八歳の夏_遠征の話
# 第6話「八歳の夏、遠征の話」
## 前半(八歳の夏・両親の相談)
8歳になっていた。
7歳の夏と秋と冬と、8歳の春が過ぎていた。
ガレンは結局、村に来なかった。
父は何度か「ガレンは忙しい」「今度こそ来る」
とロインに言ったが、「今度こそ」
は何度も繰り返された。
ガレンは、結局、来ないかもしれない、とロインは思うようになっていた。
父が嘘をついているわけではない。ガレンが、来られない、ということなのだろう。
セラの体調は、相変わらず、よくない。冬の終わりにまた熱を出し、春になっても本調子には戻らなかった。
そして、夏が来ていた。
ロインにとってはこれが3度目の夏だった。
村で過ごす、3度目の夏。
6人で過ごす、3度目の夏。
その夏の朝、ロインはいつもより早く目を覚ました。
家の天井の光がまだ薄かった。鳥の声もまだ少なかった。
ロインは布団の中でしばらく動かなかった。
理由はわからない。
ただ何かがいつもと違う気がして、目が覚めた。
下から声が聞こえた。
父の声と母の声だった。
父は5日前に村に戻ってきていた。父が長く家にいるのは珍しかった。
普段、父はもっと頻繁に村の外に出る。今回は何か、準備があるらしいと母が言っていた。
ロインははしごの方にゆっくり、近づいた。
立ち聞きをするつもりはなかった。
ただ両親の声がいつもと違う調子だった。少し低い声で急いで話している調子だった。
気付かれないようにはしごの上の段に座って、下の声を聞いた。
「……だから私は行かない方がいいと思う」
母の声だった。
「危ない、と言ってるんじゃない。今回は安全な調査だ」
父の声だった。
「短期だと言うけど東の方は何が出るかわからないでしょう」
「だからガレンも一緒だ。ガレンと他に3人。合わせて、5人」
「5人で足りるの?」
「足りる。今回は、ただの観察だ」
「ロインも連れて行く、と言ったのは本気?」
「本気だ」
ロインは息を止めた。
連れて行く。
東に。
父が自分を東に連れて行く。
父は前からそう言っていた。冬の朝、ナイフを削りながら。春になったら、お前を連れて行く、と。
あの時のロインはそれがいつのことか、はっきりとは知らなかった。
今、はっきりした。
夏の今。
「……ロインはまだ8歳よ」
母の声が少し震えていた。
「8歳で東に連れて行くの?」
「8歳だから連れて行く」
父が答えた。
「9歳になったら、もっと考えが固まる。10歳になったら、もっと固まる。子供のうちに見せたいんだ」
「何を見せたいの?」
「世界の、形だ」
母はしばらく答えなかった。
ロインははしごの段に座ったまま、聞いていた。
膝が少し震えていた。
「世界の、形」
母が繰り返した。
「あなたが見せたい世界の形はロインに何をもたらすの?」
「わからない」
父は正直に答えた。
「ただ見せたい。それが父親としての、俺の役目だ」
母はもう一度、長く、息を吐いた。
ロインはその息の音をはしごの上から聞いていた。
「あなたが決めたなら、私は止めない」
母が言った。
「ただ約束して」
「何を?」
「無事に二人とも戻ってきて」
「……ああ」
父が答えた。
父の声がいつもより少しだけ柔らかかった。
ロインははしごの段からゆっくりと立ち上がった。
立ち聞きをしていたということを両親には知られたくなかった。
布団に戻った。
布団の中で目を閉じた。
ロインは眠ろうとした。
眠れなかった。
世界の形を父が見せようとしている。
東に。
ロインを連れて。
8歳のロインにはその言葉の重さをまだ完全には量れなかった。
ただ何かが始まろうとしている、という感覚が胸の奥にあった。
夏の朝の、薄い光の中で。
──
しばらくして、ロインは布団から出た。
何も知らない顔をして、はしごを降りた。
居間に降りると父と母はテーブルの前に座って、地図を広げていた。
地図はロインがこれまで見たことのない地図だった。
