第80話 祝いの仕込み
今日はセルヴィンの誕生日だ。
講義を終えた私は、みんなよりも一足先にネマリエさんの喫茶店へ来ていた。お祝いの席へ出す、香辛煮羹を仕込むためだ。
厨房では、すでに料理の準備が進んでいた。切り揃えた野菜が器に分けられ、調理台の端には、人数分の白い皿が重ねてある。その一角だけがきれいに空けられ、私が使う鍋と木べらが置かれていた。
「お忙しいところ、厨房を貸していただいて、ありがとうございます」
「いいえ。一緒にお料理ができるなんて、嬉しいわ。材料はこちらに揃えてあるから、足りないものがあったら言ってちょうだい」
手を洗い、前掛けの紐を結ぶ。道具はどれも手入れが行き届き、鍋を置いた焜炉には、火力を細かく調節する目盛りが付いていた。
これなら、寮の厨房では難しかった弱火も、思いどおりに使えそうだ。
――よし。今日はおいしい〈カレー〉を作って、エリの得点を超えてみせるぞ!
前回の採点は、100点満点で75点だった。食べてくれた人には好評だったのに、香辛料の加熱が足りないと減点されたのだ。
エリは〈カレールウ〉というずるい裏技を使って90点だと聞いている。香辛料から作ってその点数を超えれば、文句なしで私の勝ちだ。
「いただいた調理法、私も試してみたの。確かに、香りには驚いたわ。でも、食べてみると、ご飯が進む良いお味ね」
「そうなんです!匂いはちょっと強いんですけど……」
「少し私の流儀で整えて、お店でも出してみたいのだけれど、良いかしら?」
「はい、もちろんです。私も食べに来ます!」
庶民寮には冷蔵設備がない。自分一人のために肉や野菜を少しずつ買い揃え、余らせずに作るのは、なかなか面倒だ。
ここへ来れば食べられるようになるなら、こんなにありがたい事はない。
「でも、今日はミリアナちゃんの手作りを食べてもらわないとね。彼を喜ばせたいのでしょう?」
「あ、いえ。私が自分で作りたいだけなんですけど……」
「ふふふ。その割には、ずいぶん気合が入っているように見えるわよ?」
どうも、私の意気込みの向かう先を、少し誤解されている気がする。
かといって、悪魔と料理の腕を競っているのだと説明するわけにもいかない。私は曖昧に笑って、玉葱をまな板へ載せた。
前回の指摘を思い出し、香辛料を焦がさず十分に加熱できるよう、火加減と香りの変化に気を配りながら料理に取り掛かった。
「油はこちらを使ってみて。よく精製してあるから、普通の菜種油よりも癖が少ないの。香辛料の香りも邪魔しないわ」
ネマリエさんが差し出した瓶の中で、淡い色の油が揺れた。蓋を開けてみても、寮で使った油のような匂いはほとんどしない。
「同じ菜種油でも、こんなに違うんですね」
「ええ。お菓子にも使いやすいのよ。ただ、香辛料は焦げやすいから、鍋の底に残らないように混ぜてね」
その後も、隣で別の料理を仕上げていくネマリエさんに時折助言をもらいながら、鍋の中身を煮込んでいった。
「塩加減は、煮詰まってから、最後にもう一度確かめましょう。ご飯と一緒に味を見ると、感じ方が変わるわ」
「なるほど……。勉強になります」
具材に火が通り、とろみも付いたところで、小皿のご飯に少し掛けて味を確かめた。
熱い一口をゆっくり飲み込むと、香辛料の香りが鼻へ抜けていく。辛さの後に玉葱の甘みと肉の旨みが広がり、すぐにもう一口食べたくなった。
――うん、おいしい!前よりも、ずっと味がまとまっている気がする。
ネマリエさんにも味を見てもらうと、小さく頷いてくれた。
「おいしいわ。上手にできたわね」
「ありがとうございます!」
ようやく肩の力が抜けた。ネマリエさんにも認めてもらえたなら間違いないだろう。
火を弱め、あとは冷めないようにしておくだけになった頃、店の方から扉の鈴と賑やかな声が聞こえた。
厨房から顔を出すと、カレフィーネとルッシェリーナが、アンデレジオス、タルシェリオ、カーンバルトの3人を案内してきたところだった。
カレフィーネは私を見つけるなり、手にしていた新聞を掲げた。
「ミリアナ、これ、見てよ!」
「なに?何か載っていたの?」
手を拭いてから受け取ると、紙面の上に『報時新聞』の名が見えた。貴族や大きな商会の経営者など、社会的な地位の高い読者が多い大手の新聞だ。
