第67話 香辛煮羹
朝早くに出たはずなのに、学園近くで肉と野菜まで買い、寮へ戻る頃には正午をとっくに過ぎていた。
背負い鞄を下ろす前に、1階の共同厨房を覗く。幸い、中には誰もいなかった。
厨房といっても、白い陶板を張った狭い部屋に、旧型の電気焜炉が2口あり、その横に共同の電気釜が一つ置かれているだけだ。壁際の棚には大小の鍋と平鍋、包丁、まな板が備え付けられ、流しの上には、使用後の片付けを命じる注意書きが張られている。
寮生なら誰でも使って良いが、学園には安くて献立も豊富な学生食堂がある。わざわざ自分で作る者は少ない。食器だけは各自で用意しなければならず、鍋を焦がしたり、洗い物を残したりすれば、寮母さんから厳しく注意される。
私は自室から食器類を持って戻ると、買ってきた材料を調理台へ並べた。
――ここを使っていると、たいてい寮母さんが、何をしているのか見に来るんだよね。別に、見られて困るような事をするわけじゃないけど……。
まずは少し試して、うまくできたら成人祝いの献立へ加える。それまでは、カレフィーネ達にも内緒にしておくつもりだった。失敗した料理についてあれこれ説明するのは恥ずかしいし、成功してから驚かせた方が楽しい。
先に米を研いで共同の電気釜へ仕掛け、一覧の裏に書き写しておいた手順を、一つずつ確認する。
刻んだ玉葱を油で炒め、焦げ付かないよう木べらで混ぜ続ける。やがて透き通り、少しずつ薄茶色へ変わっていった。
その間に、肉と野菜を一口大に切った。切り終えても、玉葱はエリから教わった色にはまだ遠い。
玉葱を飴色になるまで炒めるのは、神殿で〈シチュー〉を作った時にも経験している。あの時はエリに炒め方が足りないと駄目出しされた。今度こそはと、鍋底をこするように木べらを動かし続けた。
知恵の悪魔は、この世界の光景を自由に見て、音を聞く事ができるが、匂いや味を直接感じる事ができないらしい。ただし、全くわからないわけではなく、『成分分析による推定は可能』という事だ。
創作料理がおいしいか不味いかを、直接判断する事はできない。でも、基準となる料理と比べて、どのくらい近いかは判断できるという。つまり、完成形の情報が豊富にある異世界料理なら、基準との差を細かく指摘し、点数まで付けられるのだ。
――悔しいけど、これまでの経験上、自分で味わっているわけでもないのに、エリの採点は割と妥当なんだよね。
玉葱が濃い飴色になったところで肉を加え、表面に焼き色を付ける。鍋を火力の弱い焜炉へ移し、空いた平鍋で香辛料を炒めた。
色とりどりの粉を木べらで混ぜると、初めて嗅ぐ強い香りが、熱気とともに立ち上った。
胡椒のような刺激の奥に、土に似た重い匂いと甘い香りが幾重にも重なる。思わず顔を引いたのに、もう一度確かめたくなった。
――これが、〈カレー〉の匂い!
異世界の物語で、宿の扉を開けた主人公が、匂いだけで献立を言い当てる場面があった。そこまで遠くからわかるのは、その登場人物の特殊能力なのかと思っていたけれど、今なら納得できる。
香りは厨房の中へ留まらず、戸の隙間から廊下へ流れ出していった。
足音が近づいてきたのは、それから間もなくだった。
「なかなか刺激的な匂いですね。何を作っているのですか?」
振り返ると、予想したとおり寮母さんが戸口から中を覗いていた。ただし、いつもの見回りよりも、鍋へ向ける視線が長い。
「異国の料理の調理法をもらったので、ちょっとお試しで作っています」
「ずいぶん遠くまで香っていますよ。窓を開けて、よく換気してくださいな」
「はい。すぐに開けます」
「それから、香辛料を焦がすと匂いが残ります。焜炉と平鍋は、使い終えたら念入りに洗うように」
「わかりました」
寮母さんは頷いたものの、すぐには立ち去らなかった。
「それで、何というお料理なのです?」
「『香辛煮羹』といって、香辛料をたくさん使った肉と野菜の煮込みです。ご飯に掛けて食べるそうです」
「そう。香りだけでは、味の想像がつきませんね」
鍋をもう一度見てから、寮母さんはようやく廊下へ戻っていった。
野菜と水を鍋へ加え、火が通るまで煮込む。香辛料と小麦粉を油に馴染ませ、煮汁で溶いてから鍋に加える。煮立つにつれて、香りはさらに強くなった。
換気を良くしようと、厨房の戸まで開け放ったのがまずかったのかもしれない。
