両親の時間
# 第4話「両親の時間」
## 前半(冬の家・父の帰還)
冬が来た。
朝、ロインが目を覚ますと家の天井に霜のような白さがあった。実際には霜ではない。家の中だから霜は降りない。けれど空気が冷えていると天井の木の色が白く見える。
ロインは布団の中でしばらく動かなかった。布団の外は寒い。布団の中の温度をまだ手放したくなかった。
母の声が下から聞こえた。
歌だった。
母の歌は夏よりも秋よりも冬の朝によく聞こえる気がした。家の中の音が冬はよく通る。
ロインは布団から出た。
寝間着の上に母から渡された厚い上着をもう一枚着た。それからはしごを降りた。
居間の暖炉には火が入っていた。
赤い炎が家の中の影を揺らしていた。冬の朝の暖炉は夏や秋の朝よりずっと長い時間、火を入れる。家の中の温度がすぐには上がらないからだ。
暖炉の前に父がいた。
父は暖炉の前で何かを彫っていた。
木の塊をナイフで削っている。
「お父さん」
ロインは驚いて、立ち止まった。
「そうだ」
父が振り向かずに答えた。
「いつ、戻った?」
「昨日の夜」
「気付かなかった」
「お前はもう寝ていた」
父は夏から村の外に出かけることが多かった。秋の間はほとんど家にいなかった。冬になって、初めて、長く家に戻っている。
ロインは暖炉の前に父の隣に座った。
火の温度がロインの顔をゆっくりと温めていく。
「何、作ってる?」
ロインが聞いた。
父はナイフの動きを止めずに答えた。
「お前のだ」
「俺の?」
「冬になったからお前にもナイフが必要だ」
「ナイフ?」
「子供用のナイフだ。木を削ったり、果物を切ったりするのに使う」
「ナイフを持つの?」
「6歳になったら、持つ。村では皆、そうだ」
ロインは知らなかった。
村の子供が6歳になったらナイフを持つ、ということを知らなかった。
他の家のことはロインにはよくわからないことが多い。
「ナイフは危なくないの?」
「危ない」
父は答えた。
「だから6歳になったら、持つ」
「6歳になったら、危なくないってこと?」
「いや」
父は削っている木を暖炉の光に近づけた。
「6歳になったら、危ないことを覚える時期だ。ナイフはその第一歩だ」
「第一歩」
「最初に自分の手で危ないものを持って、危なさを覚える」
ロインは父の言葉をしばらく考えた。
危ないものを持つ。
覚えるために。
ロインにはまだよくわからなかった。
父は削っていた木をロインの方に少し向けた。
木はまだ完成していなかった。柄の形が半分くらいできていた。
「これはお前の手に合わせる。お前が成長したら、新しいのを作る」
「お父さんが作るの?」
「村では父親が子供のナイフを作る」
「お父さんのナイフは誰が作ったの?」
「俺の父さんだ」
「お祖父ちゃん?」
「そうだ」
ロインはお祖父ちゃんに会ったことがなかった。
父の父はロインが生まれる前に亡くなったらしい。
父はお祖父ちゃんの話をあまり、しない。
「お祖父ちゃん、どんな人だった?」
ロインが聞いた。
父の手が少し止まった。
「俺に似ていた」
父はそれだけ言って、また、削り始めた。
ロインはそれ以上、聞かなかった。
父がそれ以上話さなさそうだったからだ。
母が台所から出てきた。
今朝の母はいつもより少しだけ、明るい顔をしていた。父が家にいるからだ、とロインは思った。母は父が家にいる時いつもより明るい顔をする。
「ロイン、おはよう」
母がロインに声をかけた。
「おはよう、お母さん」
母は暖炉の前に座って、父の手元を覗き込んだ。
「もう少しね」
母が父に言った。
「今日中にはできる」
「ロインもナイフを持つようになるのね」
母はロインを見た。
「危ないから最初はお父さんと一緒に使うのよ」
「そう」
ロインは答えた。
朝食は暖炉の前で家族3人で食べた。
冬の朝食は台所のテーブルではなく、暖炉の前で食べる。台所のテーブルは冬は寒すぎるからだ。