村の周りの地図ではなかった。
もっと広い範囲が描かれていた。
「おはよう、ロイン」
母がロインを見て、笑った。
笑い方は少しだけ無理をしていた。さっき、ロインがはしごの上で聞いていたことを母は知らない。母はいつもの母の顔をしようとして、上手く、できていなかった。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、お父さん」
ロインは二人に挨拶した。
「ロイン、こっちに来い」
父がロインを呼んだ。
ロインはテーブルの前に行った。
地図の上に父の指が置かれていた。
「ここが村だ」
父が指である場所を示した。
「ここから東に行く」
父の指が地図の上をゆっくりと東に動いた。
「ここまで行く」
父の指が止まった。
地図の上で父の指が止まった場所には何も書かれていなかった。
空白だった。
村も町も川も何もない。
ただ空白の地が広がっていた。
「ここ、何もない、ね」
ロインが聞いた。
「ある」
父が答えた。
「地図に書かれていないものがある」
「何?」
「行ってからわかる」
父はそれ以上、説明しなかった。
ロインはもう聞かなかった。
「ロイン」
母がロインに声をかけた。
「お父さんと東に行ってみる?」
ロインは少し間を置いた。
本当は聞かれる前から答えは決まっていた。
「行ってみる」
「ほんとう?」
「ほんとう」
「怖くない?」
「ちょっと怖い」
「正直ね」
母は少し笑った。
今度の笑い方は無理がなかった。
──
朝食の後、ロインは家を出た。
6人の集まる広場に向かった。
夏の朝の道はもう暑かった。土の上に靴底が軽く、沈んだ。
広場に向かう途中、ロインは自分のポケットに手を入れた。
ポケットの中には二つの石が入っていた。
夏にセラが川辺で拾った石。
7歳の誕生日にセラが家の裏でもう一つの石をくれた、その石。
二つの石。
両方とも青みがかった、灰色。
ロインは二つの石を手のひらの上で転がした。
石は朝の地面の温度を持っていた。冷たい、と言うほどではない。けれど夏の道の熱の中ではひんやり、感じる。
ポケットにはもう一つの物が入っていた。
父が冬に作ってくれた、小さなナイフだった。
ロインは最近、ナイフをいつも持っている。母は最初、ナイフを家の中で使うようにと言った。けれど最近は外に出る時も持つことを許してくれていた。
「危ないことに使わなければ、いい」
母はそう言った。
ロインの腰にはナイフ。
ポケットには二つの石。
それが最近のロインの、持ち物の中でいちばん、大事なものだった。
広場に近づくともう5人が揃っていた。
「ロイン、遅い!」
ハヤが最初に声を上げた。
「ごめん」
ロインは答えた。
「何かあった?」
セラが聞いた。
ロインは少し迷った。
両親の話をすぐに5人に伝えるか、迷った。
迷った末に答えた。
「ちょっと家で話があった」
「話?」
ハヤが聞いた。
「お父さんが俺を東に連れて行くって」
「東?」
ハヤの声が急に大きくなった。
「どこの東?」
「東の森の、もっと向こう」
「いつ?」
「もうすぐ。今月か、来月」
5人の顔が変わった。
トルムは眉を寄せた。
エリンは口を結んだ。
マイアは両手を胸の前で組んだ。
ハヤは両手を頭の後ろに回した。
セラは何も言わなかった。
ただロインを見ていた。
──
## 中盤(6人の動揺・森の鐘へ)
「東って、危ないとこ?」
ハヤが最初に聞いた。
「わからない」
ロインが答えた。
「お父さんは安全だ、って言ってる。お母さんは心配してる」
「お母さんが心配するってことはちょっとは危ないってことだ」
エリンが言った。
「ちょっとは危ない」
「ちょっとなら、いいのか」
ハヤがエリンに言った。
「いいかどうかは別の話だ。ただお母さんが心配する程度には危ないということだ」
ロインは二人のやり取りを横で聞いていた。
セラはまだ何も言わなかった。
