七歳の春
# 第5話「七歳の春、小さな喧嘩」
## 前半(七歳の冬・誕生日)
季節は一年、進んだ。
7歳になった。
冬の終わりに、狼の話は村の中で少しずつ広まっていった。
父と狼を見た日のことを、ロインは誰にも言わなかった。
父も同じだったらしく、村の誰にも話していない様子だった。
それでも他の家でも狼を見たという話があり、村の大人たちは冬の間、剣を持って外に出るようになった。
父も家にいる時に、剣を腰のそばに置くようになっていた。
ガレンは結局、まだ村に来なかった。
「春になったら来る」「春になったら、たくさんのことが、来る」
父はそう繰り返した。
何が来るのか、7歳になる前のロインには、まだわかっていなかった。
誕生日の朝、ロインは布団の中で目を覚ました。
家の中の空気はまだ冬の冷たさを持っていた。けれど布団の中は温かい。母が昨日の夜、新しい毛布をロインの布団の上にかけてくれていた。新しい毛布は母が冬の間に編んだものらしい。色は薄い灰色だった。
「ロイン、起きた?」
母の声が下から聞こえた。
「起きた」
ロインは答えた。
「降りていらっしゃい。お祝いの朝食を作ったから」
ロインは布団から出た。
寝間着の上に厚い上着を着た。
はしごを降りた。
居間の暖炉には火が入っていた。父はいなかった。父はまた、村の外に出ていた。今日は誕生日だけれど父は戻ってこない。母が昨日の夜、そう言った。
「お父さんも戻りたかったのよ」
母はそう言った。
ロインは目を伏せた。
父が戻ってこないことを口に出して残念がりたくなかった。残念がると母ももっと残念がる気がした。
朝食は暖炉の前で母と二人で食べた。
今朝のパンには蜜が塗られていた。誕生日の朝のパンはいつもより少しだけ甘い。
スープには肉がいつもより多く入っていた。
「ロイン、7歳おめでとう」
母が言った。
「ありがとう」
ロインは答えた。
「お父さんがこれを置いていった」
母は小さな箱をロインの前に置いた。
ロインは箱を開けた。
中には小さな革の袋が入っていた。
袋の中をロインは覗いた。
小さな道具がいくつか入っていた。木を削る時に使う道具らしい。父がナイフを使う時に横で使っていた道具と似ていた。
「お父さんがお前にと」
母が言った。
「ナイフを使う時にこれも使うようにって」
「使い方、わかんない」
「お父さんが戻ってきたら、教えてくれる」
「そう」
ロインは道具をもう一度、見た。
父がいない時に父からの贈り物を受け取るのは初めてだった。
父はロインの誕生日に間に合わない、と知っていながら、これを置いていったのだろう。
父の手の中でしばらく持たれていた道具。
ロインはその道具をしばらく自分の手の中で持った。
──
朝食の後、ロインは出かけることにした。
雪はまだ村に残っていた。けれど午前の終わりごろから午後にかけて、雪が少しずつ溶ける季節だった。冬の終わりの、雪解けの季節。
母が玄関で言った。
「滑らないようにね」
「そう」
外に出ると空気が肺の中にまっすぐ、入ってきた。
冬の空気は夏や秋より肺の中ではっきり、感じられる。
道は雪が半分ほど、残っていた。
残っている雪はもう白くはなかった。土が混じって、灰色に近い色をしていた。
歩くと雪と土の混ざったものが靴底にくっついた。
広場は誰もいなかった。
冬の広場には人がほとんど、来ない。井戸の周りも雪と土が混ざっていて、座れる場所は少なかった。
ロインはトルムの家に向かった。
6人で集まる時、冬はたいていトルムの家だ。トルムの家は村の家の中でいちばん広い。父子二人で住んでいるのに家が広いのはトルムの父が自分で建てたからだ。トルムが生まれる前からここに住むつもりで広く作った。
トルムの家の戸を叩いた。
中からトルムが戸を開けた。
「ロイン、来た!」
「お祝い、誰か来てる?」
「ハヤとマイアがもう来てる」
