第86話 紙札の攻防
私は手元の紙札を見下ろした。少し傾けるだけで、数字が花模様に変わる。
ようやく見せてもらえたのに、『風渡りの行商人』には、この札を出せないかもしれない。
どう直せば良いのかも浮かばず、札を持ったまま固まっていると、セルヴィンが次の質問をしてくれた。
「では、この模様ができる前は、どうやって感知魔術による読み取りを防いでいたのでしょう?」
「それは……紙札の作り方を変え、魔術でそれを読み解かれ、また作り方を変える。その繰り返しでした」
支配人はちらりと私を見た。それから背筋を伸ばし、小さく咳払いをする。
「では、順を追ってお話ししましょう」
そう言って、卓の上に紙札を伏せた。
「初めの頃は、数字や印と同じ墨液で、別の模様を刷った層を重ねていたのです。表面のすぐ下に、読み取りを邪魔する模様を入れるわけですね」
「遮読紙と同じような仕組みですか?」
私が尋ねると、支配人は頷いた。
「はい。今でも、安価な市販の紙札には、この方法がよく使われています」
これなら私にもわかる。数字を探ろうとしても、下の模様の墨液まで拾ってしまい、どれが数字の線なのか見分けにくくなるのだ。
そもそも、離れた場所から墨液の形を細かく読み取るには、かなりの技量がいる。他人が手に持っている札なら、その人の身体から漏れる魔力も邪魔になる。
けれど、手を離して卓上に伏せた札なら探りやすい。腕の良い術師には、重なった模様の中から数字や印を読み取られる事もあったらしい。
「読み取りの技法が進むにつれ、模様を重ねるだけでは防ぎきれなくなりました。特に大きかったのが、『位相同期検波』という技法です」
聞き慣れない言葉に私が戸惑う中、セルヴィンが尋ねた。
「操作魔術で与える働きかけの周波数を変えて、強く反応するところを探る、あの方法ですか?」
「ええ。与えた働きかけに合う反応を拾えば、ごく弱い違いも捉えやすくなります。統一帝国時代には、単純に物の動きを探るだけでなく、こうした技法も発展していったのです」
セルヴィンは何度も頷いている。私は、少し遅れて頷きかけ、やめた。
――うーん。どうして、ここで周波数が出てくるの?札の話をしていたよね?
気になるけれど、ここで尋ねたら、紙札の歴史に戻ってこられなくなりそうだ。
ひとまず、離れた場所にある墨液の形も、前より細かく読み取れるようになった、と理解しておこう。
そこで、紙札を作る側が工夫したのは、墨液そのものだった。
数字や印を刷る墨液と、その周りを埋める墨液。目で見れば色は違っても、魔術で探った時には、できるだけ同じ手応えになるようにする。
札の表を2種類の墨液で隙間なく、同じ厚さに刷るのだという。
「なるほど。墨液のある場所と、ない場所を探るだけでは、何も読めなくなるわけですね」
「おっしゃるとおりです。ただ、色が違う以上、全く同じ墨液にはできません。今度は、その違いをどう探るか、という話になります」
セルヴィンが身を乗り出した。
「電気の通しやすさなどを比べるのですか?」
「それも一つです。そこで違いが出なくなると、また別の性質を調べます」
支配人の説明には、誘電、分極、磁気応答と、聞き慣れない言葉が次々に混じり始めた。複数の周波数での反応を組み合わせたり、分子の向きの変化を調べたりもするらしい。
隣ではセルヴィンが、それなら墨液の材料も変えなければ、と熱心に相づちを打っていた。
――うん。違いを見つけられるたびに、そこも似せるように作り直してきた、という事だね。
小さな紙札一枚を巡って、作り手と術師の間で、そんな長い競争が続いていたとは思わなかった。
「ところが、大革新で、また事情が変わります。『荷電分析法』が開発されたのです」
「物質を構成する微粒子に電荷を与え、動きの違いから種類や量を調べる方法ですね?」
「よくご存知ですね。産業用の素材を詳しく調べるための手法なのですが、これが墨液の成分を見分けるのにも役立ちました。手応えをどれほど似せても、含まれる分子の違いまで調べられるとなると、隠しきれなくなったのです」
セルヴィンが、左の手のひらを右の拳でぽんと叩いた。
「そうか!それで、墨液を使い分ける方法から、この膜に変わったのですね。同じ性質の膜でも、細かな溝の形で、目には違う模様を見せられる」
