁。
小さな川。
誰かが開拓した畑。
畑の向こうに別の村らしいものが遠くに見えた。
ロインの知らない、別の村。
「あれ、村?」
ロインが聞いた。
「隣の村だ」
「行ったことある?」
「何度か、ある」
「人、住んでる?」
「50人くらい」
「フェルニ村より小さい?」
「フェルニは200人いる。隣のは50人だ。フェルニは大きい方だ」
ロインは知らなかった。
フェルニ村が大きい方の村、ということを知らなかった。
村の中にいた時、フェルニ村はロインの世界の、ほとんどすべてだった。
今、その村が馬車の窓の外ですでに小さく、なっている。
世界はロインが思っていたよりずっと広かった。
──
馬車は午前中、ゆっくり、進んだ。
父は御者席でほとんど、何も話さなかった。
ロインも客席でほとんど、何も話さなかった。
ただ外の風景を見ていた。
昼が近くなった頃、父が馬車を止めた。
道の脇の、木陰だった。
「昼飯にする」
「そう」
二人で馬車から降りた。
母が用意してくれた、パンと干し肉と薬草の茶を飲んだ。
茶はまだ母の家の温度をわずかに残していた。
朝、母が注いだ茶だった。
「お父さん」
ロインが聞いた。
「ん?」
「ガレンって、どんな人?」
父はしばらく考えてから答えた。
「無口だ」
「無口?」
「あまり、話さない」
「俺とお父さんみたい?」
「俺たちよりもっと無口だ」
「ふん」
ロインは想像してみた。
父よりもっと無口な人。
あまり、想像がつかなかった。
「優しい人?」
ロインがもう一つ、聞いた。
父はまた、しばらく考えた。
「優しい」
父は答えた。
「だが優しさを表に出さない人だ」
「表に出さない?」
「お前を見たら、目だけで優しさを伝える、ような人だ」
「ふん」
ロインはその人を見るのが少し楽しみになった。
父より無口で優しい人。
どんな人なのか、想像できないからこそ、見てみたかった。
──
馬車は午後も進んだ。
夕方になる頃、父がまた、馬車を止めた。
今度は道の脇に誰かがすでに野営の準備をしている場所だった。
「今晩はここで泊まる」
父が言った。
「他に人?」
「旅人が集まる場所だ」
馬車から降りると何人かの大人がすでに火を起こしていた。
ロインの知らない人たちだった。
父は何人かに軽く、挨拶をした。父はこの場所を知っているらしかった。
「ここ、よく、来るの?」
ロインが聞いた。
「年に何度か」
「人、覚えてる?」
「いくつかの顔は覚えている」
「ふん」
父は馬車から寝具を降ろした。
ロインも手伝った。
寝具を地面に敷いた。
夏の夜なので寝具は薄くて、いい。
夕食は火の周りで他の旅人と一緒に食べた。
父は他の旅人と少し話した。
話の内容はロインにはよくわからなかった。
ただ「東の様子」「最近の街道」「商人の動き」
のような言葉が聞こえた。
ロインは火の前で黙って、食べていた。
時々、他の旅人がロインを見て、笑った。
「お前さん、息子か」
一人の旅人が父に聞いた。
「そうだ」
「東に連れて行くのか」
「そうだ」
「珍しいな」
「そうだ」
父の「そうだ」
が、いつもより少しだけ、強かった気がした。
「珍しい」
という言葉が何を意味するのか、ロインにはわからなかった。
ただ父がそれ以上、答えない、ということはわかった。
──
夜、寝具の上でロインは目を開けていた。
夏の夜の空気が頭の上を流れていた。
火の音がまだ聞こえていた。
誰かがまだ起きているらしい。
ロインは布袋の中の、3つの石を思い出した。
青みがかった、灰色の3つの石。
セラがくれた、最後の石は今度のはいちばん、大きい。
ロインはその石を布袋から出して、手のひらに持った。
石は夜の温度を持っていた。
夏の夜なのでそれほど冷たくはない。けれど村の夜より少しだけ、冷たかった。
ロインはその石をしばらく手のひらで握っていた。
セラが抱きついた時の、腕の感覚を思い出した。
セラの腕は冷たかった。
セラの息は白かった。
セラは「絶対、帰ってきてね」
と言った。
ロインは「絶対、帰ってくる」
と、答えた。
ロインはその約束を覚えていようと思った。
東で何があっても覚えていよう。
セラにもう一度会うために。
ロインは目を閉じた。
眠ろうとした。
すぐには眠れなかった。
父がいつ、寝具に来るのか、ロインは待っていた。
しばらくして、父が来た。
父はロインが寝ているか、確認するようにしばらくロインの顔を見ていた。
