第51話 紙面に宿る夢
絵師を決めてから4日後の夕方。窓の外が茜色に染まる中、私は自室の机いっぱいに広げた紙面を、もう何度目かわからないほど眺めていた。
産業日報社から届いた『風渡りの行商人』第1話の校正刷だ。私が原稿用紙へ書いた文章は、新聞と同じ細かな活字で縦に整えられ、その間に挿絵が収められている。
紙面の中央を、外套姿の女性が愛犬と愛馬を連れて歩いていた。
風に押される草の穂。遠くまで続く街道。主人公の外套は今にも音を立てて翻りそうで、雲間から差す光が旅の先を指し示している。使われているのは黒一色なのに、見つめていると草原の色や風の匂いまで感じられた。
――これだ。これが、私のずっと聴いてきた物語の景色だ。
異世界で出版されている本にどんな絵が描かれているのか、私は見る事ができない。それでも、私の中にあった『風渡りの行商人』の世界が、そのまま紙の上へ現れたように思えた。
問題の絵師は、やはり第一部の原稿を全て読むまで絵を描かないと言い出したらしい。
ルッシェリーナが「締切に間に合うのであれば、どうぞご自由に」と答えたところ、絵師は新聞社から原稿を借り受け、丸一日部屋に籠もった。そして翌朝には、目の下へひどい隈を作りながら完成した絵を持ち込んできたという。
エリに尋ねると、通しで読んだ後も、挿絵に関係する場面を何度も読み直していたそうだ。徹夜で完成させた絵を提出してからも、主人公の旅装に矛盾がないか確かめるため、原稿をもう一度貸してほしいと頼んでいたらしい。
――問題になるのも納得のこだわりだね……。
ただし、ルッシェリーナは相手の要求を聞いた上で、締切や契約の範囲で応じたそうだ。絵師の方も、作品について話が通じる相手だとわかったのか、作者との面会を求める事もなく、素直に指示へ従ったという。
心配していたより、2人の相性は悪くなかったようで一安心だった。
指先で紙面をなぞると、まだ新しい墨液の匂いがした。
表題の下には、作者名である『星乃とどき』がはっきりと印刷されている。自分が鉛筆で書いた原稿用紙の上ではなく、読者へ届けられる紙面の中に、その名前がある。
第1話の終わりには、次回の掲載日を知らせる一文が添えられていた。その日付を目で追うだけで、胸の奥がむずむずしてくる。
産業日報社は、皇国では準大手に位置づけられる新聞社だ。皇国の列島だけでなく、南方自治邦で発行される現地版まで含めれば、10万部に近い発行部数がある。
今度の日曜日、この校正刷をもとに印刷された別紙が、数万の家庭や商会、工場、食堂へ配達される。それを手にした人達が一斉に『風渡りの行商人』の第1話を読むのだ。
7月からは本紙の日曜版にまとまった連載枠を設けるが、それまでは紙面構成を変えられないため、先行掲載は別紙にするそうだ。
別紙なら、商会や食堂で誰かが本紙を読んでいても、物語だけを別の人が手に取れる。普段は仕事に必要な記事しか読まない人も、表題や挿絵に目を留めるかもしれない。そうして物語を知った人に、自宅でも続きを読みたいと思ってもらい、7月からの家庭での購読につなげたいのだろうと、ルッシェリーナは予想していた。
新聞社はこの先行掲載へ、ずいぶん力を入れている。
通常の原稿料は月ごとの後払いだが、先行掲載分だけは契約と同時に支払う。その代わり、後から新聞の購読を申し込んだ家庭にも、それまでに配った分の別紙を届けられるようにしたい。そう求められ、継譚商会は了承した。
断る理由などなかった。これから物語を読み始める人にも、きちんと最初から楽しんでほしい。
そして今日、セルヴィンから、原稿料が商会の口座へ入ったという報告を受けた。
――私が皇国向けに書き直した物語で、お金をもらえたんだ。
何度考えても、まだ信じられない。
私は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
カレフィーネへ夢を打ち明けた時には、こんな光景を本当に見られるとは思っていなかった。異世界の物語を皇国へ広めたいと願いながら、自分一人で新聞社へ原稿を持ち込む勇気さえなかったのだ。
カレフィーネが背中を押してくれなければ、ルッシェリーナへ原稿を見せる事も、セルヴィンを計画へ誘う事もできなかった。
ルッシェリーナがいなければ、異世界にいる作者の素性を隠したまま、新聞社と契約を結ぶ方法など思い付かなかった。
セルヴィンがいなければ、学生新興商会を立ち上げ、原稿料を受け取り、これから先も物語を届け続ける仕組みを作る事はできなかった。
平凡な私が壮大な夢の第一歩を踏み出せたのは、間違いなく皆のおかげだ。
――よく打ち明けた、あの時の私!
私は机の上の校正刷を汚さないよう端へ寄せた。続いて、引き出しから耳当て式受話器を取り出して頭にかけ、左側の穴へ指を入れて賢者の石に触れる。
賢者の石がなければ、そもそも『風渡りの行商人』と出会う事さえなかった。この喜びを一番分かち合いたい相手は、悪魔だ。
「エリ、これって夢じゃないよね?」
『ミリアナの意識は正常。覚醒状態と認められる』
「そうなんだけど、簡単には信じられないよ。今度の日曜日には、これが数万の家庭に届けられるんだよ。本当なのかな?」
『ミリアナ達の努力による成果。『風渡りの行商人』の実力を考慮すれば、当然の結果』
石から聞こえてくる返事は、いつもどおり淡々としている。
――でも、向こうの世界では、エリもきっと私と同じくらい大喜びしているよね!
悪魔: 皇国では、一般的な文章は縦書きが主流。ただし、近代化に伴い左横書きも普及。書字習慣は昭和初期の日本に近い。
悪魔の眷属: 作者は評価や本栞、共感に深く感謝しています。今後も応援をよろしくお願いします。




