森の鐘
# 第2話「森の鐘」
## 前半(夏の村・森へ向かう)
夏が来た。
春から夏に変わる境目はロインにはよくわからなかった。気付いたら、朝の空気の温度が違っていた。気付いたら、家の中に蝿が増えていた。気付いたら、母が薄い服を着ていた。それらが少しずつ重なって、ある日、これは夏だ、と気付く。
その朝のロインは布団の中で目を覚ました時もう汗をかいていた。
天井に差す光は春の薄い光ではなくなっていた。鋭く、白く、家の中の影をはっきりと作る光だった。
ロインは寝間着の襟をつまんで首から風を入れた。風は入らなかった。空気が家の中で止まっていた。
下に降りると父はいなかった。
父は数日前から村の北の方に仕事で出ている。今日も戻らないらしい、と昨日母が言っていた。
台所では母がパンの準備をしていた。母は夏でも毎朝同じようにパンを焼く。火を使うから台所の中は家のどこより暑い。母の額に汗が浮いていた。
「おはよう、ロイン」
「おはよう、お母さん」
ロインは台所の入り口で母を見ていた。母は包丁を動かしていた。動きはいつもと同じだ。けれど指の動きが春よりも少しだけ重く見える気がした。気のせいかもしれない、と思った。
「今日もみんなと?」
母が聞いた。
「そう」
「どこに行くの?」
「まだ決めてない」
母は手を止めて、ロインを見た。母の琥珀色の瞳は台所の窓から差す光でいつもよりも濃く見えた。
「森は奥に行っちゃだめよ」
「行かない」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
ロインは母の目を見返した。母はそれ以上、何も聞かなかった。包丁の動きがまた始まった。
朝食を済ませて、家を出た。
家の戸を開けた瞬間、外の空気の熱が顔にぶつかった。春の朝とはまったく違う。土の匂いももう湿っていない。乾いた粉のような匂いが村の道から立ち上っていた。
広場に向かう途中、村の鶏が木陰で座り込んでいた。日陰でないともう外に出られないらしい。鶏も夏は嫌いなのだろう、と思った。
広場にはもうハヤとセラが来ていた。
ハヤは井戸の縁に座って、自分の足を見ていた。何かを観察しているらしい。
セラは大きな木の下でしゃがんで地面の何かを拾っていた。
「ロイン、おはよう!」
セラが最初に気付いた。
ロインも答えた。
「おはよう、セラ」
セラは立ち上がって、ロインの方に走ってきた。手のひらに小さな石を一つ載せていた。
「これ、見つけたの」
「石?」
「でも変な色」
ロインはセラの手のひらを覗いた。石は青みがかった灰色だった。小指の爪より少し大きいくらいの大きさだ。
「初めて、見る色」
ロインがそう言うとセラは笑った。
「ね? 私も。だから拾ったの」
セラは石をロインの手に乗せた。手のひらの上で石は冷たかった。朝の地面の温度をそのまま持っていた。
ハヤがやってきた。
「何、何?」
「石」
「石なの? ふつうの石?」
「ふつうじゃないかも」
ハヤは石を覗き込んだ。
「ほんとだ、変な色」
と言って、自分も指で石を触った。
「冷たい」
と少しだけ驚いた声を出した。
「何の話?」
広場の入口からエリンがやってきた。エリンは今日も本を持っていた。本はいつもと違うものに見えた。前の本より小さい。
「セラが変な色の石を見つけたんだ」
ハヤが答えた。
エリンは近づいて、ロインの手の上の石を見た。一瞬、目の動きが止まった気がした。けれどすぐに「ふん。よくある石だ」
と言って、目を戻した。
「ふつうの石?」
セラが聞いた。
「色が違うだけでふつうの石だ」
「色が違ったら、ふつうじゃない」
「色が違うのもふつうのうちだ」
エリンとセラのやり取りがいつもの調子だった。ロインは石をもう一度自分の手のひらで見た。エリンが本当に「よくある石」
と思っているのか、それともそうではないのか、ロインにはわからない。エリンの目の動きが一瞬止まったことをロインは覚えていた。それを口には出さなかった。
トルムが来た。今日も走ってきた。
「お待たせ!」
