第90話 無頓着な描き手
次の朝、私はルッシェリーナの寮の給湯室で、お茶を用意していた。
カレフィーネは、学園の正門までモレティアさんを迎えに行っている。
弁護士は今日の面談には同席できないが、本人が同意すれば、すぐに契約書の確認を引き受けてもらえるという。今回の応募に問題がないかを調べる費用は、継譚商会で負担する事になった。
そこまで整っているなら、相談を断られる事はないだろう。
お茶を盆に載せて面会室へ入ると、既に打ち合わせが始まっていた。
ルッシェリーナの向かいに座っているのは、二十歳を幾つか越えたくらいの女性だった。肩まで届く柔らかな髪を、顔にかからないよう髪留めでまとめている。
「あっ、あの時の受付さん」
顔を上げた女性を見て、私も思い出した。
公募説明会の後、『風渡りの行商人』を今すぐ手に入れたいと、受付で身を乗り出してきた人だ。
少し垂れた大きな瞳には覚えがある。目の下の薄い影は、どこか疲れを感じさせた。
――あの人が、モレティアさんだったんだ。
今日帰ったらすぐに描きたい、と言っていた勢いを思い出すと、妙に納得がいった。
「あの時は、本当にありがとね。おかげで漫画を描いて、お金まで貰えるようになったの」
「そ、それは、良かったですね」
嬉しそうに笑う顔を見て、口元が引きつりそうになった。
昨夜エリに聞いた契約の事が、頭をよぎる。本人は今の仕事を喜んでいて、条件に不満があるようには見えなかった。
お茶を置き、私は部屋を出た。まずは応募についての確認だ。契約の事も気になるけれど、私がその内容を知っている理由は、誰にも話せない。
――でも、あの調子で、次も同じ契約を続けてしまったら……。
更新を断れる期限は、まだ過ぎていない。まずは弁護士に相談して、自分がどんな条件で描いているのか、知ってもらえれば良いのだけれど。
寮の玄関広間で待っていたカレフィーネの隣へ腰を下ろす。
「思っていたより若い方だったね。あの洗濯屋さんの漫画って、凄く生活感があるから、もっと年上だと思っていたよ」
「そうそう。私も既婚者だと思っていたけど、良い縁がなくてってぼやいていたよ。実際に洗濯屋の受付をしているんだって」
「そうなんだ?」
「うん。毎日、近所の奥様方から世間話を聞くから、描く話には困らないらしいよ」
なるほど。登場人物の愚痴や、ちょっとした言い争いに覚えがある気がしたのは、そんな日常の会話から生まれた漫画だったからか。
応募作も面白かったが、毎朝読んでいる洗濯屋の漫画は、絵と話がさらにしっくり合っているように感じる。
――あの漫画を、これからも本人に描き続けてほしいんだよね。
「じゃあね。お茶、ごちそうさま」
打ち合わせを終えたモレティアさんは、来た時と変わらない明るさで帰っていった。
一方、見送りから戻ったルッシェリーナの顔は、晴れなかった。
「結局、どうなったの?」
「ご本人は、新聞社との契約時に、今回の応募をして良いと言われたとおっしゃっていました。ただ、そのお話だけでは、受賞後の掲載まで問題がないか判断できません。弁護士に契約内容をご確認いただくようにお願いしましたが、一度持ち帰って考えたいそうです。信頼できる方に、対応を相談したいというご意向です」
「信頼できる方?」
「お話からすると、報時新聞社の社員のようです」
「ええっ。それで、弁護士に相談して良いって言ってくれるのかな?」
ルッシェリーナは、わずかに眉を寄せた。
「そこは、わかりません。ただ、ご本人は契約内容をあまり把握していないようでした。漫画を描いてお金が貰えるなら、どんな条件でも受け入れてしまいそうで……」
――そうなんだよ。もう、そんな契約を結んでしまっているんだよ……。
「火曜日までには、お返事をいただく予定です。弁護士に確認していただけなければ、選考で入賞に相当すると評価されても、対象から外すとお伝えしました」
「それでも、すぐには頼んでもらえなかったんだ?」
「ええ。『まあ、仕方がないね』と」
費用の心配さえなくせば、引き受けてもらえると思っていた。
けれど、モレティアさんにとっては、入賞を逃す事も、さほど惜しくないらしい。
受賞のための確認でさえこの調子なら、今の契約を見直そうと勧めても、耳を傾けてくれるだろうか。
私は、モレティアさんが立ち去った寮の正面玄関を見つめた。
◇ ◇ ◇
午後の選考会は、産業日報社の学園内支部で行われた。休日のため、学園事務局の会議室は借りられなかったのだ。
ルッシェリーナは、文化部長にミリアナを紹介した。
「はじめまして、ミリアナと申します」
ミリアナが木片の名刺を差し出す。その向こうでは、カレフィーネの紹介で、セルヴィンがプリガネトと挨拶を交わしていた。
本来なら、ミリアナを新聞社の人間へ近づけすぎたくはない。原作者との連絡を担う彼女は、何かと興味を持たれやすい立場だ。
とはいえ、今回の選考にどちらかを呼ばないわけにもいかなかった。
ルッシェリーナは二人の挨拶が済むのを待ち、候補作と採点用紙を机に並べた。
早くも原稿へ手を伸ばしたプリガネトに、まずは評価方法を説明する。
「作画美術、枠画構成、四枠脚本の観点から、それぞれ採点をお願いします。原則として、審査員全員の点数を合計して賞を決定します。まず各項目での得点が最も高い作品を賞に選定します。ほかの入賞作は総合点をもとに決め、総合点が最も高い作品を大賞とします」
「原則として、というのは、点数だけでは決められない場合もあるという事だね?」
文化部長の問いに、ルッシェリーナはうなずいた。
「はい。同じ作者の作品が複数残った場合は、総合点が最も高い一作に絞ります。また、得点が高くても、問題のご指摘があれば皆様と検討します」
「なるほど。今日は最終決定まではしないと聞いたのは、原作者にも審査員として意見を貰うからかい?」
「ええ。星乃とどき先生にもご採点いただきます」
これ以上、原作者へ話が向く前に、ルッシェリーナは採点用紙を取り上げた。
「ほかにもご相談したい事はありますが、まずは作品を見ていただきましょう。プリガネト先生も、お待ちかねのようですから」
原稿をめくる音に、時折、笑い声が交じる。
採点を終え、集計と講評をひと通り済ませてから、ルッシェリーナは午前の面談について説明した。
文化部長は、モレティアの名が記された原稿へ目を落とした。
「この名前は、気になっていたんだよ。あそこは我が社以上に発行部数を重んじるからね。どんな条件を付けているか、確かに心配だ。弁護士の確認は必要だろう」
「だが、点数を見る限り、その者の作品は入賞までであろう」
プリガネトが、集計した用紙を指さした。
「各賞は、いずれも他の者が上回っておる。ひとまず仮の入賞として、確認を待てば良いのではないか」
モレティアの3作は、どれも安定して得点を集めていた。しかし、各項目でも総合点でも、首位の作品とは、原作者一人の採点では逆転できない点差がついていた。
「では、この方の作品は、現時点では入賞相当として扱います。ただし、応募と受賞後の掲載に問題がないと弁護士に確認していただくまでは、保留という事で、よろしいでしょうか」
二人がうなずくのを見て、ルッシェリーナはようやく肩の力を抜いた。
確認が取れなければ、モレティアの一作を外す。それでほかの各賞を選び直す必要はない。返事を待つ間も、発表の準備を進められる。
朝から抱えていた懸念に、ようやく見通しが立った。
ところが、隣のミリアナは集計用紙を見たまま、まだ難しい顔をしている。
――あとは、ミリアナが納得してくれるかどうかですね。
ルッシェリーナは、友人の横顔をそっとうかがった。
悪魔: 皇国の都市部では、女性の結婚年齢は20代前半が一般的。
悪魔の眷属: 昭和初期の日本と同じくらいですね。ただ、農村部では成人してすぐに結婚する人も珍しくありません。
リアクションをいただき、ありがとうございます。
この物語を「面白い」「また読みたい」と感じたら、★やブックマークで応援していただけると大変嬉しいです。