広げた一面には、大きな見出しが躍っていた。
『逃走50日超、消えた銀行襲撃犯――治安局の「後手」に深まる不信』
「えぇっ!あの銀行の襲撃犯達、まだ捕まっていなかったの?!」
「そうなのよ。信じられないでしょう?……って、違う違う。見てほしいのは、そこじゃないの」
カレフィーネが横から手を伸ばし、紙面をめくる。
私は隠れてしまった見出しを目で追いながら、寮へ帰ったら、エリに犯人達の事を聞いてみようと決めた。
「ほら、ここ!」
指さされた先には、縦に四つの画枠が並んでいた。
街の洗濯屋を舞台にした漫画だ。
店先でのやり取りから始まり、客と店の人のちょっとした行き違いが、最後の一枠できれいにひっくり返る。思わず口元が緩んだ。もう一度最初へ戻ると、冒頭の何気ない台詞が、ちゃんと結末につながっていた。
登場人物の顔も見分けやすく、初めて読むのに、誰が何をしているのか迷わない。小さな紙面の中だけで、きちんと一つの話になっている。
脇には、『モレティア』という作者名が記されていた。
「うわぁ、凄い!もう新聞に、漫画が載っている!」
「えぇ、喜んじゃうの?こっちはまだ公募の途中なのに、先を越されちゃったんだよ。少しくらい悔しがろうよ」
「でも、こんなに早く描く人がいて、それを新聞に載せたいと思ってくれた人もいたんだよ。それだけ漫画を面白いと思う人がいたって事でしょう?」
私が新聞から顔を上げると、カレフィーネは何か言いたそうに口を開き、それからルッシェリーナを見た。
「ほら、言ったとおりでしょう。ミリアナなら、先を越されたと怒るより、新しい作品を読める方を喜ぶはずだと」
「うーん。私は、なんだか釈然としないんだけどなぁ」
「それに、本当に最初に新聞へ載った漫画は、タルシェリオ先輩の作品だよ。公募の公告と一緒に載せたでしょう?」
私が振り向くと、タルシェリオは眼鏡の奥で目を瞬かせた。
「いや、あれは見本だから……」
「それでも、最初に紙面に載った漫画だったのは、変わりませんよ」
タルシェリオは少し照れたように眼鏡を押し上げた。けれど、カレフィーネはまだ口を尖らせている。
ルッシェリーナはその顔を見て、穏やかに言い添えた。
「誰でも自由に使えるようにと、公開した技法ですからね。こうして新しい作品が生まれるのは、喜ばしい事ですよ」
「それは、そうなんだけどねぇ……」
カレフィーネの声が少し和らぐと、ルッシェリーナは改めて紙面へ目を落とした。
「遅かれ早かれ、どこかの新聞が掲載するだろうと思っていましたが……。それにしても、説明会からわずか1週間とは、想定外の早さでした」
私は、説明会の後に受付へ来た女性を思い出した。今日、家へ帰ったらすぐに描きたいと、机へ身を乗り出していた人だ。
あの人も、今頃は何か描き上げているだろうか。新聞を見て、自分の漫画も載せてみたいと思っているかもしれない。
――長いお話には手が出なくても、四枠の漫画なら気軽に読めるよね。そこから物語を好きになる人が増えたら、私好みのお話を書いてくれる人だって、増えるかもしれない。
物語の続きを読みたいから新聞を買うように、好きな漫画が載っているから買う。そんな人が増えれば、描く人も、載せる場所も増えていくはずだ。
朝、新聞を広げたら、まず漫画を探す。そんなふうになったら、楽しいだろうなぁ。
みんなで新聞を囲み、漫画の感想でひとしきり盛り上がったところで、再び扉の鈴が鳴った。
顔を上げると、セルヴィンがディアネリス教授と一緒に入ってきた。手には新聞を握っている。
「みんな、これを見てくれ!」
得意げに新聞を掲げるセルヴィンに、カレフィーネはにっこり笑い、私達が広げている紙面を指さした。
「その話ならねぇ、今ちょうど終わったところだよ」
悪魔: 皇国で一般的な無精製菜種油とは異なり、令和日本の店頭で一般的に販売されているのは精製菜種油。〈キャノーラ油〉などが該当。
悪魔の眷属: ただし、〈キャノーラ油〉は原料の菜種の品種に由来する名前で、精製菜種油の別名というわけではないそうです。
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