「セラとエリンは?」
「まだ」
ロインは家の中に入った。
トルムの家の中は暖炉が二つ、あった。一つは居間にもう一つは奥の部屋に。冬は二つとも火を入れる。家の中の温度がロインの家よりずっと暖かかった。
「ロイン、おめでとう!」
ハヤが居間の暖炉の前から声を上げた。
ハヤは暖炉の前の床に座っていた。
「おめでとう、ロイン」
マイアもハヤの隣でロインに笑った。
「ありがとう」
ロインは二人の前に座った。
トルムがロインに小さな包みを渡した。
「お祝い」
「ありがとう」
ロインは包みを開けた。
中には木で作った、小さな動物の像が入っていた。トルムが自分のナイフで削ったものらしい。
「これ、トルムが作った?」
「何ヶ月か前から作ってた」
「上手」
「父ちゃんに習った」
ハヤも何かをロインに渡した。
「これ、私から」
ハヤの包みは布で包まれていた。
中には小さな鈴が入っていた。鈴は銀色で振ると小さな音がした。
「鈴?」
「私が北の村からもらってきた」
「北の村?」
「父ちゃんと行ったの。去年の秋」
「ありがとう」
マイアもロインに何かを渡した。
マイアの贈り物は紙だった。
紙には文字が書かれていた。
「読める?」
ロインが聞いた。
「読めない」
マイアは笑った。
「お母さんに書いてもらったの。神様の祝福の言葉、らしい」
「神様の?」
「ロインを神様が見守ってくれますようにっていう意味」
ロインはその紙をしばらく見ていた。
文字の意味はわからない。
けれどマイアの母がロインのために書いてくれたということはわかった。
マイアの母は村の中で字が書ける、数少ない人の一人だ。
「ありがとう」
ロインはマイアにも礼を言った。
──
セラとエリンはなかなか、来なかった。
「セラ、また、体調悪い?」
ハヤが聞いた。
「わかんない」
ロインが答えた。
「最近、よく、体調悪くなるよね」
「そう」
「私のお母さん、心配してた」
「心配?」
「セラのお母さんが最近、医者の人を呼んだ、って」
「医者?」
「村の医者じゃなくて、北の方から来た人」
ロインは知らなかった。
セラの母が北の方から医者を呼んだということを知らなかった。
ハヤの母は村の中の情報をよく知っている。誰の家で何があったかいつも把握している。
「医者の人、何て言ったの?」
ロインが聞いた。
「それは聞いてない」
「ふん」
マイアが横で小さく言った。
「お母さんが教会でセラのために祈ってる」
「祈ってる?」
ロインが聞いた。
「神様にセラが元気になるようにって」
「ふん」
ロインはマイアの母の祈りを想像してみた。
マイアの母は村の中でも特に信仰深い人だ。家で毎日、祈っているらしい。マイアも母の祈りを横で見て、育っている。
マイアの母がセラのために祈っているということはセラの状態をマイアの母も気にしているということだろう。
「セラ、ほんとに大丈夫かな」
ハヤが独り言のように言った。
「大丈夫だと思う」
ロインが答えた。
「思う?」
「セラは強いから」
「ふん」
ハヤは納得していない顔だった。
けれどそれ以上は何も言わなかった。
──
しばらくして、セラとエリンが来た。
別々に来たのに家の前でばったり会ったらしい。
「お待たせ!」
セラが戸を開けて、入ってきた。
セラの顔はいつもより白かった。けれど笑っていた。
「ロイン、おめでとう!」
セラはロインの前に走ってきた。
走り方がいつもよりゆっくりだった気がした。
「ありがとう」
ロインは答えた。
セラはロインに小さな箱を渡した。
箱の中には青みがかった灰色の石がもう一つ、入っていた。
夏にセラがロインに渡した石と似た色の石だった。
「私、また、見つけたの」
セラが言った。
「川の上流?」
「ちがう。家の裏。お母さんが見つけた」
「セラのお母さん?」
「庭の隅で見つけた、って。私にロインに渡してあげなさい、って」
