村と六歳の春
# 第1話「村と六歳の春」
## プロローグ(13歳の春・学園の中庭)
──彼女は振り向かなかった。
13歳の春。
学園の白い廊下を抜けた先の中庭でロインはひとりの少女を見ていた。
銀色の髪。
灰青色の瞳。
背筋の伸びた、揺らがない立ち姿。
あの色をロインは知らない。
あの背中も知らない。
あの立ち方も知らない。
けれど、彼女の指が髪を耳にかける動きをロインは知っていた。
7年前、その指はロインの手を引いて、走った。
夏の朝の広場で。
秋の森の入口で。
冬の雪解けの道で。
何度も何度もその指はロインの手を引いた。
ロインは息を吸った。
それから呼んだ。
「セラ」
少女が振り向いた。
視線が合った。
セラの灰青色の瞳がロインを見ていた。
何かを思い出しそうな顔をした。
それからゆっくり、目を逸らした。
「……ごめんなさい。あなた、誰だったかしら」
ロインは息を止めた。
止めた息を戻すまでに長い時間がかかった。
セラはもう、ロインを見ていなかった。
中庭の向こうの月を見上げていた。
昼の月だった。薄く、白く、空に浮かんでいた。
ロインはその背中を長く、見ていた。
7年前、自分の手を引いて走ったあの少女はもう、ここにはいない。
代わりにここに立っている少女はロインのことを覚えていない。
覚えていないことをロインはまだ、受け入れられなかった。
──彼女に何があったのか。
ロインの中の問いはその日から止まらなくなった。
そして、その問いは彼がいつか、自分の道を見つけるまで消えなかった。
──
物語は7年前から始まる。
ロインがまだ、自分の名前を世界に対して、何にも証明していない時から。
セラの瞳がまだ、琥珀色だった頃から。
──
## 前半(朝・家族)
ロインが目を覚ますと家の天井に朝の薄い光が差していた。
鶏の鳴く声が遠くで聞こえる。
身体を起こすと薪の煙の匂いが鼻に届いた。父がもう起きているのだろう。
ロインは寝間着のまま、はしごを降りた。
家の中の梯子はロインの手の長さに合っていた。父が去年作ってくれた。前の梯子は段が広すぎて、ロインの足では届かなかった。今は足の裏が段の木の冷たさをちゃんと感じる。
居間の暖炉の前で父が薪を割っていた。
赤い炎が父の横顔を照らしている。
「おはよう、ロイン」
父は振り向きもせず、声だけで挨拶を返した。父はいつもそうだ。横顔だけ見せて声だけで話す。最初はそれが冷たいのかと思っていた。けれど違う。父の手はいつも何かを作っている。手が止まらないから顔が動かない。それだけの話だ。
「おはよう、お父さん」
ロインは暖炉の近くに座った。火の温度が寝起きの顔をゆっくりと温めていく。
奥の台所から母が歌う声が聞こえた。
歌詞は知らない言葉だった。母はときどき、こうやって聞いたことのない歌を歌う。きれいだけれど意味はわからない。母も教えてくれない。
「これはお母さんだけの歌よ」
と言って笑うだけだ。
ロインは暖炉の前から立ち上がり、台所に向かった。
母は黒パンを焼いていた。
焼ける匂いが家の中に広がっている。母の手は黒パンを切る包丁を迷いなく動かしていた。
「おはよう、ロイン。よく眠れた?」
母はこちらに振り向いて、笑った。
「眠れたよ」
ロインは母の隣に立って、焼けるパンを覗き込んだ。
パンの表面はまだ少し湿っていた。母はもう一度パンをひっくり返した。指の動きがなめらかだった。
「今日は何して遊ぶの?」
母はパンの上に薄く塩を振りながら、聞いた。
「いつもみんなと広場で」
ロインは母の手元を見ながら、答えた。
「そう。じゃあお弁当を作ってあげる」
母は台所の棚から麻の袋を取り出した。
「ありがとう」
ロインは母を見上げた。母の蜜色の髪が朝の光に少しだけ透けていた。母の瞳はいつもより明るい琥珀色に見える。台所の窓から差し込む光の角度のせいだろう。
朝食は黒パンと薄い豆のスープと母が作った薬草の茶だった。
家族3人がテーブルを囲んで座る。
「今日は何して遊ぶんだ?」
父がパンを切りながら、聞いた。さっき母にも答えたばかりだがロインはもう一度答えた。
「いつもみんなと広場で」
「そうか」
父はまた黙ってパンを切った。
母が横で笑った。
「あなた、もう少しロインと話したら?」
父は少し困った顔をした。
「……何を話せばいい?」
母は自分のパンに蜂蜜を垂らしている。
「何でもいいでしょう。子どもなんだから」
父はナイフを止めて、しばらく天井を見た。
「子どもなら、なおさら何を話せばいいかわからない」
父は本当に困っていた。困りながら、パンに薄くバターを塗っていた。
ロインは両親のやり取りを見ていた。父はいつもこうだ。話さない。けれど目で見ている。手で何かを作っている。父の手は今もロインのために小さくバターを塗ったパンを皿に置いた。
「ロイン、お前は何が好きだ?」
父がようやく話題を絞り出した。父の手はまだ、バターを塗る動きを止めていない。
「……食べ物?」
ロインは考えながら、答えた。
父は目を伏せた。
「黒パン」
父は自分のパンにもう一度バターを塗った。
「他には」
「お母さんの薬草茶」
母が横で少し笑った。
「他には」
「川で採れる白い貝」
父はしばらく、何かを考える顔をした。考えながら、自分のパンにロインよりも厚くバターを塗った。
「……ふむ」
「ロイン」
父が思い出したように言った。
「ガレンが今度、村に来るそうだ」
ロインは茶を一口、口に含んだ。
「ガレン?」
「父さんの古い友達だ。お前が生まれる前から知っている男だ」
父の声はいつもと同じ低さだった。けれどその名前を口にした時、目の動きがほんの少し止まった気がした。
「そうか」
ロインはそれ以上聞かなかった。父がそれ以上話さなさそうだったからだ。
母が横で何か言いたそうな顔をしたが結局何も言わなかった。
母の手がティーポットに伸びる。
注がれた薬草茶の湯気がテーブルの真ん中でゆっくりと立ち上がった。湯気の中に母の手と父の手がぼんやりと見えた。父の手は大きく、母の手は細く、けれど両方ともロインの手とはまるで違う形をしていた。