トルムの額にはもう汗が浮いていた。今朝も森の手伝いをしてきたらしい。
「セラが石、見つけた」
ハヤが報告した。
「石?」
トルムは石を見た。トルムは森に毎日入っているから石にも詳しい。一瞬、石を指で触って、それから言った。
「うちの方の森でもたまに見るな。これは川の上流の石だ」
「川の?」
セラが聞いた。
「いや、見たことがある」
トルムは言い直した。トルムは人前で言葉を選ぶ癖がある。村の年寄りに行儀の悪い喋り方だ、と前に注意されたことがあるからだ。
マイアは最後に来た。
今日も白い服だった。けれどいつもの白とは少し違って見えた。マイアの母が夏用に薄い布で作ったらしい。
「おはよう」
マイアは静かに挨拶した。
ロインは「おはよう、マイア」
と答えた。マイアの呼吸がいつもより浅い気がした。夏の暑さで息がしにくいのかもしれない、と思った。
6人が揃った。
「今日、何する?」
セラが石を地面に置いてから聞いた。
「川!」
ハヤが両手を上げた。
「川はまた、後で」
セラはそう言った。
「今日は別のところに行きたい」
「別のところ?」
ハヤが首を傾けた。
「森」
セラが言った。
ロインはセラを見た。
セラはロインを見返した。セラの目は何かを言いたそうな目をしていた。けれど口には出さなかった。
「森って、また入口?」
ハヤが聞いた。
「ちがう」
セラは首を振った。
「もう少し奥」
マイアが小さく息を吸った。
「奥はお母さんが」
「少しだけ」
セラはマイアを見て、笑った。
「ちょっと先まで。すぐ戻る」
トルムが眉を寄せた。
「奥って、どのくらいだ?」
「歩いて、10分くらい」
「10分?」
トルムが繰り返した。
「子供の足で10分は結構な距離だぞ」
「行ってみたい」
セラの声は平らだった。けれど譲らない声だった。
ロインはその声を前にも聞いたことがあった。セラがこの声を出す時セラは最後まで譲らない。
「俺は行ってもいいぞ」
トルムがしばらく考えてから言った。
「俺は森には慣れてる。お前らも俺が一緒なら大丈夫だろう」
「行く」
ハヤが手を上げた。
「私も行く」
「私は……」
マイアは少し下を向いた。
「……みんなが行くなら、行く」
エリンは肩をすくめた。
「論理的じゃないが止めても無駄だろうな」
セラは笑った。
「ロインは?」
セラがロインを見た。
ロインはもう答えは決まっていた。
「行く」
セラは満足そうな顔をした。
「じゃあ、決まり」
と言って、立ち上がった。
ロインはもう一度地面の石を見た。
セラが拾った、青みがかった灰色の石。
ロインはその石を拾って、自分のズボンのポケットに入れた。
誰にも何も言わずに。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
ただ石を持っていたい、と思った。
朝の地面の温度を持ったままの、冷たい石を。
──
## 中盤(森の奥・鐘の発見)
6人は村の南側から森に入った。
南側の入口は前に6人で行った場所だ。門のような二本の木が並んで立っている場所。
門をくぐる時ロインは二本の木にもう一度手を当てた。木は前と同じようにひんやりしていた。けれど夏の熱を吸い込んだのか、前ほどには冷たくなかった。
「入口の木、知ってる?」
ロインはセラに聞いた。
「知ってる」
セラは答えながら、もう先に歩き出していた。
「冷たさ、前と違う」
「そう?」
セラは振り返って、ロインを見た。それから自分も二本の木に手を当てた。
「ほんとだ。ぬるい」
と少し笑った。
トルムが先頭を歩いた。トルムは森に慣れている。村のはずれに住んでいる子供はたいてい森に慣れている。
セラはトルムのすぐ後ろを歩いた。ロインはセラの後ろ。ハヤはその後ろで何かを歌っていた。歌詞は意味のないものだった。ハヤはよく、こうやって意味のない歌を歌う。
マイアとエリンは一番後ろを並んで歩いた。マイアは時々、上の枝を見上げていた。エリンは本を腕に挟んで、けれど足元をよく見ていた。
森の中は外より涼しかった。