ロインは目を閉じたままだった。
父はロインの隣に寝具を敷いた。
それから横になった。
父の息が聞こえた。
父の息は家で聞いていたものより少しだけ、深かった。
ロインはそれを聞きながら、ゆっくり、眠りに落ちた。
──
## 中盤(合流地点・ガレン)
二日目の朝が来た。
昨日と同じように父がロインより早く、起きていた。
寝具を片付け、馬車を整え、出発の準備をしていた。
ロインは起きてからすぐに自分の寝具を片付けた。
父の真似だった。
父は何も言わなかった。
ただロインの片付けが終わるのを待ってから馬車を進めた。
二日目の街道は昨日よりもう少し狭くなっていた。
人通りも少なかった。
村もほとんど、見えなかった。
代わりに森が増えていた。
「もうすぐ、合流地点だ」
父が御者席からロインに言った。
「合流?」
「ガレンと他の3人が待っている」
「もう着く?」
「あと半日くらいだ」
ロインは馬車の客席で緊張し始めた。
ガレンにもうすぐ、会う。
父より無口で優しい人。
ロインはその人を見たかった。
同時に少し怖かった。
無口な人と何を話したらいいか、わからないと思った。
──
午後、馬車は合流地点に着いた。
合流地点は街道から少し外れた、小さな広場のような場所だった。
人が何人か、待っていた。
父が馬車を止めて、降りた。
ロインも続いて、降りた。
待っていた人の中で一番背の高い人が父に近づいてきた。
その人は父より少しだけ、背が高かった。
髪は黒に灰色が混じっていた。
左目に古い傷があった。
鈍い青色の瞳をしていた。
身体は引き締まっていた。けれど若い、というほどではない。歳相応の、くたびれが肩のあたりにあった。
「カイル」
その人が父を呼んだ。
「ガレン」
父も答えた。
ロインは息を止めた。
ガレン。
父の古い友達。
今、初めて、目の前にいる人。
ガレンはしばらく父を見ていた。
それから父の肩を軽く、叩いた。
父もガレンの肩を軽く、叩いた。
それだけだった。
それからガレンはロインを見た。
ガレンの目がロインに向けられた瞬間、ロインは何か、いつもと違う感覚を覚えた。
ガレンの目は優しかった。
それは父が「お前を見たら、目だけで優しさを伝える、ような人だ」
と言った通りだった。
けれどガレンの目には優しさ以外にもう一つ、別のものがあった。
何だろう、と、ロインは思った。
名前をつけられない感情だった。
ガレンがロインを見る時、ガレンの目に何か、いつもより深い色があった。
それは悲しみに似ていた。けれど悲しみではなかった。
それは懐かしさに似ていた。けれど懐かしさでもなかった。
ただロインをよく、知っているような、目だった。
初めて会う相手なのによく知っている、ような。
「ロイン」
ガレンがロインの名前を呼んだ。
ガレンの声は低かった。父より低い。けれど父の声より優しい色があった。
「初めまして」
ロインが答えた。
「初めて、だな」
ガレンが答えた。
「カイルからよく、聞いていた」
「お父さんから?」
「お前が生まれた時からお前のことを聞いていた」
「ふん」
ガレンはロインの頭の上に手を置いた。
ガレンの手は大きかった。
父の手とほぼ、同じ大きさだった。
けれど父の手よりもう少し厚かった。
温度は夏の夜の石と似ていた。冷たくはない。けれど温かくもない。
「無事に戻ろうな」
ガレンがロインに言った。
「そう」
ロインは答えた。
ガレンは頭の上から手を離した。
それからもう一度ロインを見た。
ガレンの目にはまだあの「名前のつかない感情」
が、あった。
ロインはそれを覚えておこうと思った。
ガレンの目の奥にあった、あの色を。
──
ガレンは父に他の3人を紹介した。
一人目は中年の女性。名前はリーサ。
ガレンと同じくらいの年齢に見えた。
旅装束を着ていた。背中にはいくつかの道具を背負っていた。
「あなたがロイン君ね」
リーサがロインに笑った。
「お父さんからよく聞いてる」
「初めまして」
ロインは頭を下げた。
リーサはロインの目を覗き込んだ。
「いい子そう」
リーサはそれだけ、言った。
二人目は30代くらいの男性。名前はヴェル。
父とほぼ、同じ年に見えた。
顔に傷跡がいくつか、あった。
「よろしくな、坊主」
ヴェルがロインに軽く、手を上げた。
「よろしくお願いします」
ロインは頭を下げた。
三人目は若い男性。名前はシルヴァ。