ロインはセラを見た。
セラはロインを見ていた。
セラの瞳はいつもより深い、琥珀色だった。
「いつ、帰ってくるの?」
セラがようやく口を開いた。
「短期、って、お父さんが言ってた」
「短期って、何日?」
「わからない」
「わからないの?」
「お父さんは教えてくれなかった」
セラはしばらく黙った。
それからもう一度聞いた。
「ロイン、お父さんとお母さんと一緒に?」
「お父さんと俺とガレンと他に3人」
「お母さんは行かないの?」
「お母さんは行かない」
「そう」
セラはそれ以上、聞かなかった。
セラの目が少しだけ地面の方に落ちた。
「私は行ってみたい!」
ハヤが急に明るく言った。
「東の方なんて、私、行ったことない。連れてってもらえるロイン、羨ましい」
「ハヤなら、いつか自分で行ける」
ロインが答えた。
「自分で行く」
ハヤはもう一度、空を見上げた。
ハヤは空を見上げる癖が最近、増えていた。空の向こうの、知らない場所を想像しているらしい。
「俺は行きたくない」
トルムが言った。
「俺は村にいる。村の外には行きたくない」
「トルムらしいね」
ハヤが笑った。
「お前は自分の道が決まってるからいいな」
「お前のも決まってる」
「私のはまだどこに行くか、決まってない。だから決まってないのと同じ」
「行きたい、と、決まってる。それで十分だ」
トルムはそう答えた。
エリンは黙っていた。
「エリン、何か、ある?」
ハヤが聞いた。
エリンはしばらく考えてから答えた。
「ロインに聞きたいことがある」
「何?」
「お前のお父さんは何の仕事をしてる人?」
ロインは答えに詰まった。
父の仕事のことをロインはまだよく知らなかった。
父は「いずれ、お前にも話す」
と、前に言った。けれどまだ話していない。
「……わからない」
ロインは正直に答えた。
「わからない?」
「お父さんは教えてくれない。いずれ、話す、って」
「ふん」
エリンはそれ以上、聞かなかった。
ただ何かを考えているような顔をしていた。
──
マイアはずっと両手を胸の前で組んでいた。
祈っている、ような形だった。
「マイア」
ロインが呼んだ。
「うん?」
「祈ってる?」
「ちょっとだけ」
「何を?」
「ロインが無事に帰ってきますようにって」
ロインはマイアの言葉にしばらく答えなかった。
マイアの祈りはいつも優しい。
マイアはロインのために祈ってくれている。
ロインはそれをありがたいと思った。
「ありがとう」
ロインはマイアに礼を言った。
「ちがう」
マイアは首を振った。
「神様に聞こえれば、いいの」
「お母さんも祈ってくれる?」
「お母さんにも頼んでおく」
ロインはそれをまた、ありがたいと思った。
マイアの母は村の中でも特に信仰深い人だ。マイアの母が祈ってくれれば、何か、効くような気がした。
ロインは神様のことをよく知らない。けれどマイアの母が祈るなら、何か、あるのだろう、と感じていた。
──
「ねえ」
セラが急に口を開いた。
「ん?」
ロインが振り向いた。
「今日もう一度、鐘のところに行きたい」
セラはそう言った。
5人の顔がセラに向いた。
「鐘?」
ハヤが聞いた。
「森の、奥の鐘」
「あの鐘?」
「そう」
セラは急にはっきり言った。
「ロインが東に行く前にもう一度、見ておきたい」
「なんで?」
ハヤが聞いた。
「わかんない」
セラはそう答えた。
セラの「わかんない」
は、最近、少しずつ、増えていた。
ロインはそれを知っていた。
セラ自身もたぶん知っていた。
「俺はいいぞ」
トルムが答えた。
「俺もだ」
エリンが答えた。
「私もだ」
ハヤが続いた。
「私も」
マイアも答えた。
セラがロインを見た。
「ロインは?」
「行く」
ロインも答えた。
「じゃあ、行こう」
セラは立ち上がった。
──
森への道は夏の日差しの中でもうよく、覚えている道だった。
6人で何度も通った道だった。
最初に通ったのが2年前の、夏。