夏の森は上の枝が空を覆っていて、地面に直接日が当たらない。光は枝の隙間から点のように落ちてくる。その光の点が地面でゆっくり動いていた。
「歩きやすい道、あるのか?」
エリンが聞いた。
「そうだ」
トルムが答えた。
「いや、道はないけど、歩きやすい場所はある。ついてこい」
トルムは木と木の間の、地面が平らになっている場所を選んで歩いた。確かに歩きやすい。落ち葉の積もり方が少ない場所を選んでいるらしい。
ロインはトルムの足の動きを後ろから見ていた。トルムは足の置き場所をほとんど見ずに選んでいる。長年の癖だろう、と思った。
しばらく歩いた。
広場の鐘の音が聞こえなくなった頃にはもう森の中だった。
村の方角もわからなくなった。けれどトルムは迷わなかった。先頭を淡々と歩き続けた。
「トルム、迷ってない?」
ハヤが後ろから聞いた。
「迷ってない」
「ほんとに?」
「ほんとに。木の傾き方で方角がわかる」
「木の傾き方?」
「風がいつも同じ方角から来るから木が少しずつそっちに傾く」
「そう」
ハヤは納得したのか、しなかったのか、それ以上は聞かなかった。
──
しばらく進んだところでトルムが急に足を止めた。
「待て」
低い声だった。
普段のトルムの声と違った。
6人が止まった。
ロインはトルムの背中を見た。
トルムは何かを聞こうとしていた。
頭を少し傾けていた。
「何?」
ハヤが声を潜めた。
「動くな」
トルムが答えた。
ロインも耳を澄ました。
森の中の音がいつもと違って聞こえた。
鳥の声が止まっていた。
風の音だけが上の枝でゆっくり流れていた。
それから低い音が聞こえた。
唸り声だった。
「犬」
トルムが小さく言った。
「野犬の、群れ」
ロインは息を止めた。
村でもたまに野犬の話を聞く。村の家畜が襲われることがある。村の大人が対処する。
ロインはこれまで野犬を見たことがなかった。
「下を見ろ」
トルムが6人に指示した。
「目を合わせるな。動くな」
セラが急にロインの手を握った。
セラの手の力はいつもよりずっと強かった。
ロインはセラの方を見そうになって、見なかった。
トルムが「動くな」
と言ったからだ。
木の影から3匹の犬が現れた。
野犬は痩せていた。
毛がまだらに抜けていた。
目だけが鋭く光っていた。
3匹は6人の少し離れた場所で止まった。
6人を見た。
真ん中の一匹がもう一度低く、唸った。
他の2匹は左右に少しずつ動いた。
「囲もうとしてる」
エリンが後ろから小さく言った。
「わかってる」
トルムが答えた。
トルムはゆっくり腰の鉈を抜いた。
鉈はトルムが薪を割る時にいつも使っているものだった。
今は薪を割るためではない。
「ロイン」
トルムが振り向かずにロインを呼んだ。
「ん?」
ロインも振り向かずに答えた。
「セラをハヤをマイアをエリンを後ろに下げろ」
「そう」
ロインはセラの手を握ったまま、ゆっくり後ろに下がった。
セラもハヤもマイアもエリンもロインに続いた。
トルムだけが前に残った。
鉈を握ったまま。
野犬の真ん中の一匹がもう一度唸った。
今度の唸りはさっきより低かった。
攻撃の前の唸りだった。
ロインはそう思った。
理由はわからなかった。
ただそう思った。
トルムが鉈を軽く振った。
鉈の刃が森の隙間の光に当たって、わずかに光った。
野犬の真ん中の一匹がその光を見た。
それから後ろの2匹を見た。
何か決断したような目だった。
野犬が踵を返した。
3匹で森の別の方角に走り去った。
しばらく、6人は動かなかった。
野犬の足音が完全に聞こえなくなるまで。
「行ったぞ」
トルムがようやく振り向いた。
鉈を腰に戻した。
ロインは息を吐いた。
止めていた息だった。
セラの手はまだロインの手を握っていた。
セラの手の力はまだ強かった。
「セラ、手」
ロインが言った。
「あ」
セラはロインの手を離した。
セラの手のひらにロインの手の形が白く残っていた。それくらい強く握っていた。
「ごめん」
セラが言った。
「ちがう」