ロインから見て、シルヴァは20代の前半くらいに見えた。
他の3人と比べて、ずっと若かった。
顔は優しい顔をしていた。背は高くもなく、低くもない。普通の体型。
「シルヴァです」
シルヴァがロインに笑った。
「初めまして」
ロインは答えた。
「ロイン君、年は?」
「8歳です」
「8歳!」
シルヴァは目を丸くした。
「俺が君の年だった頃はもっと子供だった気がする」
「そう?」
「8歳でこの旅に来るって、すごいよ」
「お父さんが連れてきてくれたから」
「お父さん、優しいね」
シルヴァは本当に優しい顔でロインに話しかけた。
ロインはシルヴァのことをすぐに好きになった。
シルヴァの優しさはガレンの優しさとは別の種類の優しさだった。
ガレンの優しさは深いところにある優しさだった。
シルヴァの優しさは表面に明るく、出ている優しさだった。
「シルヴァは今回が初めての遠征だ」
ガレンがロインに説明した。
「初めて?」
「今年の春から俺たちと一緒に動くことになった」
「ふん」
「若いからお前の、相談相手になる」
「そう」
シルヴァはロインにウインクをした。
「いつでも何でも聞いて」
「そう」
──
合流地点で皆でしばらく休憩を取った。
他の3人はそれぞれ、自分の道具を確認していた。
父とガレンは地図を広げて、何か、話していた。
ロインはシルヴァの近くに座っていた。
シルヴァがロインに東のことを話してくれた。
シルヴァも東に行くのは初めてらしい。
だから知っている話は誰かから聞いた話だった。
けれどロインにわかりやすく、話してくれた。
「東の方には地図に載ってない場所があるんだって」
シルヴァが言った。
「地図に載ってない?」
「誰も行ったことがないから地図に描けない」
「行ったら、描けるんじゃない?」
「行った人が帰ってきた、っていう話を聞いたことがない、らしい」
「ふん」
ロインはその話を聞いていた。
東は知らない方がいいことが多い場所、とトルムの父が言っていた。
シルヴァは東は地図に載ってない場所がある、と言った。
両方とも同じことを言っているのかもしれない、とロインは思った。
「シルヴァはこわくない?」
ロインが聞いた。
「ちょっとこわい」
シルヴァは正直に答えた。
「ちょっとだけど、こわい。けど、行きたいって、自分で決めたから」
「自分で?」
「ガレンさんに自分から頼んだ」
「なんで?」
「東の方に行ってみたい、って、ずっと思ってた」
「ふん」
シルヴァは目を東の方角に向けた。
シルヴァの目は夢を見ているような目だった。
ロインはその目を覚えておこうと思った。
初めて東に行く若者の、夢の色。
──
## 後半(東への出発・父の背中)
休憩の後、6人は合流して、馬車を東に進めた。
父の馬車に父とロインが乗った。
ガレンとリーサとヴェルは別の馬車に乗った。
シルヴァは徒歩で馬車の横を歩いた。
シルヴァは「歩きたい」
と言った。
「シルヴァさん、疲れない?」
ロインが馬車の客席から聞いた。
「全然!」
シルヴァは明るく答えた。
「俺は歩くの、得意」
「ふん」
二台の馬車が東への街道を進んでいった。
昼を過ぎて、午後の光が斜めから馬車に差し込んできた。
ロインは馬車の客席から外を見ていた。
東の街道はこれまで進んできた街道よりもう少し狭かった。
両側に森が近づいていた。
木々の高さが村の周りの森よりずっと高かった。
「ここ、もう別の森?」
ロインが父に聞いた。
「いや。フェルニ村の森と続いている」
「続いてる?」
「森は見えない場所で繋がっている」
「ふん」
ロインはフェルニ村の森と今、馬車の両側にある森が繋がっていることが何だか、不思議だった。
村の森と今の森はまるで違うものに見える。
けれど繋がっている。
ロインはそれを覚えておこうと思った。
見えない場所で繋がっている、ということ。
──
夕方、6人は別の野営地に着いた。
昨日の野営地より人は少なかった。
というか、6人以外、誰もいなかった。
ガレンが最初に火を起こした。
火を起こすのはガレンの仕事らしい。
皆、それを知っていて、自分のところで自分のすることをしていた。
リーサは食事の準備。
ヴェルは馬の世話。
シルヴァは薪を集めに行った。
父は地図をもう一度確認していた。
ロインは手伝うものがないように見えた。
ガレンがロインに声をかけた。
「ロイン」
「ん?」
「火の番、手伝うか」
「そう」