ロインは石を手のひらで握った。
夏の石と今度の石は色がほとんど同じだった。
けれどわずかに今度の石の方が青味が強かった。
「ありがとう」
ロインはセラに礼を言った。
セラは笑った。
「気に入った?」
「そう」
「よかった」
エリンもロインに贈り物を渡した。
エリンの贈り物は本だった。
小さな、子供用の本らしい。表紙に絵が描いてあった。
「絵本?」
「父ちゃんがお前にと」
「エリンのお父さんが?」
「お前が字を覚える時にいいだろう、って」
「字、覚えるの?」
「いずれな」
エリンは口の端を少しだけ上げた。
ロインは本をしばらく見た。
本の中身はまだ開けていない。後で家でゆっくり見ようにと思った。
「みんな、ありがとう」
ロインは5人に頭を下げた。
──
## 中盤(小さな喧嘩)
トルムの母(亡くなっている)の代わりにトルムの父がお祝いのために温かい飲み物を6人に出してくれた。
村で採れる、薬草を煮出したお茶だった。
「これ、トルムの父ちゃんが作ったの?」
ハヤが聞いた。
「父ちゃん、母さんが死んでから自分で作るようになった」
「お母さんが作ってた?」
「父ちゃんが母さんの作り方を覚えてた」
ロインは温かいお茶を手の中でしばらく持っていた。
お茶の湯気が立ち上っていた。
湯気の中に6人の顔がぼんやりと見えた。
「ロイン、7歳になって、何か、変わった?」
ハヤが聞いた。
「変わった?」
「6歳と何が違う?」
ロインはしばらく考えた。
「……わかんない」
「私のときは何にも変わらなかった」
ハヤは笑った。
「来年の私の誕生日、私も7歳だ。変わるかなあ」
「変わらない、と思う」
エリンが言った。
「変わるよ」
セラが口を挟んだ。
「変わる?」
「ちょっとずつ、変わる」
「ちょっとずつ?」
「気付かないくらい、ちょっとずつ」
エリンがセラを見た。
エリンの目が少しだけ細くなった。
「気付かないくらい、ちょっとずつ、というのは変わってないのと同じだ」
エリンが言った。
「違うよ」
セラが答えた。
「気付かないだけで変わってる」
「気付かないのはないのと同じだ」
「ないのと違うよ」
セラの声が少し、強くなった。
「気付かないだけである。ないのとは違う」
ロインは二人のやり取りを横で見ていた。
セラがエリンにこんなにはっきり、反論するのは珍しかった。
セラはいつもエリンの理屈っぽさを笑って、受け流す。
今日のセラは笑わなかった。
「エリン、ちょっとしつこいよ」
ハヤが横から言った。
「しつこくない。論理的に話してるだけだ」
「論理的だとしつこくないの?」
「論理はしつこさとは違う」
ハヤが唇を尖らせた。
ロインはこれは放っておくと本格的な喧嘩になると思った。
ロインは二人の間に入ろうとした。
口を開きかけた。
開く前にマイアが口を開いた。
「エリン」
マイアが小さく、けれどはっきり、呼んだ。
エリンがマイアを見た。
「セラの言ってること私もわかる」
マイアが言った。
「お前にも?」
「気付かないけど、ある、ってこと。神様もそう」
「神様?」
「お母さんがいつも言う。神様は見えない。けど、いる」
エリンはしばらくマイアを見ていた。
それから肩をすくめた。
「神様の話と人の成長は別の話だ」
「別の話、じゃないと思う」
マイアは答えた。
「人がちょっとずつ、変わるのも神様がちょっとずつ、人を変えてるからかもしれない」
「それは信仰だ。論理じゃない」
「信仰でもいいの」
マイアの声はいつもより強かった。
ロインはマイアがこんなにはっきり、自分の意見を言うのを初めて聞いた気がした。
マイアはいつも控えめだ。けれど信仰の話になると控えめではなくなる。
ロインはそれを覚えておこうと思った。
エリンはしばらくマイアを見ていた。
それから長く、息を吐いた。
「わかった。お前らの言うこともわかる」
エリンが言った。
