第39話 母の願い
翌朝、私はカレフィーネ、ルッシェリーナと3人で朝食を取った。
食事の合間にそれとなく月曜日の朝の予定を尋ねると、2人とも講義へ出るという。セルