第41話 母に見せたい姿
料亭の個室で、私はようやく目の前の茶器へ手を伸ばした。
向かいに座るアルゼインさんの表情は、先ほどよりも柔らかい。セルヴィンの推薦を後押しするという役目は、少しは果たせた気がする。
茶を一口飲んだところで、アルゼインさんが再び口を開いた。
「ちなみに、セルヴィンとあなたが交際しているという噂も聞いたのだけれど?」
「ああ、それは完全に誤解です」
私は反射的に顔の前で両手を振った。
「用事で何度か一緒に行動したので、そんな風に勘違いした人がいたのかもしれません。ただの同僚ですよ。まあ、友人と呼んでも差し支えないくらいには、親しく交流していると思いますけど」
アルゼインさんは興味深そうに私を見つめた。
「……あなた、良いわね」
「ありがとうございます?」
何を褒められたのかわからず、首を傾げる。
ちょうどそこで扉が開き、店員が料理を運んできた。
アルゼインさんは店員が退出するのを待ってから、再び口を開いた。
「あなた達が作る商会は出版を行うのよね。どうして学生のうちから、そんな事を始めようと思ったの?」
「私の夢というか、欲望というか……もっともっと物語を読みたいと思ったからです」
「物語?」
「はい。この世界には、物語が足りていないんです」
その言葉を口にした途端、緊張で縮こまっていた気持ちが少しだけほどけた。
「私の夢は、読んでも読んでも、次々と新しい物語が生まれてくる世の中にする事です。今の皇国には、本を作って大勢へ届けるための技術も制度もあります。それなのに、大人が長く楽しめる物語を作り、出版しようとする人はほとんどいません。それが我慢できないんです。誰かが始めるのを待っていたら、何年先になるかわかりません。だから少しでも早く変えるために、自分達で商会を作る事にしました」
アルゼインさんは、少し驚いたように私を見つめていた。
「けれど、出版する物語はどうやって手に入れるの?」
「ちょっとした伝がありまして……。申し訳ありませんが、物語の入手方法は秘密なんです」
探るような視線を正面から受け止めると、アルゼインさんは追及せずに箸を取った。
「商会として守らなければならない秘密もあるでしょうし、今はそれで良いわ。それにしても、ずいぶんと大きな夢ね」
「はい。自分でも、本当に実現できるのか、全然自信はありません」
以前なら、そこで終わっていたかもしれない。
けれど今は、昨夜聞いたエリの言葉が胸の中に残っている。
「でも、亡くなった母が見たかっただろう私になりたいと思ったんです。母が、私を生んで良かったと喜んでくれるくらいには、精一杯、自分の夢へ向かって進みたい。すぐに実現できなくても、今の自分にできる事を、一歩ずつ続けていこうと思っています」
アルゼインさんの手が止まった。
「そういえば、お母様は、あなたが幼い頃に亡くなっていたのよね」
「はい。昨日、ちょうど母の昔の知り合いから、母が私を産んだ頃の話を聞いたばかりなんです。母は、私が成長するところを見守りたがっていたそうです」
熱くなった目をごまかすように料理へ視線を落とすと、アルゼインさんは静かに待ってくれた。
「だから、今からでも母に見せたいんです。私は元気に育って、信頼できる友人もできて、自分の夢に向かって進んでいるんだって」
しばらくして顔を上げると、アルゼインさんは先ほどまでの厳しさが嘘のような、優しい目で私を見つめていた。
「……きっと、お母様はもう十分に喜んでいらっしゃるわ」
「そうでしょうか」
「ええ。母親というものは、我が子が何を成し遂げたかだけを見ているわけではないもの」
その声音には、不思議なほどの実感が込められていた。
アルゼインさんはそれ以上続けず、傍らの鞄から懐中時計を取り出した。
「あら、もうこんな時間なのね」
時計を見てわずかに目を見開くと、慌ただしく席を立った。
「ごめんなさい。列車の時間があるから、私は先にお暇するわ。あなたは、ゆっくり食事を楽しんでいって」
「えっ、でも、まだほとんど召し上がっていませんよ」
「支払いは済ませておくから、心配はいらないわ」
アルゼインさんは椅子の脇に置いていた鞄を手に取り、私へ向き直った。
「ミリアナさん、ありがとう。今日はあなたと話せて、本当に良かった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
慌てて立ち上がり、こぶしを胸へあてる。
扉へ手を掛けたアルゼインさんは、そこで一度足を止めた。
「私は、あなた達がうまくいくよう応援しているわ」
「ありがとうございます」
アルゼインさんは優しく微笑むと、扉の向こうへ姿を消した。廊下を進む足音が遠ざかり、私は個室に一人で取り残された。
――なんだかよくわからないけど、あの雰囲気なら、セルヴィンの推薦状は大丈夫だよね?
席へ戻ると、ほとんど手つかずのアルゼインさんの料理に加え、焼き物や煮物、揚げ物が2人分ずつ運ばれてくる。その量に目を疑いながら口にした魚は、驚くほど柔らかく上品な出汁が利いていた。
――美味しい。凄く美味しいけど、こんな量は食べられないよ!でも、残すのももったいないし!
夢や母への思いを語っていた時とは全く別の覚悟を決め、私は箸を握り直した。
悪魔: 高級料亭で突然の孤食……少しだけ同情。
悪魔の眷属: 今回から毎日投稿に変更しています。作者は評価や本栞、共感に深く感謝しています。今後も応援をよろしくお願いします。




