六人の約束
# 第3話「六人の約束」
## 前半(秋の村・再び森へ)
秋が来た。
朝の窓を開けると空気の匂いが変わっていた。夏の乾いた粉のような匂いはもうない。代わりに湿った土と落ち始めた葉の匂いがした。ロインは台所に降りる前にしばらく窓辺で空気を吸っていた。
母は台所で果物を切っていた。秋の果物だ。村の南の方で採れる、皮の硬い実。中身は薄い橙色で噛むと少しだけ酸っぱい。
「おはよう、ロイン」
「おはよう、お母さん」
父は数日前に村に戻ってきていた。今朝は早く起きて、もう仕事に出ていた。父の仕事は最近、村の外との行き来が多い。何かの準備をしているらしい。母が前にそう話していた。何の準備かは母も知らないようだった。
ロインは母の手元を見ていた。母の手は秋になっても変わらず動く。包丁の動きがいつも同じリズムだ。
ロインは果物を一切れ、母から受け取った。噛むと酸っぱさが舌の奥に広がった。
「今日もみんなと?」
母が聞いた。
「そう」
「森には行かないでね」
母の声は夏の朝と同じだった。
ロインは少し考えてから答えた。
「行くかも」
母の包丁が止まった。
「奥には行かない。前と同じ場所」
母はしばらくロインを見ていた。母の琥珀色の瞳が秋の薄い光の中でいつもより少しだけ深い色に見えた。
それからまた包丁を動かし始めた。
「気をつけて」
それだけ言った。
ロインはその「気をつけて」
を、覚えておこうと思った。夏の朝の「気をつけて」
と、声の重さが違っていた気がした。
ロインは夏に森の奥で野犬と出会ったことを母には話していなかった。
話せば二度と森に入らせてもらえない気がしたからだ。
6人で森に行ったこと自体は話したけれど、鐘のことも野犬のことも、誰にも言わなかった。
それでも母は何かを察しているらしく、「気をつけて」
が夏より重くなっていた。
それから時々、ナイフのことを考えるようになっていた。
村の他の子が持っているナイフ。トルムが鉈を腰に差している姿。
自分にはまだない。
6歳には早い、と父が前に言っていた。
けれど欲しい、と思う気持ちは、夏の野犬の日から消えなかった。
朝食を済ませて、家を出た。
外の風は乾いていた。夏の風より軽い。けれど、すぐに袖の中に入ってくる。袖から入った風は首の付け根で止まる。秋の風は夏より身体の中に入りやすい。
ロインはズボンのポケットに手を入れた。
夏の朝にセラが拾った、青みがかった灰色の石がまだ入っていた。
ロインはあれから毎朝、ポケットに石を入れて家を出る。理由はない。ただ、石があるとポケットが少しだけ重くなる。その重さがなぜか安心する。
広場にはもうエリンが来ていた。
エリンは大きな木の下で本を開いていた。今日の本もまた違うものだった。エリンの父はエリンに本を渡すのが好きらしい。家の本棚から季節ごとに違う本を選んでエリンに渡す。
ロインが近づくとエリンが顔を上げた。
「早いな、お前」
「お前こそ、早い」
ロインも返した。
エリンは小さく口の端を上げた。エリンが笑うのはたまにしか見ない。
「秋は本が読みやすい。夏は外で読んでも目が痛い」
「目が痛い?」
「日差しで字が見えにくい。秋になると見える」
「ふん」
ロインはそう返した。
エリンはまた本に目を戻した。
ロインは井戸の縁に座って、エリンが本を読むのを見ていた。
エリンが本を読む時、指で行をなぞる。なぞった行が目より少し先を進んでいる。エリンの指はいつも目より速い。
トルムが来た。今日は走らずに来た。
「お待たせ」
「今日は走らないんだな」
ロインが言った。
「秋は走ると息が冷たい」
「冷たい?」
「空気が冷えてる。走るとそれを吸い込む」
「ふん」
トルムは井戸の縁にロインの隣に座った。
トルムの服は夏より少し厚くなっていた。村の人は皆、もう少し厚い服を着始めている。ロインも家を出る前に母から「これを着なさい」
と渡された厚い上着を上に着ていた。
ハヤが来た。
「おはよう!」
ハヤは走ってきた。トルムが「秋に走るな」
と言いかけたが言わなかった。ハヤは走らないと気が済まないらしい。