メニューはいつものパンと温かいスープ。スープは母が朝早くから煮込んでいた。中には薄く切った肉と村の南で採れた根菜が入っていた。
冬の朝のスープは夏や秋のスープよりロインは好きだった。身体の中まで温まるからだ。
「今日もみんなと?」
父が聞いた。
「そう」
「広場は寒いだろう」
「寒い」
ロインは答えた。
「冬は広場には長くいられない」
「そうだろう」
父は目を伏せた。
「冬の村は外で遊ぶのが難しい」
「そう」
「お前らはどうしてる?」
「誰かの家に集まる」
「誰の家?」
「いつもはトルムの家。トルムの家、広いから」
「トルムの家は確かに広い」
父は削るのをしばらく止めて、薪を一本、暖炉に足した。
──
## 前半(続き・母の本)
朝食を終えると母は皿を片付けた。
父はまた、ナイフを削り始めた。
ロインは母を手伝うために皿を台所に運んだ。
台所に立つと台所の中は暖炉のある居間よりずっと寒かった。母の手は毎朝、この寒さの中で料理をしている。
ロインは母の手を見た。指の関節がいつもより赤くなっていた。冬の冷たい水を毎朝触っているからだ。
「お母さん、手、冷たい」
ロインが言った。
「冷たいわね」
母は笑った。
「お母さんは平気?」
「平気よ。慣れてる」
「慣れる?」
「毎日やっていれば、平気になる」
「そう」
ロインは母の言葉を覚えておこうと思った。
毎日やっていれば、平気になる。
父もナイフを削るのが平気だ。
母も冷たい水が平気だ。
ロインはまだ何にも慣れていない。
ロインが平気なのは何だろう、と思った。
考えていると母がロインを見た。
「ロイン、今日は家にいてもいいのよ」
「家?」
「みんなとまた、いつもの場所に集まるんでしょう?」
「そう」
「冬は家にいてもいいの」
「でもみんなと会いたい」
「そう」
母はそれ以上、何も言わなかった。
ロインは台所を出て、居間に戻った。
父はまだナイフを削っていた。
ロインは暖炉の前にもう一度座った。
「お父さん」
「ん?」
「冬になったら、お父さん、また、出かける?」
父の手がまた、少し止まった。
「そうだ」
父は答えた。
「春になったら、また、長い旅に出る」
「春?」
「今はその準備だ」
「どこに行くの?」
「東の方だ」
「東?」
「東の森の、もっと向こうだ」
ロインは東の森のもっと向こう、という場所を想像してみた。
村から東に行ったことはない。
村の周りの森はロインも何度か、見たことがある。けれどもっと向こうとなると想像がつかなかった。
「お父さんは東の森のもっと向こうに何しに行くの?」
父は削る手を止めなかった。
「仕事だ」
「仕事?」
「そうだ」
「何の仕事?」
父はしばらく、答えなかった。
それからロインを横目で見た。
「いずれ、お前にも話す」
「いつ?」
「お前がもう少し大きくなったら」
「もう少し?」
「そうだ」
ロインはそれ以上、聞かなかった。
父がそれ以上話さなさそうだったからだ。
母が奥の部屋から何かを持って戻ってきた。
古い本だった。
本は革の表紙で表面がすり減っていた。
ロインはその本を見たことがあった。
家の居間の奥の棚にいつも置かれている本だ。
母は本を暖炉の前の床に置いた。
「今日、お母さんはこれを読むわ」
母が言った。
「その本?」
ロインは聞いた。
「最近、読む時間がなかったから」
「俺も見ていい?」
「いいわよ」
母はロインの隣に座った。
本を膝の上で開いた。
本の中の紙は黄色く変色していた。
ロインは本を覗き込んだ。
文字が並んでいた。
たくさんの文字がページの中に隙間なく並んでいた。
ロインはその文字を見た。
──
森の鐘の側面に並んでいた文字と同じような形だった。
ロインは息を止めた。
口に出しそうになって、止めた。
母の本の文字。
鐘の側面の文字。
両方が似ている。