ロインは自分の手をテーブルの下で広げてみた。指は短く、爪は丸い。
大人の手とはまるで違う。
いつか自分の手もこんな風になるのだろうか。
父の手のように何かを作る手に。
母の手のように何かを切る手に。
「ロイン、冷めるよ」
母の声でロインは顔を上げた。
湯気はもう薄くなっていた。
朝食を終えるとロインは自分の使った皿を台所の桶に運んだ。これは毎朝の決まりだった。母はロインが3歳の頃から皿を運ばせていた。
「自分の使ったものは自分で動かす」
と母は言う。理由は聞いたことがない。聞いてもいい気がしなかった。
桶に皿を浸けると水の冷たさが指の関節に染み込んできた。
井戸の水だ。父が毎朝早くに井戸から汲んで桶に張る。
水は冷たかった。寒さで指がしびれるというほどではない。けれど目が覚めると感じる程度には冷たい。
ロインは皿を浸けてから台所を出た。
出る前にもう一度母を見た。
母はもう次の準備をしていた。今日のお弁当だろう。袋に何かを詰めている。
「ロイン、出かける時に取りに来てね」
母は振り向かずに言った。父と同じだと思った。けれど母の声には父の声にない何かが含まれていた。それが何かはロインにはわからなかった。
家の外で父の声がした。
誰かと話している。
ロインは玄関に向かった。
戸を開けると朝の風がロインの顔を撫でた。
春の風だった。
冬の鋭さは消えていて、けれど夏の重さもない。乾いていて軽く、けれどわずかに湿り気を含んだ風だった。
戸の外には父と近所のおじさんがいた。
おじさんは村で木材切りをしている。家を建てる時の木を森から切り出す仕事だ。トルムの父も同じ仕事をしている。
「やあ、ロイン、おはよう」
おじさんがロインに気付いて、笑った。歯が欠けている部分がある。けれど笑った顔は優しい。
「おはよう、おじさん」
ロインはおじさんに軽く頭を下げた。
「お父さんは今度、また旅に出るんだって?」
ロインはその言葉をすぐには理解できなかった。
「……旅?」
ロインは聞き返した。
おじさんはしまったという顔をして、父を見た。
父はゆっくり振り向いて、ロインを見た。
「もう少し先の話だ。夏の頃にな」
「そうなんだ」
ロインは父の顔をよく見た。
父の表情はいつもとほとんど変わらない。けれど目の奥にほんの少しだけ何か違うものがあった。
何かはわからない。
ただいつもの父ではない、と、感じた。
「……行ってきます」
ロインは二人に向かって言った。
「行ってこい」
父が答えた。
ロインは戸を閉めずに家を出た。
家の外の道は土だった。村の道はほとんどが土だ。雨が降った日はぐちゃぐちゃになる。春のこの時期は湿り気はあるけれど、足が沈むほどではない。
ロインは家を出てすぐ、いつもの広場に向かった。
広場は村の真ん中にある。井戸が一つと古い大きな木が一本、それから子どもたちが座って遊べる石がいくつか転がっている。
広場の周りには家が並んでいる。
全部でフェルニ村には40軒ほどの家がある。人口は200人ほどだと母が言っていた。
人口という言葉の意味はロインにはまだよくわからない。けれど村の人を全部数えられるという意味だということはわかる。
200という数字もまだピンと来ない。指で数えられないからだ。
広場に着くともうセラが来ていた。
セラは井戸の縁に座って、足をぶらぶらさせていた。
ロインに気付くとぱっと立ち上がって両手を上げた。
「ロイン、おはよう!」
セラの声はいつもロインの耳の中でぴんと跳ねる。
他の誰の声でもなく、セラの声だとすぐにわかる。
今朝もそれは同じだった。
「おはよう、セラ」
ロインは答えた。
セラは走ってきて、ロインの目の前でぴたりと止まった。
止まり方がいつも上手だ。ロインにぶつかりそうでぶつからない。
「今日、何する? 何して遊ぶ?」
セラは首を傾けて聞いた。
「みんなが来てから決める」
ロインは答えた。
「そうだね。じゃあ待とう」
セラはロインの隣に並んで井戸の縁に座り直した。
セラの足はロインよりほんの少しだけ長い。
同じ年なのになぜか、セラはロインより背が高い。
セラの足がぶらぶら揺れていた。
ロインも隣で自分の足を揺らした。
セラの琥珀色の瞳が朝の光で薄く透けて見えた。
セラの瞳はいつもロインに母の瞳を思い出させる。
似ているというのとは少し違う。けれど同じ色だ。蜜のような薄い金色の瞳。
ロインはなぜ二人の瞳が似ているのか、考えたことはあった。
けれど答えはわからなかった。
「セラ」
ロインは隣で足を揺らしながら、声をかけた。
「ん?」
セラは空を見上げたまま、目だけをこちらに向けた。
「お前の目、お母さんと同じ色だな」
セラの足がぶらぶらと揺れる動きをふと止めた。
「え?」
セラはこちらに身体ごと振り向いた。
「私の目? お母さんって、ロインのお母さん?」
ロインは井戸の縁の石を指でなぞった。石の表面は朝の空気でわずかに湿っていた。
「そうだ」
「……知らなかった。同じ色なの?」
セラは自分の頬の横に手を当てて、目のあたりを軽く触ろうとした。けれど触れずに手を下ろした。
「前から思ってた」
セラは空をもう一度、見上げた。雲の流れがゆっくりと変わっていた。
「そうか」
セラの足がまたぶらぶら揺れ始めた。
「お母さんの目、私、よく見たことないかも」
ロインはそれにすぐには返事をしなかった。返事をするほどの言葉が出てこなかった。
「……そうか」
セラはロインを見て、それから小さく笑った。
「今度、見てみる」
セラはそれ以上は何も言わなかった。
ただいつものように足をぶらぶらと揺らしていた。
ロインは井戸の縁に座ったまま、村の朝を見ていた。
広場の周りで村の人たちが朝の仕事を始めていた。
洗濯の桶を井戸の横に運ぶおばさん。
小さな子どもの手を引いて、外に出てくるお母さん。
鍛冶屋の方角から金属を打つ音が規則的に響いてくる。
村はいつもと同じ朝だった。
ロインは隣のセラをちらりと見た。