ハヤの息は確かに冷たそうな白さで口から出ていた。
「セラとマイアは?」
ハヤが聞いた。
「まだ」
ロインが答えた。
マイアが少し遅れて来た。
今日のマイアの服は白ではなかった。薄い灰色の服だ。秋になると村の女の子は白ではなく、もう少し濃い色を着る。マイアの母もそれに合わせたらしい。
「おはよう」
マイアの声は秋になって、少しだけ大きくなっていた。
夏は息が浅かった。秋になって、息がちゃんと吸えるようになったらしい。
5人が揃った。
セラだけがまだだった。
「セラいつもより遅いね」
ハヤが言った。
「そう」
ロインが答えた。
5人でセラを待った。
広場の周りで村の人が朝の仕事を始めていた。
井戸の水を汲むおばさん。
洗濯物を運ぶ少女。
村の北の方から薪を運ぶ大人。
秋になっても村の朝の音はほとんど同じだった。少しだけ足音が乾いた音になった気がする。
セラが広場の入口に現れた。
歩き方がいつもよりゆっくりだった。
「セラ、遅い!」
ハヤが声を上げた。
セラは答えずに5人のところまで歩いてきた。
セラの顔はいつもより白かった。
「セラ、大丈夫?」
マイアが小さく聞いた。
「そう」
セラは答えた。
「ちょっと寝坊した」
セラは笑った。
笑い方はいつものセラの笑い方だった。けれど、笑った後、セラはすぐに井戸の縁に座り込んだ。
セラが座る前に少しふらついた、ように見えた。ロインだけがそう見えたのかもしれない。
ロインはそれを口には出さなかった。
セラ自身が何も言わないなら、聞かない方がいい、と思った。
「今日、何する?」
ハヤが聞いた。
「鐘」
セラがすぐに答えた。
5人の顔がセラに向いた。
「鐘?」
ハヤが繰り返した。
「もう一度、行きたい」
「夏の鐘?」
「そう」
トルムが眉を寄せた。
「あれからまだ二月くらいしか経ってないぞ」
「行きたい」
「なんで?」
「わかんない」
セラはそう答えた。
「行きたい気がする、それだけ」
ロインはセラの言い方を覚えていた。夏の朝にもセラは同じ言い方をした。
「わかんない、行きたい気がした、それだけ」。
あの時と同じ声だった。
トルムは少し考えてから目を細めた。
「俺はいいぞ」
「俺もだ」
エリンが本を閉じた。
「あの文字をもう一度、見たい」
「私も」
マイアが小さく言った。
「私も!」
ハヤが手を上げた。
「ロイン?」
セラがロインを見た。
ロインはもう答えは決まっていた。
「行く」
セラの顔が少しだけ明るくなった。
「じゃあ、行こう」
セラは立ち上がった。
立ち上がる時、また、ふらつきかけた。
今度はハヤも気付いた。
「セラ、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
セラはもう一度、答えた。
ロインはポケットの中の石を手のひらで握った。
石は秋の朝の温度を持っていた。冷たいというよりひんやり、している。
ロインは何も言わずに6人の最後尾を歩き始めた。
──
## 中盤(鐘の前・夢の語り合い)
森への道は夏よりも歩きやすかった。
夏は地面が乾きすぎて、足元の埃が立った。秋は地面が湿っているけれど、ぬかるんではいない。歩きやすい状態の地面だった。
6人は夏の時と同じ順番で歩いた。トルムが先頭、セラがその後ろ、ロインがセラの後ろ。ハヤとマイアとエリンがその後ろを続いた。
森の入口の二本の木は葉の色が変わっていた。緑から黄色と橙の混ざった色になっていた。葉の一部はすでに地面に落ちていた。
ロインは二本の木にもう一度手を当てた。
木は夏よりも冷たかった。
朝の温度が木に入り込んでいた。
「冷たい」
ロインがそう言うとセラも木に手を当てた。
「ほんとだ」
セラはそう言った。
「夏よりずっと冷たい」
セラの手はいつもより白く見えた。木の冷たさでもっと白くなる。
トルムが進み始めた。
「行くぞ」
6人は森の中に入った。
森の中は夏よりもさらに上の枝の色が違っていた。緑だった部分が黄色や赤に変わっている。光の入り方も違う。夏は枝の隙間から点で落ちてきていた光が秋はもう少し広い面で落ちてくる。葉が少し落ちて、隙間が広がったからだ。