母はページをゆっくりとめくった。
めくるたびに新しい文字が現れた。
鐘の側面の6つの文字と似た形のものがたくさんあった。
「お母さん」
ロインが小さく呼んだ。
「ん?」
「その文字、どこの文字?」
母の手がページの上で止まった。
母はロインを見た。
「古い文字」
母は答えた。
「どれくらい、古いの?」
「とても古い」
「お母さん、読める?」
「少しだけ」
「全部、じゃないの?」
「全部じゃない。読める部分と読めない部分がある」
母の答えは簡潔だった。
けれどロインには母が何かを言わずにいる、ということがわかった。
「その文字、村の人は読める?」
ロインが聞いた。
「村の人は読めない」
「お母さん、なんで読めるの?」
「お母さんの、お母さんが読めたから」
「お祖母ちゃん?」
「そう」
「お祖母ちゃん、どんな人だった?」
母は本のページを指で軽く撫でた。
「学者だった」
母は答えた。
「学者?」
「本を読んで考える人」
「お母さんも学者?」
「お母さんはちがう」
母は首を振った。
「お母さんはお祖母ちゃんからいくつか、教わっただけ」
ロインは母の手の動きを見ていた。
母はページをもう一度めくった。
新しいページに同じような文字が並んでいた。
「お母さん」
「ん?」
「この文字、どこか、別の場所で見たことある?」
母の手がまた止まった。
母はロインをもう一度見た。
今度は長く、見た。
「どこで見たの?」
母がロインに聞いた。
ロインは答える前に少し考えた。
鐘のことを話していいか、わからなかった。
村の年寄りは「人に話すな」
とは言わなかった。けれどトルムは「しないほうがいい気がする」
と言った。
ロインは結局、答えた。
「森の、奥」
「森の、奥?」
「鐘があった」
「鐘?」
母の声が急に低くなった。
父の手もナイフを削るのを止めた気がした。
「鐘の、側面に文字が6つ、あった」
ロインは続けた。
「6人で苔を払って、見つけた」
「鳴らした?」
母が聞いた。
「鳴らさない」
ロインは答えた。
「ほんとう?」
「ほんとう」
母の手が少しだけ、震えていた。
ロインはその震えを見た。
母が震えているのを初めて見た。
夏にトルムが鐘の前で震えた時のことをロインは思い出した。
あれと似ていた。
母は長く、息を吐いた。
それから笑った。
笑い方はいつもの母の笑い方ではなかった。
無理に笑ったような笑い方だった。
「そう」
母は言った。
「鐘を見つけたのね」
「そう」
「次は行かない方がいい」
「そう」
「ほんとうに行かない方がいい」
「そう」
母はもう一度長く、息を吐いた。
それからロインの頭を撫でた。
母の手はまだ少しだけ、震えていた。
──
## 中盤(マレンの教え・ガレンの名前)
「ロイン」
母が本を閉じて、ロインを見た。
「見たものを覚えていなさい」
母はそう言った。
これはいつもの母の言葉だった。
「見たものを覚えていなさい。
忘れることはもう一度起こすこと」
ロインはその言葉を知っていた。
何度も母から聞いた言葉だった。
けれど今日の母の言い方はいつもより強い気がした。
「お母さん」
ロインが聞いた。
「ん?」
「もう一度起こすって、どういうこと?」
母はしばらく、考えた。
「忘れたものはもう一度起こりやすい」
「忘れたら、また、起こる?」
「そう」
「覚えていれば、もう一度起こらない?」
「起こらない、とは限らない」
「じゃあ、覚えていても起こる?」
「起こる」
「じゃあ、覚える意味は?」
「起こった時にそれが何か、わかる」
ロインは母の言葉を頭の中で繰り返した。
「忘れたら、また、起こる。
覚えていても起こる。
けれど覚えていれば、それが何か、わかる」
ロインにはまだその意味の半分もわかっていなかった。
ただ母の声の重さだけは覚えておこうと思った。
父はまだナイフを削っていた。