セラは空をまだ見ていた。空の雲はゆっくりと流れていた。
トルムが広場に走ってきた。
「おーい、お待たせ!」
トルムは走るのが6人の中で一番速い。背が低くて足が短いのになぜか速い。
「お前、走り疲れた顔してる」
セラが笑って言った。
「走ってないと間に合わないんだよ。父ちゃんが朝の仕事を手伝わせるんだ」
トルムはロインの隣に座って、息を整えた。
トルムの匂いはいつも森の匂いがする。
トルムの父もトルム自身も毎朝森に入る。木を切ったり薪を集めたりするためだ。
だからトルムはいつも森の湿った土と切られたばかりの木の匂いを身体に纏っている。
「他の三人、まだ?」
トルムが息を整えながら、聞いた。
「まだ」
ロインは答えた。井戸の上の村の家々の屋根を目で追っていた。
「いつもエリンが一番遅い」
セラが笑って言った。
トルムは目を細めた。トルムの背中には小枝が一本ついていた。森から走ってくる時に引っかけたのだろう。
「あいつ、本を読んでから来るからな」
「本?」
ロインは振り向いた。
「父ちゃんからもらった本らしい。文字がいっぱい書いてある」
トルムは自分の背中の小枝に気付いて、手で払い落とした。
「そうか」
ロインはエリンの本を見たことがあった。
表紙は革で出来ていた。中の紙は黄色く変色していた。文字は知らないものがいっぱい並んでいた。
「ロイン、お前、本、読んだことある?」
トルムが聞いた。
「お母さんの本なら見たことある」
ロインは思い出しながら、答えた。母の本はいつも居間の奥の棚にしまわれている。
「読めるのか?」
「読めない」
トルムは口の端を少し上げた。
「俺もだ」
トルムは笑った。
「俺、字、ちょっとしか読めないからな。父ちゃんは字が読めなくていいって言ってた。木さえ切れたら、生きていけるって」
ロインは目を細めた。
「そうか」
トルムの父は寡黙でしかし優しい人だ。トルムの母はトルムが3歳の時に病気で亡くなったと聞いたことがある。それ以来トルムは父と二人で暮らしている。
「あ、来た」
セラが声を上げた。
広場の向こうからマイアとハヤが並んで歩いてきた。
マイアはいつもの白い服を着ていた。村の女の子はたいてい、同じような服を着ている。母親が縫った無地の服だ。けれどマイアの服はいつも特別にきれいに洗ってあった。マイアの母は洗濯にすごくこだわる人だと聞いている。
ハヤはいつもの、男の子みたいな服装だった。麻のズボンとつぎあての当たったシャツ。ハヤは自分で「動きやすい服が好き」
と言う。
「お待たせ!」
ハヤが走ってきて、トルムの背中をぽんと叩いた。
「いてっ」
トルムは肩を縮めた。
「気合い入れ!」
ハヤはぴょこんと首を傾けて、笑った。
「お前はなんでいつも人の背中を叩くんだ」
トルムは自分の背中に手を回した。
「あいさつだから」
マイアがハヤの後ろからゆっくりとやってきた。
「おはよう、みんな」
マイアの声はいつも少し小さい。けれど聞こえなくて困ったことはない。マイアの声はなぜか、よく耳に届く。
「マイア、おはよう」
ロインは答えた。
「今日もいい天気だね」
マイアは空を見上げた。
5人になった。
広場の井戸の周りに5人が座った。
あとはエリンだけだった。
5人でエリンを待つ時間はいつもと同じだった。
セラが何か面白い話を始める。
トルムがそれに付き合う。
ハヤがときどき、茶々を入れる。
マイアが笑って聞いている。
ロインは聞きながら、空を見ている。
セラの声とトルムの声とハヤの声が広場でぐるぐる混ざっていた。
井戸の水を汲みに来たおばさんが5人を見て笑った。
「あんたたち、またいつもの組み合わせだね」
「いいね!」
セラが答えた。
「今日は何して遊ぶの?」
おばさんは桶を地面に置いて、5人を見渡した。
「まだ決めてない! みんな揃ってから決める!」
セラは両手を広げて答えた。
「そうかい。元気だね」
おばさんは井戸の水を桶に汲んで家に向かって戻っていった。
「あ、エリンだ」
ハヤが指差した。
広場の向こうからエリンがゆっくりと歩いてきた。
エリンは走らない。走るのは子どもっぽいからと言う。
6人の中でエリンが一番大人びた口を利く。
「遅い、遅い、エリン!」
ハヤが声を上げた。
「遅くない。約束の時間、まだ過ぎてない」
エリンは答えながら、6人の輪に加わった。
「ふん。理屈っぽい」
ハヤが唇を尖らせた。
エリンはそれに何も答えなかった。
6人が広場の井戸の前に揃った。
セラが立ち上がって、両手を上げた。
「さあ! 今日は何する!?」
セラはいつもこうやって、6人の遊びを始める。
誰も文句を言わない。
それが6人の自然な順番だった。
──
(前半終わり)
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## 中盤(6人の集まり・森)
「川!」
ハヤが両手を上げて答えた。
「川は昨日もやったぞ」
トルムが眉を寄せた。ハヤは唇を尖らせて、トルムの背中を見た。背中の小枝はもう落ちている。
「昨日はちょっと寒かったからちゃんと遊んでないもん」
「俺は遊んだ」
「ロインと一緒に水に入ったでしょ。あれは遊んでないの」
ハヤはロインを見た。ロインは何と答えていいかわからなかった。確かに昨日は水に少し入ったがすぐ上がった。母が「風邪を引いたら知らないわよ」
と前の日に言っていたからだ。
「森」
セラが言った。
6人の顔がセラに向く。
「森に行こう。入口だけでいいから」
セラはそう言いながら、ロインの方をちらりと見た。なぜロインを見たのか、ロインにはわからない。ただセラの目はいつもよりほんの少しだけ真面目だった。
「森って」
マイアが小さく言った。
「お母さんが奥には行くなって言ってた」
「奥には行かない。入口だけ」
セラは繰り返した。
「入口に何があるの?」
エリンが聞いた。
「何もない。だから行く」
「論理的じゃない」
エリンは肩をすくめた。けれど反対はしない。エリンは論理的じゃないことを口で指摘するがそれで止めることはしない。指摘した、という事実が残ればそれでいいらしい。
