第65話 女皇陛下の菓子
その日の夜、私は寮の自室で、耳当て式受話器を付け、机の上へ白紙を広げていた。
書き込むのは、『風渡りの行商人』の翻案ではない。セルヴィンの成人祝いで出す料理の候補だ。
第二部は、大きな問題をおおよそ洗い出し終え、約束した期限までまだ余裕がある。賭博場の取材を保留にした分、今は異世界料理の再現へ力を注いでも良いだろう。
異世界の物語には、聞いているだけでお腹が空くような食べ物が山ほど登場する。名前だけでは味も形も想像できず、どんな料理なのか、ずっと気になっていたものも多い。
神殿で暮らしていた頃も、家政婦さんに厨房を借りて幾つか試した。けれど、薪と練炭のかまどでは火加減の調節が難しい。それ以上に、田舎では見た事もない材料を集める手段がなかった。
その点、皇都には国内外から食材が集まる。寮の共同厨房には電気焜炉があり、ネマリエさんの店には、火力を細かく調節できる焜炉と立派な焼成炉、冷蔵設備まで揃っていた。継譚商会から給料も入るようになり、材料代にも少しは余裕がある。
――おお、今の私なら、あれもこれも作れるのでは!
思い付く名前を書き並べようとして、筆記具を止めた。
先日は、ネマリエさんの厨房を見た興奮のままに、異世界の言葉で〈スポンジケーキ〉と口走ってしまった。幸い、ネマリエさんは母から聞いたのだと思ってくれたが、次も同じようにごまかせるとは限らない。
しかも、厨房で一緒に作業するなら、その場でエリに尋ねる事はできない。作り方だけでなく、何を知っているふりをして、何を知らないふりをするのか。事前に決めておく必要がある。
――でも、先にお祝い自体が開けそうか、確かめておこう。
「エリ、ディアネリス教授は、セルヴィンの贈字者を引き受けてくれると思う?」
『ディアネリスは学生との交流を重視。過去にも贈字者を務めた経験があり、突発の急用がなければ、受諾の可能性大』
「じゃあ、献立の候補くらいは考えておいても良さそうだね」
白紙の上へ「セルヴィンの成人祝いの料理案」と表題を書き、改めてネマリエさんの事を考える。
先日、ネマリエさんが教えてくれたのは、先代の女皇陛下から幾つかの調理法を教わった事だけだ。〈スポンジケーキ〉の名前を知っていたからといって、ほかにどの菓子を知っているのか、どうやってその名前を知ったのかまでは、私は聞いていない。
「ネマリエさんは、異世界のお菓子について、どこまで知っているの?」
『ネマリエは、先代女皇から渡された菓子の調理法をもとに、多数の菓子を再現している』
「その調理法に、異世界の名前が書いてあったの?」
『調理法に名称は未記載。女皇が口にした菓子名として記憶』
「ネマリエさんは、それらのお菓子の由来をどこまで知っているのかな?」
『女皇は入手元を説明せず。ネマリエは、女皇が以前どこかで食した菓子だと認識していたと推定』
つまり、ネマリエさんは、女皇陛下から異世界の菓子名を聞いているが、それが異世界のものだとは知らないようだ。
「ネマリエさんが異世界語での名前を知っているお菓子を教えて」
『〈ドーナツ〉、〈カステラ〉、〈クレープ〉、〈アップルパイ〉――』
「ちょっと待って。それ、どれも異世界での名前だけど、菓子自体は全部普通に売っているよね」
皇国では、米の菓子だけでなく、小麦粉や卵、砂糖を使う菓子も広く親しまれてきた。今挙げられたものは、異世界ではその名で呼ばれているものの、菓子そのものは皇国にもすでに定着している。女皇陛下は、そんな菓子の異世界での名前も、ネマリエさんに伝えていたようだ。
――女皇陛下、賢者の石の事は隠していたのだろうに、お菓子の名前はこんなにたくさん教えちゃったの?!それに、ネマリエさんが知っている名前は多すぎるよ。もっと条件を絞らないと切りがないね。
「皇都の普通の菓子店では売られていないような、あまり知られていないお菓子に絞って、教えてくれる?」
『〈シュークリーム〉、〈マカロン〉、〈ミルフィーユ〉――』
エリは、聞き慣れない異世界のお菓子名をいくつか挙げて、最後に〈ショートケーキ〉を加えた。
『〈ショートケーキ〉も、冷蔵設備を持つ高級菓子店以外ではほとんど普及していない』
「これでもまだ多いね。〈マカロン〉って、どんなお菓子だっけ?なんか名前は聞いた事がある気はするけど……」
『扁桃と砂糖を主材料とした軽い生地で、甘い乳脂などを挟む菓子』