父は母の話を聞いている顔だった。けれど口を開かなかった。
父が口を開かない時は聞いている時だ、とロインは知っていた。
「ロイン」
母がまた、呼んだ。
「ん?」
「断定する前によく見なさい」
「断定?」
「これはこうだ、と決めること」
「そう」
「決める前によく見て、よく考える」
「そう」
「決めるのは最後でいい」
「最後?」
「それ以上、考えても答えが出ない時。それまでは決めない方がいい」
母の言葉をロインは覚えようとした。
覚えるために頭の中で何度も繰り返した。
「決めるのは最後でいい。
それまでは決めない方がいい」
ロインは母の顔を見上げた。
母の琥珀色の瞳が暖炉の光の中でいつもより深く見えた。
「お母さん、いつも決めない人?」
ロインが聞いた。
母は少し笑った。
「お母さんは決めない方の人」
「お父さんは?」
「お父さんは決める方の人」
父が削る手を止めた。
「俺は決めなきゃならない時に決める」
父が初めて口を開いた。
「決めなくていい時は決めない」
「お母さんは最後まで決めない」
母が笑った。
「だからお父さんとお母さんは釣り合うのよ」
父も笑った。
父が笑うのをロインはたまにしか、見ない。
父が笑った時ロインはそれを見ておこうと思った。
父の笑い方は口の端が少しだけ、上がる。それだけだ。けれどロインには、それで十分だった。
「ロイン」
父がロインを呼んだ。
「ん?」
「ガレンがもうすぐ村に来る」
「ガレン?」
ロインは聞き返した。
夏の朝にも父はこの名前を口にした。あの時もガレンが「今度、村に来る」
と言っていた。けれど結局、ガレンは来なかった。
「夏に来るって言わなかった?」
「あの時は来られなかった。今度は来る」
「いつ?」
「来週か、再来週」
「そう」
母が横で何か言いたそうな顔をした。
今度は母は口を開いた。
「ロイン、ガレンと会ったら、よく話を聞きなさい」
母が言った。
「お父さんの、古い友達だから?」
「それもある」
「他にも理由が?」
「ガレンはたくさんのことを知っている。お母さんもお父さんも知らないことを知っている」
「そう」
「だからよく話を聞きなさい」
ロインは目を伏せた。
ガレンが来たら、よく話を聞こう、と決めた。
誰なのかも知らない人だ。
けれど母がそう言うなら、よく話を聞こう。
父は削るのを再開した。
ナイフの形が少しずつ、はっきりしてきていた。
柄の部分はもうできあがっていた。父の手が今は刃の部分の調整をしていた。
「ロイン」
父がまた、呼んだ。
「ん?」
「春になったら、お前を連れて行く」
「東?」
「そうだ」
「俺も一緒に?」
「お前にも見せたい場所がある」
「どこ?」
「行ってからわかる」
ロインは東の森のもっと向こうに自分が行く姿を想像してみた。
想像できなかった。
村から出たことがほとんど、ないからだ。
「危ないとこ?」
ロインが聞いた。
「危ないとこもある」
父は答えた。
「けど、お前とお母さんも一緒だ」
「お母さんも?」
「そうだ」
ロインは母を見た。
母の顔は笑っていた。
けれど母の手が少しだけ、強く膝を握っているのをロインは見た。
母は本当は笑っていない。
母は心配している。
ロインはそれをわかっていた。
けれど口には出さなかった。
口に出すと母がもっと心配する、と思った。
母が心配しているのを口に出さないで見ているしかなかった。
──
## 中盤(続き・ナイフの完成)
しばらくして、父が削る手を止めた。
「できた」
父がロインにナイフを差し出した。
ナイフは小さかった。
ロインの手の大きさに合っていた。
柄は木でできていた。父が削った木の柄だ。
刃は短く、けれどきれいに研がれていた。
「持ってみろ」
ロインはナイフを受け取った。
重さがちょうど、いい。
重すぎず、軽すぎない。
父がロインの手の重さに合わせて、作ってくれたのだろう。
「これで何を切るの?」