「俺はいいぞ」
トルムが言った。トルムは森に毎日入っている。森は仕事の場所だ。だから森に入ること自体は何でもないことだった。
「私も行く!」
ハヤが両手を後ろで組んで言った。
「マイアは?」
セラがマイアに聞いた。マイアは少し下を向いて、それから顔を上げた。
「みんなが行くなら、行く」
ロインは最後に答えた。
「行く」
セラは満足そうに口の端を上げた。
6人で広場を離れた。
広場から村の南側に向かって、石を並べた細い道がある。その道を進むと村のはずれに出る。村のはずれから少し歩くと森の入口がある。
歩きながら、ハヤがエリンの肩に手を回そうとした。エリンはひょいとよけた。ハヤは手を空中で振り回して、それから自分の頭の後ろで組んだ。
「あんた、最近、よけるの上手くなったね」
「お前が毎回同じやり方で来るからだ」
「もう少し、変えてみようか」
「やめろ」
トルムが先頭を歩いていた。トルムは道を知っている。森に近づくほど、トルムの足取りはしっかりしてくる。
ロインはトルムの背中を見ていた。トルムの肩は6人の中で一番広い。年齢は同じなのにトルムは身体つきがすでに少し違う。毎日働いているからだろう、と母が前に言っていた。
セラはロインの隣を歩いていた。
セラの足音はほとんどしない。ロインの足音はする。土の道だから誰の足音も少しはする。けれどセラの足音はどこかで吸い込まれているような気がした。
「セラ」
ロインは小さく呼んだ。
「ん?」
「森、なんで行きたいの?」
セラはしばらく答えなかった。歩きながら前を見ている。それからゆっくり答えた。
「わかんない」
「わかんない?」
「行きたい気がした、それだけ」
セラはそう言って、ロインを見た。セラの琥珀色の瞳は朝の光より少し濃くなっていた。日が上がってきたからだろう。
ロインはそれ以上聞かなかった。
わからない、と言う時のセラは本当にわからないのだ、と知っていたからだ。
村のはずれに着いた。
村のはずれには年寄りが一人座っている小さな小屋がある。村の門番のような役割の老人だ。本物の門があるわけではない。村に来る人がたまにいるから誰かが座って見ていることになっている。
老人はその朝も小屋の前の切り株に座っていた。
6人を見て、薄く目を開いた。
「お前さんたち、どこに行く」
「森」
セラが答えた。
「奥には行くなよ」
「入口だけ」
「ふん」
老人はそう言って、また目を半分閉じた。けれど、6人が動かないでいるともう一度目を開いた。
「森の奥に鐘があるんだ」
ロインは聞いたことがある話だった。けれど、誰から聞いたかは思い出せない。村のあちこちで誰かがいつかその話をしていた。
「鐘?」
ハヤが聞いた。
「古い鐘だ。錆びている」
「誰が置いたの?」
「知らん。誰が置いたか、誰も知らん」
老人はそう言って、口の中で何かを噛んでいるような動きをした。煙草だろうか、と思った。けれど煙の匂いはしない。
「鳴らしたら、どうなるの?」
セラが聞いた。
老人はセラを見た。長い間、見ていた。
それから言った。
「鳴らしてはいけない」
「どうして?」
「いけないことはいけないんだ。理由はない」
エリンが何か言いたそうな顔をした。けれど言わなかった。理屈っぽいエリンでも老人に向かって「論理的じゃない」
とは言わない。ロインはそれを横で見ていた。エリンの口の動きが一度開きかけて、閉じた。
「行ってこい。入口だけだぞ」
老人はそう言って、目を完全に閉じた。
6人は老人の前を通って、森の方角に進んだ。
森の入口には大きな木が二本並んで立っている。両側から枝を伸ばして、上のほうで枝同士が触れている。まるで門のようだった。
門の向こう側は急に光が少なくなる。木が密集していて、上の枝が空を覆っているからだ。
ハヤが先に門をくぐった。
「すごい、急に涼しい」
ハヤは両手を広げて、空気を感じていた。
ロインも続いて入った。確かに涼しい。広場では春の日差しが温かかったのに森に一歩入ると空気が違う。湿っている。木の匂いがする。土の匂いがする。何かが腐っているような匂いも少しだけする。
トルムが鼻を動かした。
「キノコの匂い」
「キノコ?」
マイアが聞いた。
「この辺、雨の後は出る。今日は出てないかな」
トルムは地面を見ながら少し歩いた。けれどキノコは見つからなかったらしい。
「今日はないな」
と言って戻ってきた。
セラは門の二本の木のうち、右側の木の幹に手を当てていた。
「冷たい」
ロインも近づいて、左側の木に手を当てた。確かに冷たい。広場の井戸の縁よりももっと冷たい。木の中に冷たいものが流れているような気がした。
「ねえ、ロイン」
セラが呼んだ。
「ん?」
「この木、何年くらい立ってると思う?」
「わからない」
「私もわからない」
セラは木の幹を上から下まで撫でた。
「でも長いね」
と言った。
「長い」
ロインも同意した。
エリンが二人の隣に来て、木を見上げた。
「木の年は切らないとわからない」
「切るの?」
セラが眉を上げた。
「切って、年輪を数える。一本ずつ、一年だ」
「そうか」
セラは木からそっと手を離した。
「切らないほうがいい」
と小さく言った。
ロインはセラの言い方が少しだけ気になった。
「切らないほうがいい」
というセラの声にはいつもの明るさがなかった。けれど暗いというわけでもなかった。どう言えばいいか、ロインにはまだ言葉が足りない。
「奥、行こうよ!」
ハヤが少し前の方から声を上げた。ハヤは森の中をすでに数歩、進んでいた。
「入口だけ、って約束した」
マイアが言った。
「ちょっとだけだから」
「ちょっとが長くなるよ」
マイアは控えめにけれどはっきり言った。
ハヤは戻ってきた。マイアの声にはめったに反対しないからだ。
6人の中でマイアの言うことはなぜか通る。声は小さいのに聞き逃せない。
「じゃあ、入口で何する?」
ハヤが頭の後ろで手を組んで聞いた。
セラは少し考えてから答えた。
「お話、しよう」
「お話?」