「気付かないけど、あるということを否定はしない」
「ほんと?」
セラが聞いた。
「ただ、論理的に話せないだけだ。論理的じゃないものを論理で論じても意味がない」
「論理じゃない話、できないの?」
ハヤが聞いた。
「できる。ただ、苦手だ」
「ふん」
ハヤは少し笑った。
「エリンらしいね」
──
ロインはトルムを横目で見た。
トルムはこの間、一言も口を開いていなかった。
ただ、お茶をゆっくり、飲んでいた。
「トルム」
ロインが呼んだ。
「ん?」
「何か、思った?」
トルムはお茶をもう一口、飲んだ。
それから答えた。
「俺は変わらない」
「変わらない?」
「村に残るし、父ちゃんの仕事を継ぐし、変わらない」
「気付かないくらい、ちょっとずつも変わらない?」
「変わるかもしれない。けど、決めたことは変わらない」
トルムの答えはトルムらしい答えだった。
ロインはそれも覚えておこうと思った。
セラが立ち上がった。
「みんな、仲直り!」
セラが明るく言った。
「もう仲直りしてるよ」
ハヤが笑った。
「もう一回、仲直り!」
セラは強引に明るかった。
「セラ、強引だね」
「強引」
セラは自分でも認めた。
「でも私が強引にしないとエリンとロインが長く、喧嘩する」
「エリンとロイン?」
ハヤが聞いた。
「あれ?」
セラが首を傾けた。
「ロインとエリンの喧嘩、なかったっけ?」
「セラとエリンの、間違い」
ロインが訂正した。
「あ、そうだった」
セラは笑った。
「ごめん、ごめん。私、最近、誰が誰と言ったの、混ざることが多いの」
「混ざる?」
ロインが聞いた。
「誰が何を言ったか、ちょっと混ざる」
「ふん」
ロインはその言葉を覚えておこうと思った。
セラが誰が何を言ったか、混ざる、と言った。
最近、それが増えているらしい。
セラはそれ以上は何も言わなかった。
笑って、暖炉の前にまた座った。
──
しばらくして、6人で外に出ることにした。
雪が午前から午後にかけて、少しずつ、溶けていく時間帯だった。
冬の終わりの、雪解け。
外に出ると空気はまだ冷たかった。
けれど足元の雪はもうしっかりした雪ではなかった。踏むと水を含んだような感触が靴底に来た。
「春が近いね」
セラが言った。
セラの息が白かった。
「あと何ヶ月?」
ハヤが聞いた。
「一ヶ月か、二ヶ月くらい?」
セラが答えた。
6人で村の中を歩いた。
冬の終わりの村は人通りも増え始めていた。
冬の間、家にこもっていた人たちが少しずつ、外に出始める時期だ。
ロインの家の前を通った時、ロインが6人を家の中に呼んだ。
「お母さん、いる」
「お母さんに挨拶していく?」
ハヤが聞いた。
「そう」
6人でロインの家に入った。
母は台所で夕食の準備をしていた。
6人が入ってきたのを見て、母は笑った。
「あら、みんな」
「お母さん、こんにちは」
ハヤが挨拶した。
「ロインの7歳、おめでとう、って言いに来てくれたの?」
「もう言った。それからトルムの家にも行った」
「そう。ありがとう」
母は台所から居間に出てきた。
6人と暖炉の前でしばらく話した。
母は6人と話すのが好きそうだった。普段、6人の話をロインから聞いているからだ。
セラが母をじっと見ていた。
ロインはそれに気付いた。
セラが母をこんなにじっと見るのを初めて見た。
「お母さん」
セラが呼んだ。
ロインの母がセラを見た。
「ん?」
「お母さんの目、私のお母さんと同じ色」
セラが言った。
母の動きが一瞬、止まった。
「……ほんとう?」
母が答えた。
「ほんとう。前から思ってた」
セラが答えた。
「ロインから聞いたの?」
「ちがう。私が見てた」
母はしばらくセラを見ていた。
セラの琥珀色の瞳を見ていた。
それから笑った。
「そうね。同じ色ね」
母は言った。
ロインは母の声の重さを聞き取っていた。
夏にロインがセラに「お母さんと同じ色」