ロインが聞いた。
「最初は木だ」
「木?」
「木を削るのがナイフの練習だ」
「果物は?」
「いずれ、切る。けど、最初は木だ」
「そう」
父はもう一つの木の塊をロインに渡した。
「これを削ってみろ」
「どう、削るの?」
「自分の好きな形に削れ」
「形?」
「何でもいい。形を決めなくていい。ただ刃を木に当ててみろ」
ロインはナイフを木に当てた。
刃が木の表面を少しだけ、削った。
木の細かい屑が出た。
「ほら、削れた」
父が言った。
「そう」
ロインはもう一度刃を当てた。
今度はもう少しだけ、削った。
木の屑がもう少し出た。
「削っていると形が見えてくる」
父が言った。
「形?」
「最初は何を作るか、決めなくていい。削っていれば、自然に形が見えてくる」
ロインは何度も刃を木に当てた。
木の表面が少しずつ、変わっていった。
ロインはそれを面白いと思った。
母は横で本を読んでいた。
本のページをゆっくり、めくっていた。
時々、ロインの方を見て、少し笑った。
父は暖炉の前で自分のナイフを研いでいた。
父のナイフはロインのナイフよりずっと大きい。
父のナイフは研ぐと刃からしゅっという音がした。
ロインはその音を覚えておこうと思った。
──
## 中盤(続き・冬の狼)
しばらくして、父がナイフを研ぐ手を止めた。
「ロイン」
父が呼んだ。
「ん?」
「薪が足りなくなってきた。一緒に取りに行くか」
「そう」
ロインはすぐに立ち上がった。
父と二人で薪を取りに行くのは初めてだった。
普段、薪は父が一人で集めに行く。
母が台所から出てきた。
「気をつけてね」
母が父に言った。
父は目を伏せた。
「すぐ戻る」
父はロインにもう一枚厚い上着を着せた。
それから自分の腰に剣を差した。
剣をロインが見たのはこれが初めてだった。
父が家の中で剣を持っているのをロインは見たことがない。
普段、父の剣はどこにあるのかもロインは知らなかった。
「お父さん、その剣」
ロインが聞いた。
「そうだ」
「いつも持ってないよね」
「いつもは持たない」
「今日はなんで?」
父はしばらく、答えなかった。
それから答えた。
「最近、村の北の方に狼が出てる」
「狼?」
「3日前、隣の村で家畜が一頭、襲われた」
「ふん」
「だから外に出る時は剣を持つ」
ロインはそれを知らなかった。
3日前というと父が村に戻った日とほぼ同じだ。
父はその話を家の中ではしなかった。
母には言ったのだろう、とロインは思った。母が「気をつけて」
と言った時の声にそれが滲んでいた。
「俺のナイフは?」
ロインが聞いた。
「腰に差していけ」
「狼に使う?」
「いや」
父は首を振った。
「お前のナイフはまだ狼には使えない」
「使えない?」
「お前のナイフは木を削るためのナイフだ。狼の毛皮はお前のナイフでは切れない」
「ふん」
「だが持っていけ。何かが起きた時お前の手の中に何かがある、ということが大事だ」
「そう」
ロインは自分のナイフを腰に差した。
父のナイフと比べるとずっと小さかった。
それでも腰にナイフがあるという感覚は何か、新しかった。
──
外は雪が積もっていた。
朝、ロインが起きた時にはなかった雪だった。
昼の間に降り始めたらしい。
村の道に薄く、白い層ができていた。
父とロインは村の北の方に向かった。
ロインはこれまで村の北にはほとんど、行ったことがなかった。
村の北は森がもう少し近い。
冬の薪は村の北の森から運んでくることが多い。父と村の他の大人が交代で薪を集める。
「お父さん、いつもこっち?」
ロインが聞いた。
「今の季節はこっちだ」
「夏は?」
「夏は薪はいらない」
「ふん」
雪の上を二人で歩いた。
ロインの足跡が父の足跡よりずっと小さく見えた。
父の足跡の中にロインの足跡が収まりそうな大きさだった。
しばらく歩いて、村のはずれを抜けた。