「みんなで大きくなったら何をするか」
セラはそう言って、門の手前にある倒れた木の上に座った。倒れた木は座るのにちょうどいい高さだ。
6人で倒れた木に並んで座った。順番はいつもと同じだった。左からトルム、エリン、ロイン、セラ、マイア、ハヤ。ハヤが端にいるのはハヤがじっとしていられなくて、いつも端で何かしているからだ。今もハヤは靴の先で地面の小石を蹴っていた。
「じゃあ、私から」
セラが言った。
「私は強くなりたい」
ハヤが小石を蹴る足を止めた。
「強くって、どれくらい?」
「一番、強く」
セラの声は平らだった。
「一番、強くなりたい」
ともう一度言った。
「なんで?」
ハヤが聞いた。
「わかんない」
セラはそう答えた。
「強くないと何かを守れない、気がするの」
ロインは横でセラの横顔を見ていた。セラの琥珀色の瞳は森の暗い光の中で別の色に見えた。蜜色ではなく、もっと深い、琥珀の中の赤に近い色。
ロインはその色を覚えておきたい、と思った。なぜそう思ったかはわからなかった。
「次、俺」
トルムが言った。
「俺はここに残る」
「ここって、村?」
ハヤが聞いた。
「村で父ちゃんの仕事を継ぐ。父ちゃんの父ちゃんもその前の人もずっと森の仕事をしてきた。俺もそうする」
「他のこと考えないの?」
「考えても結局これだ」
トルムは笑った。トルムの笑い方はいつも口の端から始まる。今日も口の端が先に上がって、それから目が細くなった。
「私!」
ハヤが手を上げた。
「私は村を出る」
マイアが小さく息を吸った気がした。
「どこに行くの?」
「決めてない! でもどっか遠く!」
ハヤは両手を頭の後ろに回して、空を見上げた。森の枝越しに空が小さく見える。
「うちの父ちゃんがずっと言ってる。『うちの娘はここに収まらない』って」
「ハヤの父ちゃんはハヤをよくわかってるな」
トルムが言った。
ハヤはトルムの肩を叩いた。
「だろ?」
「マイアは?」
セラが聞いた。
マイアは両手を膝の上で組んでいた。指の動きをしばらく見ていた。
「私は……神様のところに行きたい」
ハヤが首を傾けた。
「神様のとこ?」
「修道院、っていう、神様にお仕えするところ」
「マイアの家、教会の人がよく来るもんね」
ハヤが言った。マイアの家には月に何度か教会の人が訪ねてくる。マイアの母親が信仰深いからだ。
「私もなりたい。神様にお仕えする人に」
マイアははっきりとそう言った。声は小さい。けれど、迷いはなかった。
「エリン?」
セラがエリンを見た。
エリンは腕を組んで考えていた。考える時のエリンはいつも腕を組む。
「俺は学園に行く」
「学園?」
「魔法学園だ。王都にある」
「王都って、遠い?」
ハヤが聞いた。
「すごく遠い。馬車で二週間くらいかかる」
「そんなに?」
「だから行く価値がある」
エリンはそう答えた。
ロインは王都という言葉を知っていた。父が時々口にする。けれど、行ったことはない。父も最近は行っていないと思う。
「魔法学園で何するの?」
セラが聞いた。
「魔法をちゃんと学ぶ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ。村にいたら、ちゃんとは学べない」
「村にいる人はちゃんとできない、ってこと?」
ハヤが少し棘のある声で聞いた。
エリンはハヤを見た。
「そうじゃない。学べるものが村にはない、というだけだ」
「そうか」
ハヤは納得していない顔だった。けれど、それ以上は言わなかった。
「ロインは?」
セラがロインを見た。
5人の顔がロインに向く。
ロインは考えていた。考えていたけれど、答えはなかった。
「……まだ、わからない」
「わからない?」
セラが繰り返した。
「そう」
ロインはそう答えた。
「みんな、決まってるのに」
ハヤが言った。
「みんな、決まっているのがすごい」
ロインは正直にそう言った。
「ロイン、お前、何が得意?」
トルムが聞いた。
「得意?」
「何が好きとか、何ができるとか」
ロインはしばらく考えた。
「……見ること」
「見ること?」
「みんなを見ているのが好き」
セラが少し笑った。
「変なロイン」
「変?」
「ううん、変じゃない」
セラはすぐに言い直した。
「面白い、って意味」
ロインは何と返していいかわからなかった。だから何も言わなかった。
「見ているのが好きな人は何になるんだろうな」
トルムが独り言のように言った。
「観察する仕事、って、あるのかな」
エリンが少し興味を持った顔をした。
「学園では観測員っていう仕事があるらしい。何かを見て、記録する仕事」
「観測員?」
「ただ、見るだけじゃない。見たものをちゃんと書く」
「書く、か……」
ロインは母が手帳に何かを書いている姿を思い出した。母も何かを観察して、書く人なのかもしれない、と思った。けれど、それを口には出さなかった。母の手帳の話は家の中だけのことだ、と何となく思っていた。
「決まらなくていいんじゃない、ロインは」
セラが言った。
「ん?」
「ロインはロインのままでいいと思う」
「……そうか」
ロインはそう答えた。何のことか、よくはわからない。けれど、セラがそう言ってくれたことは覚えておこうと思った。
倒れた木の上で6人はしばらく黙っていた。
森の上の方で鳥が鳴いた。一羽だけだった。
風が枝を揺らした。木の葉同士が擦れる音が上から降ってきた。
「お腹空いた」
ハヤが言った。
「まだ昼じゃないぞ」
トルムが言った。
「でもお腹空いた」
「お前はいつもそうだ」
セラが立ち上がった。
「広場、戻ろう。お弁当、食べよう」
「賛成!」
ハヤが立ち上がった。
6人は森の入口から出た。
出る時、ロインはもう一度、門の二本の木を見た。木は何も言わなかった。当たり前だ。木は何も言わない。
けれど、ロインは木が何かを見ている気がした。誰をではない。6人をでもない。もっと別の、目に見えない何かを木が見ているような気がした。
ロインはその感じを誰にも話さなかった。話す言葉がまだ、なかった。