「はい。先ほどご覧いただいた『光学角度依存模様』です。今度は成分を調べても、数字はわかりません。溝の形を読み分けるには、勝負の最中に使える感知魔術より、ずっと高い精度が必要になります」
支配人が伏せていた札を返すと、光沢のある面に数字が浮かんだ。
ようやく話が、目の前の模様まで戻ってきた。
セルヴィンは感心した声を上げ、さらに質問を続けている。話が難しくなるほど楽しそうで、商会のお金の話をする時と同じくらい、生き生きしていた。
――セルヴィンって、こんな話までわかるんだ……。
少し、見くびっていたかもしれない。私は隣のカレフィーネへ、そっと顔を寄せた。
「ねえ、今の説明、理解できた?」
「うんうん。私には理解できそうにない、って事は、よくわかったよ」
「だよね」
小声で言い合って、二人で頷いた。
それでも、セルヴィンと支配人のやり取りのおかげで、物語に出す紙札は決められそうだった。
『風渡りの行商人』では、魔術で探った時の手応えがよく似た墨液を使えば良い。感知魔術の技法も今ほど進んでいない時代なら、それで読み取りを防げるはずだ。
医術は覇皇以前の水準を目安にしたけれど、紙札の作り方まで、同じ時代に揃える必要はないだろう。『風渡りの行商人』は架空の土地の物語だ。医術よりも、札の読み取りを防ぐ工夫が先に進んでいたって良い。
あの虹色に輝く札では、思い描いていた古い町並みから浮いてしまう。でも、墨液で模様を刷った札なら、あの世界にも馴染みそうだ。
色の違いで数字や印を描くなら、見る角度で模様が消える事もない。原作どおり、背後から望遠鏡で手札を覗く仕掛けも使える。
女剣士には、紙札を手に取った時、魔術で数字や印を探れないかを確かめさせよう。それなら、勝負の流れをほとんど変えずに済みそうだ。
――良かった。あの逆転の場面は、そのまま書けそうだね。
肩から力が抜けたところで、ふと思う。
最初からエリに、昔の賭博場ではどんな紙札を使っていたのか、と聞けば良かったのかもしれない。
でも、遊戯室の静けさや、向かい合う椅子の間隔は、ここへ来たからこそ実感できた。紙札の上を虹色の光が走った驚きも、説明を聞くだけでは得られなかったものだ。
あの模様を今回の物語に出せなくても、今日の経験は、これから情景を書く時に役立ってくれるだろう。
それに、思いがけず相談相手も見つかった。
翻案では、感知魔術に絡んで、隠した文字を読まれたり、物の在りかを探り当てられたりしないかと悩む事が多い。場面を説明して、この距離から、この状態の物を感知できるのかと尋ねれば、セルヴィンなら一緒に考えてくれそうだ。必要な技法も調べてもらえるかもしれない。
――面倒な魔術の影響調査は、これからセルヴィンにお願いしちゃおうっと。
紙札を返し、丁寧に案内してくれた支配人へ、皆でお礼を述べた。
建物を出ると、並木道の先から噴水の音が聞こえてきた。歩き出した私に、セルヴィンが声を掛ける。
「それで、ミリアナが知りたかった事は、ちゃんと確かめられたのか?」
「うん、ありがとう。おかげで、物語に必要な事はばっちり確認できたよ」
「本当か?支配人さん、ミリアナの方を気にしていたぞ」
「えっ、私を?」
思わず隣を見ると、ルッシェリーナも頷いた。
「あの模様が大革新で作られるようになったと聞いた時、ずいぶん驚いた顔をしていましたよ。その後、支配人がミリアナの様子をうかがっていました」
「うんうん。何かまずい説明をしちゃったと思ったのかもねぇ。昔の紙札の話から、あんなに丁寧に教えてくれたもの」
そういえば、昔の紙札の説明を始める前に、支配人は私を見て咳払いをしていた。
私はただ、物語の時代に合わないと気づいて困っていただけだ。まさか、その顔で支配人まで困らせていたとは。
――それは悪い事をしたかも。でも、おかげで物語は助かったね!
悪魔: 『荷電分析法』は、〈質量分析法〉を魔術で実現した技法。
悪魔の眷属: 具体的な技法を理解していただく必要は、全くありません。技術開発の〈イタチごっこ〉を表現したかっただけだそうです。
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