あれから何度、通ったか、数えていない。けれど毎回、何かが少しずつ、違って見えた。
今日の森は夏の盛りの森だった。
2年前の夏の森よりもう少し緑が濃かった。
木々が、2年分、成長していた。
6人も2年分、成長していた。
トルムが先頭を歩いた。
セラがその後ろ。
ロインがセラの後ろ。
いつもの順番だった。
歩きながら、ロインはセラの背中を見ていた。
セラの背中は2年前の夏よりずっと小さく見えた。
身長は伸びているはずだった。けれどなぜか小さく、見える。
肉が少なくなっているせいだ、と、ロインは最近、気付いていた。
セラは痩せていた。
誰も口に出して、言わない。けれど皆、気付いていた。
森の入口の二本の木に6人で手を当てた。
今度の木は夏の中なのでぬるかった。前回の秋や、冬の冷たさはなかった。
セラが手を当てた時ロインはセラの手を横目で見た。
セラの手は夏の暑さの中なのに白く見えた。
血の気の薄い、白さ。
「行こう」
セラがまた、進み始めた。
──
10分歩いて、円の石の場所に着いた。
円の石は変わらず、そこにあった。
夏に発見してからもう3度目だ。秋。それから春の終わり。それから今。
「奥」
セラが指差した。
「そう」
6人で奥に進んだ。
鐘も変わらず、そこにあった。
苔の付き方は季節ごとに少しずつ、違って見えた。今は夏の真ん中なので苔がいちばん、濃く見えた。
セラが鐘の真下に立った。
鐘の中を見上げた。
振り子はまだそこにあった。
「ロイン」
セラが振り向かずに呼んだ。
「ん?」
「ちょっと近くに来て」
ロインはセラの隣に行った。
セラは鐘の側面に近づいた。
6文字はまだ苔の下にあった。
セラはその6文字を指でなぞった。
覚えるようにゆっくりと。
「ロイン、東に行ったら、これと同じ文字、見るかもしれない」
セラが言った。
「同じ文字?」
「なぜかそんな気がする」
「なんで?」
「わかんない」
セラはしばらく文字をなぞっていた。
それから急に振り子の方に目を向けた。
──
セラが振り子に手を伸ばし、かけた。
「やめろ」
ロインはすぐに止めた。
夏の最初の時と同じ言葉だった。あの時それを言ったのはトルムだった。今度はロインが言った。
セラの手が空中で止まった。
セラは振り向いて、ロインを見た。
セラの目はいつもより深い色をしていた。
「触らない方がいい」
ロインは続けた。
「なんで?」
セラが聞いた。
「わからない。けど触らない方がいい」
ロインの胸の中で何か、強く、警告するものがあった。
理由はわからない。
ただセラにこれを触らせたくない、という気持ちが強かった。
それはトルムが2年前の夏に感じた震えと似ていたのかもしれない、とロインは後で思った。
セラはしばらくロインを見ていた。
それからゆっくり、手を引っ込めた。
「……うん」
セラは言った。
「わかった」
セラは振り子から目を逸らした。
鐘の側面の、6文字をもう一度、指でなぞった。
それから振り向いて、ロインを見た。
セラの瞳はもういつもの色に戻っていた。
琥珀色。
朝の光の中の、薄い金色。
「ロイン」
セラが呼んだ。
「ん?」
「東で無事に帰ってきてね」
「帰ってくる」
「ほんとう?」
「ほんとう」
セラは笑った。
今日のセラの笑い方はいつもの笑い方とほんの少しだけ違って見えた。
何が違うのか、ロインにはわからなかった。
ただ覚えておこうと思った。
──
6人で鐘の場所を離れた。
帰り道、誰も口を開かなかった。
森を半分くらい、戻ったところでハヤが言った。
「ロインが東に行ったら、5人になるね」
「そう」
セラが答えた。
「5人だと変な感じ、するかな」
「するかも」
「いつ、帰ってくるのかな」
「お父さんは短期、って言ってた」
ロインが答えた。
「短期って、どれくらい?」
「わからない」
トルムがロインの肩を叩いた。
「気をつけて、行けよ」
「そう」