老人の小屋の前を通る時、老人はもう、目を完全に閉じていた。眠っているのか、起きているのか、わからない。6人は老人を起こさないように静かに通った。
村のはずれから広場に戻る道は行きより少しだけ短く感じた。帰り道はいつもそうだ。なぜ短く感じるのか、ロインは知らない。
──
広場に戻ると6人はそれぞれの家にお弁当を取りに散った。
ロインも自分の家に走った。家までは広場から坂を下りて、左に二軒分歩く距離だ。
戸を開けると母はもう次の作業をしていた。床に座って、何かの繊維を編んでいる。籠だろうか、と思った。母は時々、籠や紐を作っている。村の人が頼むからだ。
「お弁当」
ロインは台所のほうを見た。
「そこの棚の上」
母は手元の繊維から目を上げずに言った。
ロインは棚に近づいた。麻の袋が三つ並んでいる。一つには黒パン、一つには干した果物、もう一つには小さな水筒。母は三つともロインの分だと言った。
「みんなで分けてもいいよ」
「ありがとう」
ロインは三つの袋を自分の腰の革帯に結びつけた。革帯は父が去年作ってくれたものだ。袋を結ぶ用の小さな金具がついている。
戸を出る時、母がもう一度声をかけた。
「あんまり遠くに行かないでね」
「そう」
ロインは振り向いて答えた。母はもう、こちらを見ていた。手元の繊維は止まっていた。
「気をつけて」
母の声はいつもの母の声だった。けれど、その朝の母の声はいつもより少しだけゆっくりだった。ロインはそれに気づいたがそれを言葉にする方法を知らなかった。
「行ってきます」
ロインは戸を閉めた。
広場に戻るともう4人が集まっていた。ハヤは早かったらしい。ハヤはいつも早い。準備があまり要らない人だからだ。トルムも来ていた。トルムの腰には大きな麻袋が下がっている。森の仕事で使う袋だ。今日は弁当が入っているのだろう。
エリンは最後だった。エリンは何かの本を片手に抱えてきた。
「本、持ってきたのか」
ハヤがからかうように聞いた。
「お弁当を食べた後で読みたい」
「外で読むのか」
「外でも読める」
セラもすぐに来た。セラの袋は小さかった。セラは普段からあまり食べない。
6人で広場の井戸の周りにお弁当を広げた。
ロインは三つの袋を腰から外して、地面に置いた。
「いっぱいだな」
トルムがロインの袋を見て言った。
「お母さんがみんなで分けていいって」
ロインはそう答えた。
「ロインの母ちゃん、優しいな」
ハヤは指を立てた。
トルムは自分の麻袋から黒パンと干した肉を出した。干した肉はトルムの父が森で獲った鹿の肉だ。村の人がみんな少しずつ買って食べる。
「肉、分ける」
トルムはそう言って、自分の干し肉を四つに割った。一つを自分のために置いて、残りの三つを差し出した。最初にロインに次にセラに最後にエリンにと渡した。ハヤとマイアには渡さなかった。
「私たちは?」
ハヤが声を上げた。
「お前らは自分の弁当があるだろう」
「肉、欲しいんだけど!」
「お前にやると全部食う」
「失礼な!」
ハヤはトルムの肩を叩こうとした。トルムは半身でよけた。よけた拍子に自分の肉を落としそうになって、慌てて掴んだ。
マイアは静かに自分の弁当を広げていた。マイアの弁当はいつも同じだった。小さな黒パンと薄いチーズ、それから小さな焼き菓子が一つ。マイアの母は毎日同じものを作る。マイアはそれに文句を言わない。
「お母さんはこれが一番いいって思ってるから」
と前にロインに話したことがある。
ロインは自分の袋の中の干した果物を皆に少しずつ分けた。果物は固く、噛むのに時間がかかる。けれど甘い。母が冬の間に乾かしておいたものだ。
「うまい」
トルムは息を吐いた。
「ロインの母ちゃん、料理上手だな」
「父ちゃんもそう言ってる」
ロインはそう答えた。
6人で食べた。誰かが何か言うと誰かが答える。誰も何も言わない時間も時々ある。その時は井戸の周りの石を踏む足音と村の遠くの音だけが聞こえる。
ロインはその静かな時間が好きだった。何も言わなくていい時間は誰かと一緒にいる時間の中で一番落ち着く。
セラはあまり食べなかった。半分ほど食べて、袋をしまった。
「食べないのか」
ロインが小さく聞いた。
「お腹いっぱい」
「もう?」
「そう」
セラはそう答えて、井戸の縁に座り直した。空をまた見上げている。
ロインはセラがあまり食べないことを前から知っていた。けれど、その朝はいつもより少なかった気がした。
「具合悪い?」
「いや」
セラは首を振った。
「お腹に何か入ってる気がするだけ」
「何か?」
「わかんない」
セラはそう言って、笑った。
「気のせいだと思う」
と付け加えた。
ロインは何と返していいかわからなかったので自分のパンを噛み続けた。
食べ終わるとハヤが立ち上がった。
「次、川!」
「やっぱり、川か」
トルムが笑った。
「だって、暑くなってきたもん」
ハヤは両手を頭の後ろで組んだ。
「セラはいい?」
セラに聞いた。セラはしばらく空を見た。
「行こう」
マイアは服を見た。今日の白い服を見て、それから少し首を傾けた。
「私、足だけにする」
「マイアの服、汚すとお母さんが大変だもんね」
ハヤが言った。
「だから足だけ」
マイアはそう決めた。
6人は広場から村の北側にある川に向かった。
川は村のすぐ外れにある。広場から歩いて、5分ほどの距離だ。村の人が水を汲みに行く場所で井戸とは別の水源だった。
道は村の中の細い小道を通る。家の壁と壁の隙間のような場所を6人で一列になって歩いた。先頭はやはりトルムだった。
途中、村の鍛冶屋の前を通った。鍛冶屋は朝から仕事をしている。中から金属を打つ音が規則的に聞こえる。鍛冶屋の主人がたまに戸の隙間から外をのぞく。6人が通ると軽く手を上げた。トルムが手を振り返した。
「あの人、トルムの父ちゃんと仲良かったよね」
ハヤが小さく言った。
「うちの父ちゃん、誰とでも仲いいから」
トルムは肩をすくめた。
川に着いた。
川の水は春の雪解け水で少し冷たい。けれど深くはない。子供の膝までしかない場所が多い。村の子供が一番遊ぶのは川の少し広くなった、岩がたくさんある場所だった。