ロインは答えた。
「いいよ」
「みんな、大丈夫?」
トルムが5人に聞いた。
「大丈夫」
ハヤが答えた。
「大丈夫」
マイアも答えた。けれどマイアの声は震えていた。
「大丈夫だ」
エリンが答えた。
「俺も大丈夫」
ロインも答えた。
セラだけが答えなかった。
セラの顔はいつもよりずっと白かった。
「セラ?」
ロインがもう一度聞いた。
「大丈夫」
セラはようやく答えた。
声がいつもより細かった。
「鉈、いつも持ってるの?」
ハヤがトルムに聞いた。
「いつも持ってる」
トルムが答えた。
「父ちゃんに森に入る時は絶対に持っていけ、と、言われてる」
「すごい」
ハヤが目を細めた。
「私、持ってない」
「ハヤは森に入らない方がいい」
「そう」
トルムはもう一度6人を見た。
「進むか、戻るか」
トルムが聞いた。
「進む」
セラが答えた。
ようやくいつもの声に戻っていた。
「ここまで来た。鐘の場所、行く」
トルムはしばらくセラを見ていた。
それから目を伏せた。
「いいぞ」
6人はまた進み始めた。
誰も口を開かなかった。
ハヤの歌も止まっていた。
ロインはポケットに手を入れた。
朝、セラが拾った石が入っていた。
石を握った。
石はまだ朝の温度を持っていた。
冷たかった。
けれどその冷たさがロインの胸の中の、何か、震えていたものを少し落ち着けた。
ロインは自分がナイフを持っていないことに気付いた。
6歳のロインにはナイフはまだなかった。
父がナイフを作ってくれるのはもう少し先のことだった。
ロインはナイフが欲しい、と、初めて思った。
──
10分ほど歩いた。
本当にちょうど10分くらいだった。ロインはそう感じた。家から広場まで歩く時間とだいたい同じだ。
トルムが足を止めた。
「ここ、何かあるな」
トルムが地面を見ていた。
6人でトルムが見ている場所を覗いた。
地面に石が並んでいた。
自然に転がっている石ではない。並べられている。きれいな円のような形に。
円の真ん中の地面は少しだけ、低くなっていた。
「これ、何?」
セラがしゃがんで石を触った。
「石をわざと並べた、ように見える」
エリンが言った。
「だがなんのために?」
「祠じゃない?」
マイアが小さく言った。
「祠?」
ハヤが聞いた。
「神様にお供えするところ。母さんの家の近くに似たのがあるって、前に聞いた」
「ふん。古いな」
エリンが石の一つを手に取った。すぐ戻して、手の汚れを払った。
トルムは円の周りをぐるりと歩いた。
「向こう」
トルムが円の奥の方角を顎で示した。
「向こうに何かある」
6人でトルムが示した方角に進んだ。
木が急に少なくなった。地面が少し開けていた。
開けた場所の真ん中にそれがあった。
鐘だった。
鐘はロインの背丈より少しだけ大きかった。鉄でできているらしい。表面は苔に覆われていた。覆われきれずにところどころから鉄の鈍い色が見えていた。
鐘の上には屋根のようなものはなかった。ただ二本の木の枝が鐘の上で交差して、自然な屋根のように雨と光から鐘を守っていた。
6人はしばらく、何も言わなかった。
ハヤが最初に近づいた。
「鐘?」
「鐘だ」
エリンが答えた。
「なんでこんなところに?」
「わからない」
セラが鐘の方に歩いた。
ロインはセラの後ろを少しだけ離れてついていった。
鐘の真下にセラは立った。
鐘の中を見上げた。
「真ん中に棒があるね」
セラがそう言った。
ロインもセラの隣で鐘の中を見上げた。確かに鐘の中央から長い金属の棒が垂れ下がっていた。先が少しだけ膨らんでいる。
「あれが振り子だ」
エリンが後ろから言った。
「鐘を鳴らす部分」
「鳴らすの?」
セラが聞いた。
「鳴らせる。棒を揺らせばいい」
セラは振り子に手を伸ばそうとした。
「やめろ」
トルムが強い声を出した。
セラは手を空中で止めた。
振り返って、トルムを見た。
「鳴らさない方がいい気がする」
トルムは少し戸惑った顔をしていた。
「なんでと聞かれても答えられない。けど、鳴らさない方がいい気がする」
エリンがトルムを見た。