ハヤが上を見上げた。
「秋の森、きれいだね」
「そうだ」
トルムが答えた。
「いや、きれいだな」
トルムはまた言い直した。
ハヤがトルムを見て笑った。
「あんた、たまに『ああ』って言うけど、すぐ言い直すよね」
「いや。父ちゃんに行儀悪いって言われたんだ」
「お父さん、厳しいの?」
「厳しくはない。けど、年寄りに行儀悪いって言われたら、直せって、言う」
「ふん」
ロインはトルムと父ちゃんのやり取りを想像してみた。トルムの父ちゃんはロインも何度か見たことがある。寡黙で、けれど目が優しい人だ。トルムが「そうだ」
と言った時、トルムの父ちゃんは何と言って直したのだろう、と思った。
歩きながら、ハヤが歌を歌っていた。
今度は知っている歌だった。村の子供が歌う、季節の歌。秋の歌。秋に皆で歌う歌。
ハヤの歌はいつもよりは声が小さかった。冷たい空気の中で大きな声を出すのが難しいらしい。
セラはあまり、口を開かなかった。
セラはトルムのすぐ後ろを歩いていた。歩く速度はトルムについていっている。
けれど、ロインから見るとセラの背中がいつもより少しだけ重そうに見えた。
「セラ」
ロインが後ろから呼んだ。
「ん?」
「歩くの、大丈夫?」
セラは振り向かなかった。
「そう」
そう答えた。
「ちょっと疲れてるだけ」
「疲れてる?」
「夜、あまり、寝てない」
「なんで?」
「わかんない」
セラはまた、答えた。
「わかんない」
と言う時のセラは本当にわからないのだ、と、ロインは知っていた。
セラはここ最近、よく「わかんない」
と言う。夏の頃から増えていた気がする。
10分ほど歩いた。
夏の時とほぼ同じ時間だった。
トルムが足を止めた。
「ここだ」
6人で円の石をもう一度、見た。
石は夏の時と変わらず並んでいた。
「向こうに鐘」
ハヤが奥を指差した。
「そう」
6人で奥に進んだ。
鐘は夏の時とほとんど変わっていなかった。
苔の付き方が少しだけ変わったように見える。秋になって、新しい苔が表面に増えていた。けれど、形は同じだった。
セラが鐘の真下に立った。
鐘の中を見上げた。
「振り子、まだある」
「鐘の振り子は消えない」
エリンが後ろから言った。
「鳴らさない限り、ずっとある」
「鳴らさない」
セラがすぐに言った。
トルムは夏の時と同じ場所に立っていた。鐘の少し離れた場所。
夏の時はトルムの手が震えていた。
秋の今、ロインはトルムの手を見た。
震えていなかった。
ロインはそれを少し、考えた。
夏の時、トルムは何で震えていたのだろう。今は震えていない。
場所は同じ。鐘も同じ。
違うのは季節だけだ。
そして、もう一つ違うのは6人がもうこの場所を知っていることだった。
夏は初めての場所だった。秋は二回目だ。
初めての場所と二回目の場所では何かが違う。
ロインは何が違うのか、まだ言葉にできなかった。
「文字、見る」
セラが鐘の側面に近づいた。
6人で夏に苔を払った場所をもう一度見た。
6つの文字はまだそこにあった。
苔はまた少し戻っていたけれど、6人で指で払えば、すぐに文字が見えた。
ロインは文字をじっと見た。
夏の夜、ロインはこの文字を思い出そうとしたが思い出せなかった。
今、こうしてもう一度見ると文字の形が確かにそれだった。
ロインは夏の夜、これを思い出せなかった自分が信じられない、と思った。
ロインは指で文字をなぞった。
一文字、一文字。
覚えるために。
今度は忘れないように。
セラがロインの隣で同じ動きをした。
セラも指で文字をなぞった。
セラの指の動きはロインよりゆっくりだった。
「これ、覚えてる?」
ロインがセラに聞いた。
「そう」
セラは答えた。
「夏に見た時からずっと覚えてる」
「忘れなかった?」
「忘れなかった」
セラはそう答えた。
「ロインは忘れた?」
「……ちょっと忘れた」
ロインは正直に言った。
「夏の夜、思い出せなかった」
「そう」
セラはそれ以上は聞かなかった。
ロインは自分とセラの違いを少し考えた。
セラは覚えている。
自分は少し、忘れた。