ハヤは真っ先に靴を脱いだ。ズボンの裾を膝までまくり上げて、川に入った。
「冷たい!」
「だろうな」
トルムが笑った。
「でも気持ちいい!」
ハヤは両手を広げて、水の中をぐるぐる回った。
エリンは岩の上に座って、本を開いていた。
「水には入らないのか?」
とトルムが聞いた。
「俺はいい」
とエリンは短く答えた。本を読みたいらしい。
トルムも靴を脱いで川に入った。マイアは約束通り足だけ、と言って、川の縁にしゃがんで足を水に浸けた。
ロインは川の縁の岩に座った。靴を脱ごうかと思ったが脱ぐ前にセラが横に座った。
「ロイン、入らないの?」
「今日はいい」
「私もいい」
セラはそう言って、隣に座った。
セラは水を見ていた。川の水面は午後の光で白く光っていた。光の粒が水の上を流れていく。
「きれい」
セラが小さく言った。
「きれいだ」
ロインも同意した。
「ロイン」
セラがまた呼んだ。
「ん?」
「私、たまに聞こえないものが聞こえる気がするの」
ロインは横を見た。セラの横顔は川の方を向いていた。
「聞こえないもの?」
「誰も聞いてないのに私だけ、聞こえてる気がする」
「何が?」
「わかんない。音、じゃないかもしれない。何か」
セラは膝を抱えていた。膝の上に顎を乗せて、川の水を見ている。
ロインは何と答えていいかわからなかった。
セラがそういうことを言うのは初めてではない。前にも一度か二度、似たようなことを話したことがあった。けれど、その朝のセラの声はいつもより少しだけ、遠かった。
「いつから?」
ロインは聞いた。
「最近、かな」
「最近?」
「冬の終わりくらいから」
セラはそう答えた。
「お母さんには言ってない」
と付け加えた。
「なんで」
「わかんない。言わないほうがいい気がする」
「そうか」
ロインはそれ以上聞かなかった。聞いていいかどうか、わからなかったからだ。
セラは膝の上から顔を上げて、ロインを見た。
「ロインだから言った」
「俺だから?」
「ロインだけ」
ロインはその言葉を長い間、覚えていることになる。
けれどその時のロインはその言葉の意味がよくはわからなかった。ただ、自分だけが聞いた、という事実が胸の奥に小さく溜まっただけだった。
川の中でハヤが大きな声を出した。
「魚、いた!」
「どこ!」
「あそこ! あ、逃げた!」
ハヤは岩の影を指差していた。けれど、ロインの場所からはもう何も見えなかった。
セラは立ち上がった。
「行こう」
と言って、川の方に歩いた。ロインも続いて立ち上がった。
セラはハヤの隣に行って、川の中を覗き込んだ。
「私も見たい」
と言って、靴を脱ぎ始めた。
「セラ、入るの?」
ハヤが聞いた。
「そう」
「やった、もう一人増えた!」
セラは靴を脱いで川に入った。
セラの足は白かった。水の中でもっと白く見えた。
ロインは川の縁に立ったまま、4人を見ていた。トルムとハヤとセラが川の中で岩の影を覗き込んでいる。マイアは縁で足を水に浸けたまま、3人を見ていた。エリンは少し離れた岩の上で本を読んでいる。
これがロインの6歳の春の、いつもの光景だった。
ロインはその光景を覚えておきたい、と思った。
なぜ、その時、そう思ったのかはわからない。
けれど、強く、覚えておきたい、と思った。
風が川の水面を撫でた。水面の光の粒が揺れた。
ロインはその光の揺れも覚えておこうと思った。
──
## 後半(夕方・帰路)
午後の光が少しずつ柔らかくなっていった。
川の水の上の白い光の粒はもう、朝のような鋭さを持っていなかった。光は伸びていて、岩の影が長くなっていた。
ハヤが川から上がった。
「冷えてきた」
唇が薄く青くなっていた。トルムが「だからもう少しで止めるって言ったろ」
と笑った。トルムはとっくに上がっていた。トルムは水に強いがハヤより早く感覚に気づく。
セラも上がった。セラは何も言わなかった。靴を持って、川の縁の岩の上で足を乾かしていた。
ロインがそれを見ていた。セラの足は白いというより少し透けて見えるくらいの色だった。水で冷えたせいだろうか、と思った。
マイアは服を膝の上に集めて、足の水を払っていた。マイアの白い服には結局、水滴の跡が少しだけついていた。
「あ、ついちゃった」
マイアが小さく声を上げた。
「お母さん、怒るかな」
「乾けば、わかんないよ」
ハヤが言った。
「そう」
マイアは半分納得して、半分は不安そうな顔をした。
エリンは岩の上で本を閉じていた。本を腕に挟んで立ち上がった。
「そろそろ、戻るのか」
「戻ろう」
セラは目を細めた。
6人で川を離れた。
帰り道は川から村のはずれを通り、そこから広場の方角に向かう。行きと同じ道だ。
歩きながら、空を見上げた。
午後の空は朝の空よりも色が薄い。雲がほとんどない。風もほとんどない。誰の足音も土の道に小さく響いた。
途中、村のはずれの老人の小屋の前をまた通った。
老人はまだ切り株に座っていた。けれど目は閉じていた。眠っているらしい。
誰も声をかけなかった。6人で静かに老人の前を通り過ぎた。
老人の前を通った時、ロインはふと老人の声を思い出した。
「鳴らしてはいけない」
そう言った老人の声だ。
理由を聞いたら、「いけないことはいけないんだ。理由はない」
と答えた。
ロインはその答えが頭の中でまだ残っていた。理由がないことが理由になる。そんなことが本当にあるのだろうか、と思った。
けれど、それを口には出さなかった。
口に出して、誰かに聞きたいような気もしたが聞いていい相手が誰だかわからなかった。
村の中に戻ると夕方の音が始まっていた。
鍛冶屋の音は止まっていた。代わりに家の中から夕食の準備の音がいくつも聞こえた。包丁が木の台に当たる音、鍋が火の上に置かれる音、子どもを呼ぶ母親の声。
村の朝とは違う、村の夕方の音だった。
広場に戻ると6人はそれぞれの方向に分かれた。
トルムは広場から東に。トルムの家は森に近い側にある。
ハヤは北側に。ハヤの家は村の鍛冶屋の隣だ。