と言った時のことをロインは思い出した。
あの時、セラは知らなかった、と言った。
今、セラはロイン以外から聞いたわけではない。セラ自身が気付いていた。
いつから気付いていたのだろう、とロインは思った。
「セラのお母さんもこんな目、なのね」
母がセラに聞いた。
「そう」
「お母さんに会ったことないかも」
「うちのお母さん、家からあまり、出ない」
「そう」
「お母さんも?」
「お母さんも最近、家にいることが多いわね」
母はそれ以上、何も言わなかった。
セラもそれ以上、聞かなかった。
けれど二人の間に何か、見えない繋がりのようなものがあった気がした。
ロインだけがそれを感じた。
たぶんハヤとマイアとエリンとトルムは気付いていなかった。
──
## 後半(夕方・章末)
夕方、6人はそれぞれの家に戻り始めた。
「またね、ロイン」
ハヤが最初に手を振った。
ハヤは走って、家の方に行った。冬でもハヤは走る。
マイアは両手を胸の前で組んでロインに小さく挨拶した。
「また、明日」
マイアの声はいつもの、柔らかい声に戻っていた。
エリンも本を抱えて、歩いていった。
「またな」
それだけ言った。
トルムは自分の家がすぐ近くだから最後にロインに手を上げただけだった。
セラは最後までロインの隣にいた。
ロインの家からセラの家までは坂を一つ越える距離。
いつも二人で最後まで歩く。
歩き始める前に母が家から出てきた。
「セラ、これ、持っていって」
母は小さな布の包みをセラに渡した。
「お母さんにと思って。お祝いにロインの誕生日のお茶を少しだけ」
「ありがとうございます」
セラは頭を下げた。
ロインとセラは二人で歩き始めた。
セラの足は雪解けの泥の中で滑りそうになっていた。
ロインはセラの腕を少しだけ支えた。
「ありがとう」
セラが言った。
「足、まだ本調子じゃない?」
「そう」
セラは答えた。
「冬の間、ほとんど、家から出てなかったから」
ロインはセラの腕をまだ支えていた。
セラの腕は夏よりずっと細くなっていた気がした。
「セラ」
「ん?」
「医者の人、来たって、ハヤから聞いた」
セラはしばらく黙った。
「そう」
「何て、言われたの?」
「わかんない、って」
「わかんない?」
「医者の人もわかんないんだって。私が何でよく熱を出すか」
「ふん」
「お母さんが心配してる」
「お母さんは何て?」
「もうしばらく様子を見ましょう、って。それしか、できない、って」
ロインはそれ以上、何も言えなかった。
何を言ってもセラの助けにはならない気がした。
セラの家に着いた。
セラはロインの腕から自分の腕を離した。
「ありがとう、送ってくれて」
「そう」
「お母さんからのお茶、お母さんに渡しておくね」
「そう」
セラはロインに手を振った。
ロインも手を振った。
戸が開いた。
セラの母が戸の向こうから出てきた。
「セラ」
セラの母が呼んだ。
「夕飯よ」
セラの母の声は低かった。
けれど声の中に深い優しさがあった。
セラの母の瞳は夕方の薄い光の中で母の瞳とまったく同じ色をしていた。
琥珀色。
蜜のような、薄い金色。
ロインはその色をじっと見ていた。
セラの母もロインを見た。
「ロイン、7歳おめでとう」
セラの母がロインに言った。
「ありがとうございます」
ロインは頭を下げた。
「セラのこといつもありがとうね」
「いえ」
セラの母はしばらくロインを見ていた。
何か、言いたそうな顔だった。
けれど言わなかった。
「気をつけて、帰ってね」
それだけ言った。
セラとセラの母は家の中に入った。
戸が閉まった。
ロインはしばらくセラの家の前に立っていた。
セラの母の瞳の色がまだ目の奥に残っていた。
母と、セラの母。
二人とも琥珀色の瞳。
偶然なのか、それとも何か、繋がりがあるのか。
ロインにはまだわからなかった。
ただ、覚えておこうと思った。