同じ場所で同じ文字を同じくらい見ていたはずだった。
「いいか」
トルムが6人を呼んだ。
「ここで何かしようぜ」
「何か?」
ハヤが聞いた。
「夢の話をしよう」
セラが答えた。
セラの声は急にはっきりしていた。
「みんな、大きくなったら、何になりたいか」
ハヤが両手を上げた。
「いいね、それ!」
6人で鐘の前の地面に座った。
鐘を囲むようにして、円のような形で。
鐘は6人の真ん中に立っていた。
「じゃあ、私から」
セラが最初に言った。
「私は強くなりたい」
「どれくらい?」
ハヤが夏の時と同じ質問をした。
「一番、強く」
セラの声も夏の時と同じだった。
「なんで強くなりたいの?」
ハヤが夏では聞かなかったことを今日は聞いた。
セラはしばらく答えなかった。
鐘を見上げていた。
それから答えた。
「強くないと何かを守れない、気がする」
「何を守るの?」
ハヤが続けて聞いた。
「わかんない」
セラはそう答えた。
「まだわかんない。けど、何かを守りたい、気がする」
ロインはセラの言葉を覚えておこうと思った。
「強くないと何かを守れない、気がする」
「まだわかんない。けど、何かを守りたい、気がする」
セラの「わかんない」
は、夏より増えていた。
増えていることに気付いているのはたぶんロインだけだった。
「次、俺」
トルムが言った。
「俺は村に残る」
「夏と同じだね」
ハヤが言った。
「いや、同じだ。考えても答えは変わらない」
トルムは少し笑った。
「俺の道は決まってる。父ちゃんの仕事を継いで村に残る。それが俺の道だ」
「変わらない人って、いいな」
ハヤが言った。
「変わらない人?」
「変わらないって、決めてる人。私とは違う」
「お前は変わるのか」
「私は村を出る」
ハヤが両手を頭の後ろで組んだ。
「夏もそう言ったね」
「そう、言った」
「マイア」
セラがマイアを見た。
マイアは両手を膝の上で組んでいた。秋の冷たい地面で座っていると手が冷えるからだ。
「私は神様にお仕えする」
「修道院に入るの?」
セラが聞いた。
「そう」
「いつ?」
「お母さんが12歳になったら、っていうの」
「12歳って、もう少しだね」
「もう少し」
マイアは下を向いた。けれど、声には迷いがなかった。
「エリン」
セラがエリンに振った。
エリンは本を閉じていた。
「俺は学園に行く」
「魔法学園?」
「もう決めてある」
「いつ、行くの?」
「13歳になったら。それまでにもっと本を読む」
エリンは膝の上の本を手のひらで撫でた。
「学園に入るとたくさんの本が読める。父ちゃんから聞いた」
「お父さん、学園、行ったの?」
ハヤが聞いた。
「いや、行ってない。けど、行きたかったらしい。行けなかったから俺に行かせたいんだ」
「ふん。代わりに?」
「代わりじゃない。父ちゃんの夢を俺が継ぐんだ」
「継ぐんだ?」
「そうだ」
エリンははっきり言った。
ロインはエリンの言い方がいつもより強い気がした。エリンは論理的なことをいつも淡々と言う。今日は淡々ではなかった。
父ちゃんの夢を継ぐ、ということがエリンにとっては論理ではなく、もっと別の何かなのかもしれない、とロインは思った。
「ハヤ」
セラがハヤを見た。
「私は村を出る」
「どこへ?」
「決めてない。けど、ここじゃない、どこか」
「家族は?」
マイアが小さく聞いた。
ハヤは少し黙った。
「家族は寂しがる、と思う」
「寂しがるね」
「けど、私はここにいたら、苦しくなる」
「苦しい?」
「なぜかわかんない。けど、苦しい。だから出る」
ハヤの答えはロインの予想と少しだけ違った。
ハヤはいつも明るい。
苦しい、という言葉がハヤの口から出るのをロインは初めて聞いた。
ハヤもハヤなりにわかんないことを抱えているらしかった。
「ロイン」
セラが最後にロインを見た。
5人の顔がロインに向いた。
ロインは考えた。
夏の時はまだわからない、と答えた。
今はどうだろうか。
夏より少しだけ何かが見えてきた気がする。
けれど、はっきりとはまだ言えなかった。
「……まだわからない」