マイアは南に。マイアの家は教会のあたりに近い、村の南端だ。
エリンは西に。エリンの家は村長の家の近くにある。エリンの父は村長の助手のような仕事をしている。
「またね!」
ハヤが手を振って走り出した。
「また明日な」
トルムも手を上げた。
マイアは小さく目を伏せて、両手を胸の前で組んでそれから歩き始めた。
エリンは本を抱えたまま、「またな」
と短く言って、歩いていった。
広場にはロインとセラだけが残った。
ロインの家は広場から西に下った場所にある。セラの家はロインの家のもう一つ先だ。同じ方角だからいつも二人で最後まで歩く。
「行こう」
セラが言った。
ロインは目を伏せて、セラの隣を歩いた。
夕方の道は朝の道と同じ道のはずだった。けれど、光が違うと道は別のもののように見えた。家の壁の色が朝より赤く見える。土の道の色も深くなっている。
セラは黙って歩いていた。
ロインも黙っていた。
しばらく歩いたところでセラがロインの手を取った。
セラの手はいつもと同じ温度だった。少し冷たくて、少し柔らかい。川の水で冷えた手ではなかった。もう、乾いていた。
ロインはセラの手の温度を長い間、知っていた。何度も繋いだことがある。けれど、その日の夕方の手はいつもの手と同じ温度のはずなのに少しだけ違う気がした。
何が違うのか、わからない。
ただ、違う気がした。
「セラ」
ロインは小さく呼んだ。
「ん?」
「明日も遊ぶ?」
セラは少し笑った。
「明日も遊ぶ」
「そう」
ロインは肩の力を抜いた。
二人はロインの家まで歩いた。
ロインの家の前でセラはロインの手を離した。
「明日も一緒に遊ぼうね」
セラがそう言った。
ロインはセラを見上げた。セラの琥珀色の瞳は夕方の光の中で朝とも午後とも違う色をしていた。深い、蜜の中に光を閉じ込めたような色だった。
「そう」
ロインは答えた。
セラは手を振って、自分の家の方に歩いていった。
ロインはセラの背中が家の角を曲がって見えなくなるまで見ていた。
それから戸を開けて、家に入った。
家の中は薪の煙の匂いがしていた。朝と同じ匂いだ。けれど、朝より少しだけ濃い。父か母が夕食のために薪をくべたのだろう。
「ただいま」
ロインは言った。
「おかえり」
母の声が台所から聞こえた。
父の姿は見えなかった。
「お父さんは?」
ロインは台所に向かいながら聞いた。
「出かけてる」
母は鍋の前にいた。鍋の中には何かが煮えていた。豆と肉と薬草の匂いがする。
「夕方には戻ってくるって」
ロインは台所の入り口で立ち止まって、母の背中を見ていた。母はこちらに振り向かなかった。鍋の中をかき混ぜている。
「ロイン」
母が振り向かずに呼んだ。
「ん?」
「今日は何して遊んだ?」
「川と森」
「森?」
母の手が鍋をかき混ぜる動きを一瞬だけ止めた。
「入口だけ。奥には行かない」
「そう」
母はまた鍋をかき混ぜ始めた。
「奥には行ってないのね」
「そう」
「よかった」
母の声はいつもの母の声に近かった。けれど、ロインは母が一瞬手を止めたことを見ていた。
理由はわからない。けれど、見たことは覚えておこうと思った。
夕食は父が戻ってから始まった。
父はあまり多くを話さなかった。父はいつもそうだ。母もいつもより少し静かに見えた。
ロインは自分の皿の豆をゆっくりと食べた。
「ロイン」
父が食事の途中で言った。
「ん?」
「夏になったら、お前も連れて、少し遠くに行く」
「遠くって、どこ?」
「東のほうだ。森のもっと向こうだ」
「いつ?」
「夏になったら、と言っただろう。もう少し先だ」
「そう」
ロインはそれ以上、聞かなかった。
母は自分のスープを少しだけ口にした。
スープを飲んだ後、母はロインのほうを見た。母は何か言いたそうな顔をしていた。けれど、結局、何も言わなかった。
ただ、ロインの皿に自分の干し肉を一切れ、移した。
「食べなさい」
「ありがとう」
夕食の後、ロインは自分の使った皿を台所の桶に運んだ。これも毎晩の決まりだった。朝と同じだ。母がロインが3歳の頃から皿を運ばせている。
桶に皿を浸けた時、水はもう冷たくなかった。父が朝に汲んだ水は一日の間に家の温度に近づいていた。
ロインはその水に皿を浸けて、しばらく、桶の中を見ていた。
寝る前、ロインははしごを登って、自分の寝床に入った。
布団は冷たかった。けれど、潜ってしまえば、すぐに自分の体温で温まる。
布団の中でロインは目を閉じた。
セラの手の温度を思い出した。
川辺でセラが「ロインだから言った」
と言った時の声を思い出した。
老人が「鳴らしてはいけない、理由はない」
と言った時の顔を思い出した。
父が「夏になったら、連れて行く」
と言った時の声を思い出した。
母が一瞬、鍋をかき混ぜる手を止めた時のことを思い出した。
たくさんのことが一日の中で起きていた。
六歳のロインにはそれらすべてがそれぞれ別のことのように感じられた。
それぞれが別のところで別の理由で起きている。
それらがいつか、一つの形になることをロインはまだ、知らなかった。
布団の中の温度がちょうどよくなった頃、ロインは眠りに落ちた。
眠る前の最後の感覚はセラの手の温度だった。
セラの手はいつもより少しだけ、軽かった気がした。
本当に少しだけ、だった。
──
7年後の春にロインはこの夜のことをもう一度、思い出すことになる。
学園の中庭で見たことのない色の瞳を持った少女が自分のことを覚えていないと言った、あの夜に。
ロインはこの6歳の春の夜の、セラの手の温度をもう一度、思い出す。
そして、思い出した時、ロインは初めて気付くことになる。
──あの夜、セラの手が少しだけ軽かったのはすでに何かが始まっていたからだ、と。
何かがもう、始まっていた。
6歳のロインはそれを知らなかった。
村の朝も森の鐘も母の歌も父の手もセラの瞳もすべてがいつもと同じに見えていた。
けれど、何かがもう、動いていた。
ゆっくりと誰にも気付かれないように確実に動いていた。
──物語はここから始まる。
──
(後半終わり)




