第54話 喫茶店の奥
話がまとまったところで、甘い香りが漂ってきた。店の奥から、ネマリエさんがお盆を手に戻ってくる。
卓へ並べられたのは、上から見ると丸く、横から見ると小さな台形を逆さにしたような卵乳羹だった。皇都の店でよく見かける、容器に入ったまま供される卵乳羹とは違い、皿の上へ取り出されていて、淡い黄色の表面を、つややかな焦糖がゆっくりと流れ落ちている。
「雨の中を来てくれたお礼に、これは私からの無料提供よ。どうぞ食べてちょうだい」
「わぁ、ありがとうございます。可愛らしい卵乳羹ですねぇ」
カレフィーネが匙を入れると、柔らかな表面がぷるりと揺れた。
「これはね、昔、私が皇城に勤めていた時に、先代の女皇陛下が好んでお召し上がりになったお菓子なの。お夜食は侍女が作る事もあったから、調理法を幾つか教えていただいているのよ」
「わたくしも、以前のお茶会で同じ形のものをいただいた事があります。そのような由来の品だったのですね」
「うわぁ、ひんやりしていて、甘くておいしい!」
口へ入れた卵乳羹は舌の上で滑らかにほどけた。卵と乳の優しい甘さを、焦糖のほろ苦さが追いかけてくる。
――そういえば、母から聞いたという調理法で作ってもらった卵乳羹も、こんな形だったね。
幼い頃の夏至祭りに、山頂殿の家政婦さんが作ってくれた。井戸水で冷やした器を、大事そうに運んでいた姿を覚えている。
電気焜炉も冷蔵設備もない山の上で用意するのは、さぞ大変だっただろう。あの時は夢中で食べるばかりで、そんな苦労など考えもしなかった。
「この季節に、これほど冷たいお菓子を出せるなんて……。もしかして、この店には冷蔵設備があるのですか?」
顔を上げると、セルヴィンだけは器よりも店の奥へ熱い視線を向けていた。
「うふふ。調理場には、うんと贅沢をさせてもらったのよ。この年齢でお金を余らせておいても仕方がないでしょう。良かったら、ご覧になる?」
「ぜひ!」
勢い良く立ち上がったセルヴィンを1人で行かせるのは少し心配だ。私達も残りを急いで食べ、ネマリエさんの後について店の奥へ向かった。
扉の向こうへ一歩入った途端、思わず足が止まる。
客席の可憐な雰囲気とは打って変わり、調理場は磨き上げられた金属と白い陶板で埋め尽くされていた。壁際には、火力を細かく調節できる電気焜炉と、私の腰ほどもある大型の焼成炉が並んでいる。その向かいには背の高い冷蔵庫が鎮座し、隣の製氷機からは、氷の触れ合う涼しげな音が聞こえた。
頑丈そうな調理台の上には、大小の鍋や焼き型が整然と並ぶ。天井には明るい電灯が幾つも取り付けられ、隅には湯と水を使い分けられる流しまであった。どの設備も手入れが行き届き、銀色の表面で電灯の光を眩しいほど反射している。
小さな喫茶店の裏側ではなく、大きな料理店か高級宿の調理場へ迷い込んだようだった。
「おお、凄い!」
「うわぁ、凄い!」
セルヴィンと声がぴたりと重なった。思わず顔を見合わせた後、2人でもう一度、目の前の設備を見渡す。
――こんな調理場で料理ができたら楽しいだろうな。ここなら、異世界の料理だって色々作れちゃいそう。
異世界の物語には魅力的な料理や菓子がたくさん登場する。でも味や香りは、言葉から想像するだけではわからない。
田舎育ちの私は、小さな頃から家政婦さんの料理も手伝っていた。どうしても味を知りたくなったものは、エリから作り方を教えてもらい、自分で再現してみた。
〈フレンチトースト〉はうまくできた。神官のじいちゃんも、目を丸くして絶賛してくれた。
けれど、〈スポンジケーキ〉は散々だった。何度試しても膨らまない。表面が焦げたと思えば、中はどろりと生焼けのまま。火加減を変え、材料を量り直し、腕が痛くなるほど卵を泡立てても成功せず、最後にはエリからも『現在の設備では安定した再現が困難』と見放されてしまった。
この焼成炉なら、温度を一定に保ったまま焼ける。ここまで立派な道具と広い調理台があれば、あの失敗続きだった菓子にも手が届くかもしれない。
「ここなら、〈スポンジケーキ〉が作れるかも……」
期待がそのまま口から漏れると、ネマリエさんが驚いた顔でこちらを見ている。その表情に、はっとした。
――しまった。今、異世界の名前を……。
「まあ。エーゼリナったら、山の上でも『気泡焼菓』の話をしていたのね。本当にあの子ったら、母になっても食いしん坊は治らなかったみたい」
「ええっとぉ、気泡焼菓って聞いた事がないんですが、どんなお料理なんでしょう?」
カレフィーネが首を傾げる。その隣で、私は内心の焦りを隠すように、曖昧な笑みを浮かべた。
「気泡焼菓は、先代の女皇陛下がお召し上がりになっていたお菓子の一つで、陛下は『スポンジケーキ』とも呼んでいたわ。焼き菓子なのに、とても柔らかくて、しっとりしているの。そのままでもおいしいけれど、泡立てた甘い乳脂を塗って、果物で飾ると、見た目も華やかになるのよ。ミリアナちゃんのお母さんは大好きでね。ご褒美として陛下からいただいた時には、それはもう大事そうに、少しずつ食べていたわ」
――危っぶな〜。言葉には気を付けないと!まさか、異世界語の〈スポンジケーキ〉を知っているとは思わなかったよ。
ネマリエさんが私の知識を母に結び付けてくれなければ、どうして私が名前を知っているのか、怪しまれるところだった。
胸の内で安堵していると、セルヴィンが深く納得したように頷いた。
「なるほど。ミリアナは母親に似たんだな。納得したよ」
「ちょっと!何を納得したのよ」
セルヴィンは笑うだけで答えない。
――いや、待って。私、セルヴィンの前でそんなに食い意地を張っていたっけ?いなかったよね?ね?
悪魔: ミリアナの場合、態度で隠そうとしても、表情が食いしん坊ぶりを雄弁に語る。
悪魔の眷属: お読みいただき、ありがとうございます。引き続き応援をよろしくお願いします。