覚えておけば、いつか、わかる時が来るかもしれない。
ロインは自分の家に戻り始めた。
雪解けの泥の道をゆっくり、歩いた。
──
家に戻ると母が台所で夕食の準備の続きをしていた。
父はまだ戻っていなかった。
「ロイン、おかえりなさい」
「ただいま」
ロインは暖炉の前に座った。
枕元に置いている石とナイフを思い出した。
今日、セラからもう一つ、石をもらった。
二つ目の、青みがかった灰色の石。
家の裏でセラの母が見つけた石。
ロインはポケットから新しい石を出した。
夏の石と今日の石。
二つの石を暖炉の光の前に並べた。
色は似ていた。
ほとんど、同じ色だった。
母が台所から出てきた。
ロインの並べた石を見て、母がしばらく立っていた。
「ロイン、その石、どこで?」
母が聞いた。
「夏のは川の上流の石、ってトルムが言ってた。今日のはセラのお母さんが家の裏で見つけた、って」
「家の裏?」
「セラのお母さんが見つけて、ロインに渡してあげなさい、って言ったらしい」
「そう」
母はしばらく石を見ていた。
それからロインの隣に座った。
「綺麗な石ね」
「そう」
「大切にしなさい」
「そう」
母は二つの石を指で軽く触った。
「冷たい」
「そう」
「夏の石もまだ持ってるの?」
「ずっとポケットに入れてる」
「いつから?」
「夏から」
「半年以上ね」
「そう」
母は笑った。
「ロインは物を大事にする子ね」
「物を?」
「物を長く、覚えていられる子」
「お母さんもそう?」
「お母さんもそうかも」
「お父さんは?」
「お父さんは人を大事にする方の人」
「人?」
「物より人を覚えていられる人」
「ふん」
ロインは自分が物を覚えていられる子ということを知らなかった。
母がそう言うなら、そうなのかもしれないと思った。
けれどロインは自分がセラのことをたくさん覚えていることも知っていた。
セラの瞳の色、セラの手の温度、セラの息の白さ、セラの「わかんない」
という言葉。
物だけではなく、人のこともロインは覚えている。
それは母には言わなかった。
言う必要はないと思った。
──
夜、ロインは布団の中にいた。
枕元にはもう三つの物が並んでいた。
父のナイフ、夏の石、今日もらった新しい石。
ロインの宝物が増えていた。
半年で三つになった。
ロインは目を閉じて、今日のことを思い出した。
7歳の誕生日。
父からの道具。
ハヤの鈴、マイアの祝福の紙、トルムの動物の像、エリンの絵本、セラの新しい石。
6人でトルムの家で過ごした時間。
エリンとセラの小さなやり取り。
マイアが初めて、はっきり、自分の意見を言ったこと。
セラが「最近、誰が何を言ったか、混ざる」
と言ったこと。
セラの母の瞳の色が母と同じだったこと。
たくさんのことが一日の中にあった。
7歳になっても6歳の時とほとんど、何も変わらないように思えた。
ただ、セラだけは夏や秋より少しずつ、変わっている気がした。
セラは何かを失っているのではないか、とロインは思った。
記憶を失っているようには見えない。
けれど何か、ロインには見えないものをセラは少しずつ、失っているように見えた。
ロインは何がそれなのか、わからなかった。
ただ、覚えておこうと思った。
セラのことを覚えておこう。
セラが変わっていく、その変わり方を覚えておこう。
今のセラを覚えておこう。
母の言葉が頭の中に戻ってきた。
「忘れることはもう一度、起こすこと」
「覚えていれば、それが何か、わかる」
ロインは覚えていようにと決めた。
セラのことを覚えていよう。
ロインはゆっくりと目を閉じた。
眠りに落ちる前、最後に思い出したのはセラの母の琥珀色の瞳だった。
母とまったく同じ色。
あの色には何か、意味があるはずだ、とロインは思った。
意味はいつか、わかる時が来るかもしれない。
──
(第5話本文終わり)