ロインは夏と同じ答えをもう一度した。
「変わってない、ね」
ハヤが少し笑った。
「変わってない」
ロインも頷くように少し笑った。
セラはロインを見て、それから笑った。
「ロインは、それでいい」
「ん?」
「ロインはロインのままでいい」
セラは夏と同じことを言った。
ロインはそれも覚えておこうと思った。
──
## 中盤(続き・約束)
「ねえ」
セラが立ち上がった。
セラは鐘の真下にもう一度、立った。
「みんな」
「ん?」
ハヤが見上げた。
「大きくなってもここに集まろう」
セラの声は急にはっきりしていた。
「ここって、鐘の前?」
ハヤが聞いた。
「そう」
「いつ?」
「いつでもいい。けど、必ず、一度は戻ってこよう」
「みんなで?」
「みんなで」
トルムが立ち上がった。
「いいぞ」
「俺もだ」
エリンも立ち上がった。
マイアもハヤも立ち上がった。
ロインも立ち上がった。
6人で鐘の周りに円のように並んだ。
セラが右手の小指を上に立てた。
「指、絡めよう」
「いいね!」
ハヤが自分の小指をセラの小指に絡めた。
それからトルムが自分の小指をハヤの小指に絡めた。
エリン、マイア、ロインの順で続いた。
6人の小指が全部、繋がった。
「約束」
セラが言った。
「約束」
5人が繰り返した。
ロインの小指はセラの小指と絡まっていた。
セラの小指はいつもの、セラの体温だった。
しばらく6人はそのまま立っていた。
鐘の真下で。
鐘は何も言わなかった。
鐘は、ただ、そこにあった。
「これで約束、できた」
セラが小指を離した。
他の5人も小指を離した。
6人で鐘をもう一度、見上げた。
ロインは鐘の側面の文字をもう一度、目で追った。
6つの文字。
今度は忘れない、と思った。
セラがロインの隣に立っていた。
セラの息が少しだけ白かった。
秋の冷たい空気でセラの息が白く見えた。
ロインはセラの息の白さを見ていた。
他の5人の息も白いはずだった。
けれど、ロインの目にはセラの息だけが白く見えた。
「もう戻ろう」
トルムが言った。
6人で鐘の場所を離れた。
帰り道、ハヤがまた、歌を歌い始めた。
今度は歌の声が少しだけ大きかった。
──
## 後半(川辺・帰路・夜)
森を出て、村に戻った。
村の南の道を歩いている時、トルムが言った。
「川、寄っていくか」
「いいね!」
ハヤが手を上げた。
「水、冷たくない?」
マイアが聞いた。
「足を浸ける程度なら、まだ大丈夫だろう」
トルムが答えた。
6人で川に向かった。
川は夏よりも水が少なくなっていた。秋になって、川の水量が減るらしい。それでも水は流れていた。岩の周りで白い泡が立っていた。
ハヤは靴を脱いで川に足を入れた。
「冷たい!」
「言っただろう」
トルムが笑った。
「冷たいけど、気持ちいい!」
「夏より冷たいか」
「全然、冷たい」
トルムは靴は脱がなかった。岩の上に座って、足だけ垂らしていた。
マイアも足を浸けるつもりだったが川の水を指で触ってからやめた。
「私は今日は見てるだけにする」
「正解」
ハヤが川の中で言った。
エリンは本を開いていた。
セラとロインは川の縁に座って、水面を見ていた。
「ロイン」
セラが呼んだ。
「ん?」
「あの石、まだ持ってる?」
「そう」
ロインはポケットから石を出した。
セラが拾った、青みがかった灰色の石。
夏からロインがずっと持っていた石。
セラはロインの手のひらの上の石を見ていた。
「あれから何ヶ月?」
セラが聞いた。
「夏からだから……三ヶ月くらい?」
「三ヶ月、持ってたの?」
「そう」
「そう」
セラは石を指で触った。
「冷たい」
「今はポケットの中で温まってるけど、出すとすぐ冷える」
「面白いね」
「面白い」
セラはそれ以上は何も言わなかった。
ロインは石をポケットに戻した。
野苺が川の縁の岩の影にたくさんあった。
ハヤが見つけて、6人で食べた。
野苺は秋の野苺で夏よりも甘かった。
噛むと口の中で実が潰れて、種が舌に当たった。
「秋の野苺、夏より甘い」
ロインが言った。
「ほんとだ」
セラが同意した。
6人でしばらく野苺を食べていた。