ロインはガレンの隣に座った。
ガレンは火をゆっくり、育てていた。
小さな枝から大きな枝へ、火を移していた。
ロインはその動きを横で見ていた。
ガレンの手はゆっくり、けれど確実に動いていた。
父の、ナイフを削る動きと似ていた。
「ガレン」
ロインがガレンを呼んだ。
「ん?」
「お父さんとはいつから知り合い?」
ガレンはしばらく火を見ていた。
それから答えた。
「お前が生まれる、20年以上前から」
「そんなに?」
「そうだ」
「ずっと一緒に仕事してた?」
「いつも一緒、というわけではない。けど、何度も一緒に東に行った」
「東?」
「今と同じ仕事だ」
ロインは聞きたかった。
お父さんは何の仕事をしているのか。
けれど聞くのは止めた。
父は「いずれ、お前にも話す」
と、前に言った。
ガレンに聞くのはなんとなく、違う気がした。
代わりにロインは別のことを聞いた。
「東に行くと何があるの?」
ガレンは火を見たまま、答えた。
「お前の、お父さんがお前に見せたいもの」
「お父さんが?」
「そうだ」
「ガレンも見せたい?」
ガレンはしばらく答えなかった。
「俺は見せたい、というほどではない」
「じゃあ、なんで来てる?」
「お前の、お父さんがお前を連れて行きたい、と言ったから」
「お父さんが一人で連れて行けないの?」
「東は一人では危ない」
「危ない?」
「けど、心配するな。俺たちがいる」
ガレンはそれだけ、言った。
ロインはそれ以上、聞かなかった。
火が大きく、なった。
夕食の準備ができた。
リーサが6人を火の周りに呼んだ。
「食事だ」
リーサが言った。
6人で火の周りに座った。
食事は簡素だった。乾燥した肉と固いパンと薬草の茶。
旅の食事だった。
けれどリーサが肉を上手く、温めていた。
ガレンが火の角度をちょうどいいように調整していた。
それで食事は思ったより美味しかった。
ロインはシルヴァの隣に座って、食べていた。
シルヴァはロインにいろいろな話をしてくれた。
シルヴァがこれまでに見た、面白いものの話。
シルヴァが行ってみたい場所の話。
シルヴァが将来、やってみたいことの話。
シルヴァはよく、話す人だった。
ガレンが「シルヴァは無口、ではない」
と、横で笑った。
──
夜、ロインは寝具の上で目を開けていた。
昨日と同じだった。
父がいつ、寝具に来るのか、待っていた。
火の周りで父とガレンとリーサとヴェルがまだ起きていた。
何か、低い声で話していた。
内容はロインには聞こえなかった。
ただシルヴァはすでに寝具に入って、寝ていた。シルヴァの寝息がロインの近くで聞こえていた。
ロインは目を閉じた。
今日、見た、たくさんの顔を思い出した。
ガレン。
リーサ。
ヴェル。
シルヴァ。
それから見送ってくれた、5人の顔も。
トルム。ハヤ。マイア。エリン。セラ。
母の顔も。
セラの母の顔も。
たくさんの顔が頭の中に流れた。
それぞれの顔がそれぞれの言葉をロインに残していた。
「気をつけて行けよ」(トルム)
「絶対、帰ってきてね」(ハヤ)
「神様の祝福を」(マイア)
「父ちゃんが貸してくれた本」(エリン)
「絶対、帰ってきてね」(セラ)
「無事に戻ってきて」(母)
「お守り、絶対、持ってて」(セラ)
ロインはすべての言葉を覚えていようと思った。
覚えていれば、戻る理由になると思った。
しばらくして、父が寝具に来た。
父はロインの隣に寝具を敷いた。
それから横になった。
ロインは目を薄く、開けた。
火の光がまだ残っていた。
父の背中が光の中にぼんやり、見えた。
父の背中は家の中で見るよりずっと大きく、見えた。
家の中で見る父の背中はいつも見慣れた背中だった。
今、ロインの前にある父の背中は知らない場所の、知らない夜の中でロインを守るためにそこにある背中だった。
それは家の中の背中とは別のものに見えた。
ロインは父の背中をしばらく見ていた。
それから目を閉じた。
明日も馬車は東に進む。
明日の夜にはもっと東の方にいる。
そして、その先にはロインの知らないものが待っている。
ロインはゆっくり、眠りに落ちた。
最後に思い出したのはセラが「お守り、絶対、持ってて」
と言った時の、瞳の色だった。
深い、琥珀色。
ロインは布袋の中の、3つの石を思い出した。
3つの石が布袋の中で互いに触れ合っているのがわかった。
ロインは眠りに落ちた。
──
(第7話本文終わり)