匂いに釣られた下級生が厨房に顔を出すと、そのすぐあとには別の寮生が2人連れで現れ、煮込んでいる間だけで、厨房を覗いた者は片手で数え切れなくなった。
――おかしい。ちょっと内緒で試すだけのはずだったのに。
水分が減って、とろみが付き始めた頃。また一人、戸口に人影が差した。
「おやおや。この匂い、ミリアナだったの?なぁにをしているのかな?」
カレフィーネは柔らかく笑っていた。ただし、その視線は調理台の上に並ぶ見慣れない香辛料の包みと、鍋の中身を交互に確かめている。
「えーっと、異国の料理の調理法をもらったから、試してみたくて……」
「異国って、どこの国なの?」
「それは……」
答えに詰まった私を見て、カレフィーネは笑みを浮かべたまま、少し目を細めた。それから、声を落として尋ねてきた。
「もしかしてだけどぉ……作者さんの国の料理じゃないよねぇ?」
「……うん。実は……そうなの」
カレフィーネは額へ手を当て、小さく息を吐いた。
「うーん。ミリアナは物語だけじゃなくて、世の中に新しい料理も広めたいの?」
「違うよ。これは息抜き!ただ自分で食べてみたかったのと、うまくできたら、セルヴィンの成人祝いに出してあげようかと思っただけだよ」
セルヴィンの名を聞くと、カレフィーネは鍋をもう一度覗き込んだ。立ち上る湯気を手で軽く扇ぎ、慎重に香りを確かめる。
「確かに、セルヴィンは喜びそうだねぇ。お肉もたくさん入っているし、ご飯にも合うなら、お祝いで出すのは良いと思うよ」
「でしょう?」
「でもねぇ……」
カレフィーネは厨房の外へ顔を向けた。廊下の向こうでは、先ほど覗きに来た寮生達が、まだ何かを話している。
「私が部屋から出た時には、もう2階でもこの匂いが話題になっていたよ」
「えっ、2階でも?!」
カレフィーネは困ったように頬へ指を添えた。
「もうちょっと目立つ事を自重しないと、ルッシェリーナが我慢の限界を超えちゃうよ」
「ここまで目立つとは思っていなかったんだよ……」
ほんの少し試作して、あとは成人祝いの当日に、ネマリエさんの店で作る。その時まで関係者以外へ広めるつもりなど、全くなかったのだ。しかし、廊下へ流れ続ける香りは止められない。もう、内緒にするのは諦めるほかなさそうだった。
米が炊き上がる頃には、鍋の中身も、とろりと匙へ絡むほど煮詰まっていた。
塩を足して味を確かめる。一口目は辛さに驚いたが、次には玉葱の甘みと肉の旨みが追い掛けてきた。ご飯と一緒なら、香辛料の強さも食欲を誘う。
「カレフィーネも、味見してみる?」
「もちろん。そのために待っていたんだよ」
自室から食器を持ってきたカレフィーネへ、ご飯と香辛煮羹を少しだけよそう。彼女は最初の一匙をゆっくり噛み、目を丸くした。
「うんうん、これはおいしいねぇ。最初はちょっと辛いけど、慣れると次が欲しくなる味かなぁ。ミリアナが食べてみたくなったのもわかるよ」
カレフィーネにも気に入ってもらえたようで、苦労して香辛料を集めた甲斐があったと思えた。
そこへ寮母さんが戻ってきた。手には自分用の食器を持っている。
「良ければ、少し味見してみますか?」
少量のご飯へ掛けて差し出すと、寮母さんは目を閉じ、しばらく口の中で味わった。
「良いですね。香りには驚きましたが、これは食が進みます」
「ですよね!」
「ミリアナさん。使った材料と作り方を、あとで書いていただけますか?」
「えっ、調理法ですか?」
「ええ。ほかの寮生達も、何を作っていたのかずいぶん気にしていましたから。わたくしも、もう一度作ってみたいですし」
調理法の出所を探られるのは困る。調理法を渡す前に、この騒ぎへの対処についてルッシェリーナに相談しておくべきだろう。そこで、寮母さんには、後日調理法の写しを渡すと約束した。
苦労して作った料理を褒められたうえ、作り方まで求められた。本当なら、試作の成功を喜んで良いはずなのに、廊下から聞こえてくる寮生達の話し声が、浮かれかけた気持ちをしぼませる。
内緒で済ませるつもりだった試作は、いつの間にか寮中を巻き込む騒動になっていた。しかも、作者さんの国の料理だと、カレフィーネにはもう知られている。
――これ、またルッシェリーナに怒られるよね。なんて言い訳しよう……。
悪魔: 〈カレー〉の煮込み香は食欲増進。
悪魔の眷属: 鍋からじゃなくて、〈電子レンジ〉から流れ出る香りですけどね。