ロインは答えた。
「無事に戻れ」
「戻る」
「父ちゃんによろしく」
「お前の父ちゃんに?」
「俺の父ちゃん、東の話を聞きたがるはずだから戻ったら、土産話、頼む」
「そう」
トルムの言い方はトルムらしい平淡な言い方だった。
ただ肩を叩く力がいつもよりほんの少しだけ強かった気がした。
エリンもロインに声をかけた。
「ロイン」
「ん?」
「東の地名と地形を覚えておけ。戻ってきたら、教えてくれ」
「そう」
「父ちゃんに東のことを調べてもらってる。お前の話と照らし合わせる」
「お父さんが調べてる?」
「俺の父ちゃんは村長の助手だ。地理にも詳しい」
「ふん」
エリンの言い方もエリンらしかった。
表面は論理的な、観察の依頼。
けれどロインはエリンが自分のことを心配しているということをわかっていた。
エリンは心配を論理に変えて、伝える人だ。
それがエリンのやり方だった。
マイアは両手を胸の前で組んだままだった。
「ロインさん」
マイアが初めて、ロインを「さん」
付けで呼んだ。
「ん?」
「お祈り、毎日、します」
「ありがとう」
マイアの声はいつもよりずっと強かった。
ハヤはロインの背中を強く、叩いた。
「お土産、楽しみにしてる!」
「お土産?」
「東の何か。なんでもいい」
「そう」
ハヤの叩き方もいつもより強かった。
──
## 後半(夕方・別れ)
森を出て、村に戻った。
途中、村のはずれの老人の小屋の前をまた、通った。
今度も老人は目を閉じて、座っていた。眠っているのか、起きているのか、わからなかった。
6人で静かに老人の前を通り過ぎた。
通り過ぎた後しばらくしてから老人が声をかけた。
「お前さんたち」
6人は振り向いた。
老人は目を開けていた。
「鐘、また、見たな」
「そう」
セラが答えた。
「鳴らしてはいない」
「ほんとうか」
「ほんとう」
老人は長く、息を吐いた。
それから目をロインに向けた。
「お前は近いうちに村を出るんだろう」
老人が言った。
ロインは驚いた。
村の誰もまだロインが東に行くことを知らないはずだった。
ロイン自身も今朝、初めて、両親から聞いたばかりだった。
「なんでわかるの?」
ロインが聞いた。
「お前の顔に書いてある」
老人はそう答えた。
「気をつけて、行け」
「そう」
「鐘の音を聞いても振り向くな」
「鐘の、音?」
「わからない時が来たら、思い出せ」
老人はそれだけ、言って、また、目を閉じた。
ロインはその言葉をしばらく覚えていた。
鐘の音を聞いても振り向くな。
意味はわからなかった。
ただ覚えておこうと思った。
──
村の中に戻った。
広場で6人はいつものようにそれぞれの方向に分かれた。
「またね、ロイン」
ハヤがいつもの調子で手を振った。
「気をつけて」
トルムが肩を叩いた。
「無事に戻れ」
エリンが本を抱えたまま言った。
「お祈り、します」
マイアが両手を胸の前で組んだ。
セラはいつも通り、ロインの隣に残った。
──
ロインの家とセラの家は同じ方角だ。
最後まで二人で歩く。
歩き始めて、すぐにセラがロインの手を取った。
セラの手は夏の暑さの中なのに冷たかった。
夏に手が冷たいのはおかしい、とロインは思った。
普段、夏は皆、手が温かい。
セラの手だけが冷たい。
「セラ」
ロインが呼んだ。
「ん?」
「手、冷たい」
「そう」
セラはそれだけ答えた。
「最近、冷たい?」
「最近いつも冷たい」
「お母さんに言った?」
「言った」
「お母さん、何て?」
「医者の人をまた、呼ぶ、って」
セラはそれ以上、何も言わなかった。
ロインもそれ以上、聞かなかった。
聞いてもたぶん答えはないだろうと、思った。
二人でロインの家の前まで歩いた。
ロインの家の前でセラはロインの手をまだ離さなかった。
いつもなら、ここで手を離す。
今日は離さなかった。
「セラ」
「ん?」
「離さないの?」
セラはしばらく答えなかった。
それから答えた。