誰も口を開かなかった。
口を野苺で塞いでいたからだ。
夕方の光が川の水面で揺れていた。
午後の光よりもっと低い角度の光だ。
ロインはその光を覚えておこうと思った。
──
夕方、6人で村に戻った。
広場でいつものようにそれぞれの方向に分かれた。
「またね!」
ハヤが先に走り出した。
「またな」
トルムが手を上げた。
マイアは小さく頭を下げて、歩いていった。
エリンも本を抱えて、歩いていった。
広場にはロインとセラだけが残った。
ロインの家とセラの家は同じ方角だ。
いつも最後まで二人で歩く。
歩き始めた時、セラがロインの手を取った。
夏の朝と同じ手の取り方だった。
セラの手は秋の冷たい空気の中でいつもより少しだけ冷たかった。
ロインの手もたぶん冷たかった。
冷たい手と冷たい手が繋がっていた。
温まる、というほどでもなかった。けれど、繋がっていた。
「セラ」
ロインが呼んだ。
「ん?」
「強くなって、どうするの?」
セラはしばらく答えなかった。
歩きながら、前を見ていた。
それからゆっくりと、答えた。
「わかんない」
「わかんない?」
「そう」
セラはまた「わかんない」
と答えた。
ロインはそのまま、歩いた。
セラの手はまだロインの手の中にあった。
しばらく歩いてからセラが続けた。
「でも強くないと何かを守れない気がする」
「何を守るの?」
「わかんない」
セラはそう答えた。
「まだわかんない。けど、何か、大事なものを守りたい気がする」
「大事なもの?」
「そう」
「それは何?」
「わかんない」
セラの「わかんない」
が、続いた。
ロインはそれ以上、聞かなかった。
聞いてもセラの答えはたぶん同じだったからだ。
「強くなれるかな、私」
セラが独り言のように言った。
「なれる、と思う」
ロインは答えた。
「なんでそう思うの?」
「セラだから」
「ロイン、それ、理由になってない」
「そう」
「でもありがとう」
セラはロインの手を少しだけ強く握った。
ロインも握り返した。
ロインの家の前に着いた。
セラはロインの手を離した。
「また、明日」
セラが言った。
「そう」
ロインは答えた。
セラは自分の家の方に歩いていった。
ロインはセラの背中が家の角を曲がって見えなくなるまで見ていた。
セラの背中は夏より少しだけ小さくなった気がした。
気のせいかもしれない、とロインは思った。
気のせいであってほしい、とも思った。
──
夜、ロインは布団の中にいた。
家の中はもう夏の熱は残っていなかった。秋の夜は冷える。母が寝る前に厚い毛布をロインの布団の上にかけてくれた。毛布の重さが布団の中の温度をゆっくりと作る。
ポケットの石は枕元に置いていた。
今は家の温度になっていた。
ロインは目を閉じて、今日のことを思い出した。
鐘の前で6人で約束したこと。
セラの「強くないと何かを守れない気がする」
という声。
セラの「わかんない」
が、夏より増えていたこと。
セラの息が白かったこと。
セラの背中が少しだけ小さくなった気がしたこと。
ロインはセラのことをたくさん思い出していた。
他のことよりもセラのことを多く思い出した。
なぜだろう、と思った。
今日、セラはいつもよりもふらついていた。
今日、セラはいつもよりも白く見えた。
今日、セラはいつもよりも「わかんない」
と言っていた。
ロインにはそれが何を意味するのか、まだわからなかった。
6歳のロインにはまだわからないことがたくさんあった。
ただ、覚えておこう、と思った。
セラの言葉を覚えておこう。
セラの背中を覚えておこう。
セラの息の白さを覚えておこう。
鐘の文字を覚えておこう。
たくさんのことを覚えておきたい、と思った。
今日のことが後で大事なものになる気がした。
なぜそう思うのかはわからなかった。
ロインはゆっくりと眠りに落ちた。
最後に思い出したのはセラの小指が自分の小指に絡んでいた、あの感覚だった。
あの感覚は忘れない、と思った。
覚えている、という確信が夜の布団の中でロインの胸の奥に確かにあった。
──
(第3話本文終わり)