村のはずれの森の入口が雪の中に見えた。
2年前の夏、6人で来た森の入口。あの場所だった。
冬の森の入口は夏の入口と全く違う場所のように見えた。
木の葉がほとんど、ない。地面に雪が積もっている。光の入り方も夏よりずっと強い。雪が光を反射していた。
父は森の入口の少し手前で足を止めた。
「ここで薪を集める。森の中には入らない」
「そう」
父は地面の上の、雪の中から落ちている枝を探し始めた。
雪をナイフで軽く、払う。
枝が出てくる。
適度な大きさの枝を選んで束ねる。
ロインも父の真似をして、雪を払い、枝を拾った。
10本ほど、集めた頃だった。
父が急に動きを止めた。
「ロイン」
父の声が低かった。
「ん?」
「動くな」
ロインは動きを止めた。
父の声はトルムが森で野犬と出会った時の声と似ていた。
ロインはそれを思い出した。
父は自分の腰の剣の柄に手を置いた。
まだ抜いてはいない。
ただ手を置いた。
それだけで空気が変わった気がした。
「ロイン、後ろに下がれ」
父が言った。
「ゆっくり」
「そう」
ロインはゆっくり、後ろに下がった。
父の背中の、ずっと後ろまで。
父の背中がロインの前にいっぱい、広がっていた。
家で見る父の背中よりずっと大きく、見えた。
雪の上に足音が聞こえた。
重い、足音だった。
人の足音ではない。
四つの、足の音。
ゆっくり、近づいてきた。
木の影からそれが現れた。
狼だった。
一匹だけ。
けれど大きかった。
ロインがこれまで見たことのある、どんな犬よりもずっと大きかった。
毛が灰色と白の、まだら模様。
目が薄い、黄色。
口の周りに最近、何かを食べた、跡が残っていた。
狼は父を見た。
父も狼を見た。
しばらく、二人とも動かなかった。
雪がふわり、と、また、降り始めていた。
雪が父の頭の上にわずかに積もり始めていた。
父がゆっくり、剣を半分だけ、抜いた。
剣の刃が雪の光に当たって、鋭く、光った。
狼がその光を見た。
それから父の目を見返した。
しばらく、また、動かなかった。
ロインは息を止めていた。
止めていたことに気付かなかった。
気付いた時にはもう長く、止めていた。
狼がわずかに唸った。
低い、唸りだった。
それから踵を返した。
森の中に走り去った。
足音が雪の中に消えるまで父は剣を半分抜いたまま、立っていた。
完全に聞こえなくなってからようやく剣をしまった。
「行ったぞ、ロイン」
父が振り向いた。
「そう」
ロインはようやく息を吐いた。
「お父さん、こわかった」
ロインが正直に言った。
父は少し笑った。
「俺もだ」
「お父さんもこわかった?」
「そうだ」
「剣、抜かなかった」
「抜かなくて、いい時は抜かない」
「抜いていたら?」
「狼は戦った。死ぬまで」
「お父さんが勝つ?」
「たぶん勝つ」
「たぶん?」
「狼は強い。剣を持っていても無傷では勝てない」
「ふん」
父はロインの肩に手を置いた。
「お前はまだ剣を持つには早い」
父が言った。
「いずれ、お前にも剣を作る」
「いつ?」
「13歳の頃に剣を持つ」
「ナイフから剣に?」
「子供の手から大人の手に変わる頃に」
ロインは自分の腰のナイフを触った。
今日のナイフはまだ出さなかった。
出す時が来なかった。
来なくて、良かった、と、ロインは思った。
「ロイン」
父がもう一度ロインを呼んだ。
「ん?」
「お前は今日、狼を見た。覚えておけ」
「そう」
「狼はいつか、お前の前にもう一度出てくる」
「もう一度?」
「狼は一度、姿を見せた相手のことを覚えている」
「覚えている?」
「だからお前も覚えておけ」
「そう」
ロインは覚えておこうと思った。
狼の、灰色と白の、まだら模様。
薄い、黄色の目。
口の周りの、何かを食べた跡。
父が剣を半分抜いた瞬間の、光。
父の背中が家で見るよりずっと大きく、見えたこと。
すべて、覚えておこう、と、思った。