「もう少し握っていたい」
「そう」
ロインはもう何も言わなかった。
セラが握りたいだけ、握っていればいいと思った。
夏の夕方の道で二人はしばらく手を繋いだまま、立っていた。
村の中の、夕方の音が周りに流れていた。
鍋の音、子供を呼ぶ声、犬の鳴き声。
村のいつもの夕方の音。
しばらくして、セラが手を離した。
「ロイン」
セラが言った。
「ん?」
「東で何があっても戻ってきて」
「戻ってくる」
「ほんとう?」
「ほんとう」
「絶対?」
「絶対」
ロインは絶対、と言った。
8歳のロインに絶対、という言葉の重さを本当にはわかっていなかった。
ただセラが絶対、と、言ってほしそうな顔をしていた。
だから絶対、と言った。
それでいいと思った。
「そう」
セラは答えた。
「ロインなら、戻ってくる」
「そう」
セラは笑った。
今日の二度目の、笑顔だった。
今日のセラの笑顔はいつもよりずっと白く、見えた。
「また、明日」
セラは自分の家の方に歩いていった。
ロインはセラの背中を見送った。
セラの背中は夕方の薄い光の中でいつもより薄く、見えた。
気のせいだ、と、ロインは思った。
気のせいであってほしい、と、思った。
──
家に戻ると母が戸の前で待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
ロインは母の顔を見た。
母の顔はいつもの母の顔だった。けれど目の下に薄い影ができていた。
父と何か、また、話したのだろう、とロインは思った。
家の中で父はテーブルの前で地図を見ていた。
地図には何か、新しい線が書かれていた。父が書いたらしい。
父はロインを見ると地図を軽く、たたんだ。
「ロイン」
父がロインを呼んだ。
「ん?」
「3日後に出る」
「3日後?」
「準備をしよう」
ロインはしばらく答えなかった。
3日後。
ロインは東に出る。
「そう」
ロインはようやく答えた。
「準備、する」
──
夜、ロインは布団の中にいた。
枕元には4つの物が並んでいた。
父のナイフ。夏に拾った石。7歳の誕生日の石。マイアの祝福の紙。
夏の鈴は布袋の中にしまっていた。鳴ると寝るのに邪魔だからだ。
ロインは目を閉じた。
今日のことを思い出した。
両親が地図の前で話していたこと。
父が「世界の形を見せたい」
と言ったこと。
母が「無事に戻ってきて」
と言ったこと。
6人に東に行くと伝えたこと。
セラの「いつ、帰ってくるの?」
という声。
森の鐘の前でセラが手を伸ばしかけて、ロインが止めたこと。
老人の「鐘の音を聞いても振り向くな」
という言葉。
セラの手の冷たさ。
セラの「絶対?」
という問い。
セラの薄い背中。
たくさんのことが一日の中にあった。
8歳のロインにはそれらすべてが何かの、始まりのように感じられた。
何の始まりかはわからない。
ただ明日からの3日間でロインは何かを準備しなければならない、と感じた。
ロインはポケットの中の、二つの石を思い出した。
夏にセラが川辺で拾った石。
7歳の誕生日にセラの母が見つけた石。
どちらも青みがかった、灰色。
ロインはその石を東に持っていこう、と決めた。
父の作ったナイフも持っていく。
マイアの祝福の紙も持っていく。
ハヤの鈴はどうしようと思った。
鳴ったら、邪魔になる。
けれどハヤがくれた物だ。
しばらく考えてから決めた。
鈴も持っていく。
布袋に入れて、鳴らないようにして。
ロインは、それで眠りに落ちた。
眠る前、最後に思い出したのはセラの手の冷たさだった。
セラの手が夏なのに冷たかった。
セラの手は夏の終わりまでにもっと冷たくなるかもしれない、とロインは思った。
そして、ロインが戻ってくる頃にはセラの手はどうなっているか、わからなかった。
戻ってくる、と、約束した。
絶対、と言った。
ロインはその約束を守らなければならないと思った。
──
(第6話本文終わり)