「論理的じゃないな」
「いや、論理はない。けど、なんとなくだ」
トルムは自分の手のひらを見た。手のひらが少し震えていた。
ロインはトルムの震える手を見ていた。
トルムが震えているのを初めて見た。
トルムはいつも落ち着いている。森で迷うこともない、虫を怖がることもない、暗くなっても怖がらない、そういう子だ。
そのトルムが震えていた。
セラは振り子に伸ばした手をゆっくり戻した。
「わかった」
セラはトルムを見て、それから振り子を見て、それから手を完全に下ろした。
「鳴らさない」
ロインはふっと息を吐いた。
自分でも息を止めていたとは気付かなかった。
マイアは両手を胸の前で組んでいた。
「神様の物、かもしれない」
マイアは小さく言った。
「触らないほうがいいと思う」
「うちの村の人が置いたものじゃないのかな」
ハヤが言った。
「村の人がこれをこんなに森の奥に置く理由がない」
エリンが答えた。
「じゃあ、誰が?」
「わからない。それはわからない」
ロインは鐘に近づいた。
鐘の側面に模様のようなものが刻まれていた。
苔を指で軽くこすってみた。
苔の下から文字のようなものが現れた。
「ロイン、何してる?」
セラが聞いた。
「文字、ある」
ロインは答えた。
「文字?」
セラもロインの隣に来て、苔を指でこすった。
他の4人も近づいてきた。
鐘の側面、6人分の指で苔を払った。
文字は6文字並んでいた。
6人でその文字を見た。
誰もその文字を読めなかった。
「これ、知ってる文字?」
ハヤが聞いた。
「いや」
エリンが少し時間をかけて、答えた。
「俺の本にもこういう文字はなかった」
「うちの父ちゃん、字、読めないから聞いても無駄だぞ」
トルムが言った。
「うちの母さんは聖典の文字は読めるけど、これは違うかも」
マイアが言った。
ロインは文字をじっと見ていた。
6つの文字。
読めない。
けれど見たことがあるような気がした。
母の手帳。
ロインは思い出した。
家の居間の奥の棚に母の古い手帳がある。あの手帳の中にこういう文字が並んでいた気がする。
ロインはその手帳をちゃんと見たことはない。母が読んでいるところを横で見ただけだ。
「お母さん、なら、読めるかも」
ロインは口の中だけでそう言った。
セラがロインを見た。
「何か、言った?」
「ちがう」
ロインは首を振った。
「何でもない」
セラはそれ以上、聞かなかった。
セラはもう一度鐘を見上げていた。
──
## 中盤(続き・帰り道)
「もう戻ろう」
トルムが言った。
「そう」
6人でその場所を離れた。
帰り道は行きよりも少しだけ早かった。
誰も口を開かなかった。
ハヤさえ、歌わなかった。
森を半分くらい戻ったところでハヤが先に口を開いた。
「あの鐘の話、村の人にする?」
「しないほうがいい気がする」
トルムが答えた。
「なんで?」
「わからない。けど、しないほうがいい」
「論理的じゃないぞ」
エリンが言った。
「論理はない」
トルムが繰り返した。
セラは何も言わなかった。
ロインも何も言わなかった。
マイアがしばらくしてから小さく言った。
「私はお母さんに話そうと思う」
「マイアは、それでいい」
トルムが答えた。
「人に話す、話さないは自分で決めればいい」
「みんなには迷惑かけない?」
「うちの父ちゃんに伝わったとしても別に何もない」
「そう」
マイアは少しだけ安心した顔をした。
エリンが言った。
「俺は本で調べる。あの文字を知っている本があるかもしれない」
「あるの?」
ハヤが聞いた。
「わからない。けど、調べる価値はある」
ロインはポケットの中の石を手のひらで握った。
朝、セラが拾った石。
ロインがポケットに入れていた石。
石は朝の冷たさをもう持っていなかった。ロインの体温で温まっていた。
森の入口まで戻った。
二本の門の木をもう一度くぐった。
今度は木に触れなかった。誰も触れなかった。
「あ、おじいさん」
ハヤが声を上げた。
村のはずれの、老人の小屋の前に老人が座っていた。前と同じ、切り株の上に。