父は集めた薪を肩に担いだ。
ロインも自分が集めた小さな束を抱えた。
二人で村に戻った。
帰り道、雪はまた、止んでいた。
父の足跡とロインの足跡が雪の上に並んで続いていた。
「お父さん」
ロインが歩きながら、言った。
「ん?」
「俺もいずれ、剣を持つ?」
「持つ」
「強くなれる?」
「強くなれる」
「お父さんみたいに?」
父はしばらく、答えなかった。
それから答えた。
「お父さんより強くなれ」
「ふん」
ロインはその言葉を覚えておこうと思った。
父より強くなれ、と、父が言った。
意味はまだ完全にはわからなかった。
ただ覚えておこう。
いつか、わかる時が来るかもしれない。
──
## 後半(午後・夕方・夜)
午後になって、家の外に出た。
ロインは自分のナイフを腰のポケットに入れていた。
母が「みんなに見せない方がいい」
と言った。
「なんで?」
「他の子はまだナイフを持っていない子もいる。羨ましがるから」
「そう」
ロインは納得した。
広場には5人がもう来ていた。
セラだけが来ていなかった。
「セラ、今日は?」
ロインが聞いた。
「今日は来ない、って」
ハヤが答えた。
「来ないの?」
「さっき、セラのお母さんが広場に来て、教えてくれた」
「お母さんが?」
「セラ、ちょっと熱があるって」
「熱?」
ロインは聞き返した。
「冬の風邪、かもしれないって」
ロインはしばらく、何も言わなかった。
セラが来ない。
冬の風邪、らしい。
「セラの家、行ってもいい?」
ロインが聞いた。
「ロインだけ?」
「いや、みんなで」
「6人じゃなくて、5人だね」
「5人でいいから」
5人でセラの家に向かった。
セラの家はロインの家から坂を一つ越えた場所にある。
セラの家の前に着くと戸が閉まっていた。
ロインは戸を叩いた。
セラの母が戸を開けた。
セラの母は母よりも少しだけ年上に見えた。けれど瞳の色は母と同じだった。
琥珀色の瞳。
ロインは夏にその色に気付いていた。
「あら、ロイン」
セラの母がロインを見た。
「セラ、大丈夫ですか?」
ロインが聞いた。
「熱があるの。今日は寝てる」
「会えますか?」
セラの母はしばらく、考えた。
「ちょっとだけなら、いいわよ」
「ありがとうございます」
「他の子は?」
「外で待ちます」
ハヤが答えた。
「みんなが入るとセラが疲れるから」
ロインは家の中に入った。
セラの家の中はロインの家と似ていた。けれど少しだけ、違う。何が違うのか、ロインにはすぐにはわからなかった。
セラは奥の部屋で布団に入っていた。
顔がいつもよりずっと白かった。
頬に少しだけ、赤みがあった。熱のせいだ。
「セラ」
ロインが小さく呼んだ。
セラはゆっくり、目を開けた。
「ロイン」
セラは答えた。
声がいつもより細かった。
「来た」
「来てくれたんだ」
セラは布団の中で少しだけ笑った。
ロインはセラの横に座った。
セラの布団の隣に椅子があった。それに座った。
「熱、どれくらい?」
ロインが聞いた。
「わかんない」
セラは答えた。
「お母さんが熱があるって言うからたぶんある」
「自分では?」
「ちょっと暑い」
「そう」
セラはロインを見ていた。
「ロイン、ナイフ、持ってる?」
セラが聞いた。
ロインは驚いた。
「なんで知ってるの?」
「6歳になったら、ナイフを持つ、って、お母さんが言ってた」
「今日、もらった」
「見せて」
ロインはポケットからナイフを出した。
セラに見せた。
セラは布団の中でナイフを目で見た。
触りたそうな顔をしたが手は出さなかった。
「きれい」
セラが言った。
「きれい?」
「お父さんが作ったの?」
「そう」
「ロインのお父さんはナイフを作るの、上手」
「セラのお父さんは?」
「うちのお父さんは作らない。買ってくる」
「買う?」
「村の鍛冶屋さんから」
「そう」
セラの父のことをロインはあまり、知らなかった。