「うわぁ、絶対おいしいやつだ。ネマリエさんは、それ全部作れるの?」
『いずれも作成の実績あり』
名前を知った経緯はわかった。けれど、ネマリエさんはどうやってそれだけの菓子を作れるようになったのだろうか。
賢者の石の前の持ち主を詮索するつもりはない。女皇陛下がどこから菓子の知識を得たのかには触れず、ネマリエさんが今どんな菓子を作れ、母がどこまでその作り方を知っていたかだけを尋ねてみよう。
「調理法を渡されて、ネマリエさんはどうしたのかな?お菓子を作れるようになるまでの事を教えて?」
エリによると、女皇陛下から渡された調理法の紙には、材料の量と作る手順は詳細に書かれていた。けれど、完成品については、焼き上がりの形や大きさ、硬さ、色、味わいなどが、ざっくりとした表現で記されていただけらしい。
それでも、初めに渡されたのは、材料を混ぜて形を整え、焼き上げる〈クッキー〉のような、比較的簡単な菓子だった。ネマリエさんは、書かれた手順から炉の癖に応じた火加減などを調整し、何度か作り直して差し出した。
女皇陛下はその出来栄えをたいそう喜ばれ、また別のお菓子を頼まれたという。
そうして成功を重ねるうちに、ネマリエさんの菓子作りの腕は磨かれ、女皇陛下から寄せられる期待も大きくなっていった。それに合わせるように、渡される調理法も、次第に手間のかかる複雑な菓子へと変わっていったようだ。
――最初から、無茶なお願いばかりされていたわけじゃないんだ。
でも、完成形に関する説明の曖昧さは、菓子が難しくなっても変わらなかったらしい。
「わからない所は、女皇陛下に聞かなかったの?」
『ネマリエの質問に対して、女皇の主な回答は「私もよくわからないわ。おいしければ良いのよ」』
「それで作れって言われたの?!」
『「うまくできたら、私にも食べさせてね」と依頼』
そんなあんまりな頼みにも応え、女皇陛下が満足する菓子へ仕上げてみせたネマリエさんには、感心するほかなかった。
中でも最も苦労したのは、棒へ薄い生地を掛け、回しながら何層にも焼き重ねる〈バウムクーヘン〉だった。道具と焼き方を工夫しながら何度も試作し、1か月以上かけて納得できる味と形に仕上げたそうだ。
――ネマリエさん、最後まで諦めなかったんだ……。
あの柔らかな笑顔の内に、そこまでの粘り強さがあるとは思わなかった。
その後も、母が菓子作りへどこまで関わっていたのか、作り方が今どう伝わっているのかを、順に尋ねていった。
母は寝具の世話をする担当で、菓子作りには関わっていなかった。それでも、侍女達は試作品を度々味見したため、菓子の名前と大まかな作り方は知っていた。
母は自分で卵乳羹を作り、幼い私に食べさせていたという。私の記憶には残っていない。それでも、その情景を思い描くと、胸の奥がかすかに温かくなった。山頂殿の家政婦さんが母から作り方を受け継いだのは、女皇陛下に献上されていたものと同じ、焦糖の掛かった卵乳羹だったのだ。
女皇陛下の菓子は門外不出にされていたわけではない。皇国語の名前が与えられ、皇城の中では他の料理人達にも広まっていた。そして、崩御後の約20年の間に、皇城で作り方を知った者や、その者から教わった菓子職人の手で、少しずつ外にも伝わっている。
けれど、気泡焼菓のように手間や設備を要する菓子は、今でも一部の菓子店でしか作られず、高価なものも多い。
ネマリエさんは、それらの菓子を店で少しずつ出しているらしい。材料の値段や作る手間によって、毎日同じものが並ぶわけではないが、通っていれば、いずれは食べられるだろう。
――あれだけの設備を厨房に設置したのも、納得の経歴だね。異世界の菓子については、私よりネマリエさんの方が、ずっと詳しいと思っておこう。
セルヴィンのお祝いに出すお菓子は、ネマリエさんにお願いしてみよう。きっと引き受けてもらえると思うし、私が半端な知識で口を出すより、作り慣れた人に任せる方が、おいしくて見栄えのする品になる。
それに、母から伝えられたと説明できる異世界の菓子名は、山頂殿で食べた〈プリン〉と、先日口走った〈スポンジケーキ〉くらいにした方が安全だろう。
――もしネマリエさんが、異世界のお菓子の名前を口に出しても、反応しないように気をつけなきゃね。
悪魔: ネマリエは、女皇の身の回り担当の上級侍女。女皇の晩年は、家政婦長なのに夜食も担当。
悪魔の眷属: できる人に、仕事が集まってしまうのは世の常ですね。