6人を見て、老人は半分閉じていた目を開いた。
「お前さんたち、また森か」
「そう」
セラが答えた。
「奥には行ってないよな」
「……」
セラは答えなかった。
6人で互いの顔を見た。
老人は6人の顔をゆっくり、順に見た。
それから長く、息を吐いた。
「鐘、見たな」
6人は誰も答えなかった。
答えなくても答えになっていた。
「鳴らしたか」
「鳴らさない」
セラが首を振った。
「ほんとうか」
「ほんとう」
老人はもう一度長く息を吐いた。
それから目を完全に閉じた。
閉じたまま、言った。
「鳴らすなよ。一生、鳴らすな」
「どうして?」
ハヤが聞いた。
「いけないことはいけないんだ。理由はない」
それは前と同じ答えだった。
6人はそれ以上、何も聞かなかった。
何を聞いても同じ答えが返ってくるのだろう、と6人ともわかっていた。
老人の前を通って、村の中に戻った。
──
## 後半(夜・布団の中)
その日の夜、ロインは布団の中で目を開けていた。
家の中は夏の夜の匂いがしていた。昼間の熱がまだ家の壁に残っていて、夜になっても完全には冷めない。母が寝る前に窓を一つだけ開けてくれた。風がほんの少しだけ、家の中に入る。
父はまだ戻ってきていなかった。
今夜も戻らないのだろう。
ロインはポケットから出した石を寝床の枕元に置いていた。
石はもうすっかり、家の温度になっていた。
森の鐘のことを母には話さなかった。
話そうとは思った。何度も思った。けれど夕食の時ロインは口を開けなかった。母の顔をよく見た。母はいつもより少しだけ疲れた顔をしていた。父がいないと母はいつもより少しだけ疲れた顔をする。
だから話さなかった。
今、話す話題ではない、と何となく思った。
鐘の側面に並んでいた、6つの文字。
ロインは目を閉じて、その文字を思い出そうとした。
覚えているはずだった。
じっと見たから。
けれど文字の形をすぐには思い出せなかった。
丸い形が二つあった。それは覚えている。
線が三本走っている字が一つあった。それも覚えている。
けれど残りの三文字がどんな形だったか、すぐには出てこなかった。
おかしい、と思った。
ほんの数時間前まで見ていたのに。
ロインはいつも見たものをよく覚えている。母から「見たものを覚えていなさい」
と教わってきたからだ。
それなのに覚えていない。
ロインはもう一度目を閉じた。
文字を思い出そうとした。
頭の中に鐘の側面がぼんやり浮かんだ。
苔の感触。指の動き。
文字が見えそうで見えない。
霧の中を覗いているような感じだった。
夏の夜の静かさの中でロインは長い時間、目を閉じていた。
家の中の床がたまに軋む音を立てた。家自体が夜の温度の変化で少し動いているらしい。
遠くで犬が一声、鳴いた。
ロインは枕元の石を手のひらで握った。
石は温かかった。
朝の冷たさはもうどこにもなかった。
──
母の手帳のことを思い出した。
家の居間の奥の棚。
ロインは起き上がろうとして、起き上がらなかった。
今、母の手帳を見に行く時ではない、と思った。
母が寝ている。
母を起こしたくない。
明日、もう一度考えよう、と思った。
明日、母に聞こうか、聞かないか、もう一度考えよう。
ロインは目を閉じた。
最後にトルムの震えていた手を思い出した。
セラが「鳴らさない」
と言った時の、声を思い出した。
老人の「鳴らすなよ。一生、鳴らすな」
という、声を思い出した。
たくさんのことが一日の中であった。
6歳のロインにはそれぞれが別々のことのように感じられた。
それぞれが別の場所で別の理由で起きている。
それらがいつか、一つの形になることをロインはまだ知らなかった。
ロインは眠りに落ちた。
眠る前、最後に覚えていたのは鐘の中の、振り子の形だった。
長い金属の棒。
先が少しだけ、膨らんでいた。
あの形をロインは忘れない、と思った。
文字は思い出せない。
けれど振り子の形は覚えている。
それはなぜか確信があった。
──
(第2話本文終わり)