セラの父も村の外に出ることが多いらしい。けれど何の仕事をしているのか、ロインは知らない。
「セラ」
ロインが呼んだ。
「ん?」
「早く、治ってね」
「そう」
セラは布団の中で少しだけ目を伏せた。
「明日、治るかな」
「治るよ」
「そう」
セラは目を閉じた。
「ロイン、また、来てくれる?」
「来る」
「明日も?」
「明日も」
「ありがとう」
ロインはしばらく、セラの隣に座っていた。
セラは目を閉じたまま、何も言わなかった。
セラの呼吸の音だけが布団の中から聞こえた。
呼吸は少し速かった。
しばらくして、セラの母が入ってきた。
「セラ、寝てるかしら?」
セラは答えなかった。眠ったらしい。
「ロイン、ありがとうね」
セラの母がロインに言った。
「明日、また来てもいいですか?」
「いいわよ。熱が下がってたら、もう少しゆっくり、話せるから」
「はい」
ロインはセラの家を出た。
外で4人が待っていた。
「どうだった?」
ハヤが聞いた。
「眠ってた。少し話した」
「元気だった?」
「熱、少しあった」
「明日、治るかな」
「治るって、言ってた」
5人で広場に戻った。
冬の広場は誰もいなかった。
村の人は冬は家にいる時間が多い。
5人でしばらく、井戸の縁に座っていた。
誰も口を開かなかった。
セラがいないといつもの広場の音が少しだけ、違う気がした。
「俺、帰る」
トルムが言った。
「俺もだ」
エリンも立ち上がった。
ハヤとマイアも続いた。
ロインは最後に立ち上がった。
──
夜、ロインは布団の中にいた。
冬の布団は厚かった。母が夜のためにもう一枚、毛布をかけてくれていた。
ロインは新しいナイフを布団の枕元に置いていた。
母が「夜はナイフを布団に入れない方がいい。危ないから」
と言ったからだ。
枕元にはもう一つ、夏から持っている石が置いてあった。
石とナイフ。
ロインの枕元には二つの物が並んでいた。
ロインは目を閉じて、今日のことを思い出した。
父がナイフを作ってくれたこと。
母の本の文字が鐘の文字と似ていたこと。
母が震えていたこと。
父がガレンの名前をまた口にしたこと。
母が「ガレンの話をよく聞きなさい」
と言ったこと。
父が「春になったら、お前を連れて行く」
と言ったこと。
母の手が膝の上で強く握られていたこと。
セラが熱を出していたこと。
セラの母の瞳が母と同じ色だったこと。
セラの呼吸が少し速かったこと。
たくさんのことが一日の中にあった。
6歳のロインにはそれぞれが別々のことのように感じられた。
ただ今日は夏や秋の夜とは少しだけ違う感じが胸の中にあった。
母の「見たものを覚えていなさい」
という言葉。
「忘れることはもう一度起こすこと」
ロインはその言葉を何度も繰り返した。
今日見たものを覚えておこう、と思った。
父の手がナイフを削る動き。
母が本のページをめくる指。
母の手の震え。
父の笑い方。
セラの白い顔。
セラの母の琥珀色の瞳。
全部、覚えておこう、と思った。
──
ロインは目を開けた。
布団の中でふと考えた。
ガレンがもうすぐ村に来る。
来週か、再来週。
ロインはガレンに会う。
母が「よく話を聞きなさい」
と言った人に会う。
ガレンはたくさんのことを知っている。
お母さんもお父さんも知らないことを知っている。
ロインにはまだガレンがどんな人か、想像できなかった。
ただ母がそう言ったということがロインの中で強く残っていた。
ロインはもう一度目を閉じた。
最後に思い出したのは母の本の中の文字だった。
鐘の文字と似ていた、あの文字。
ロインはその文字をもう一度思い出そうとした。
今度は思い出せた。
忘れていなかった。
「忘れることはもう一度起こすこと」
母の声が頭の中でもう一度聞こえた。
ロインは眠りに落ちた。
枕元にはナイフと石が並んでいた。
──
(第4話本文終わり)




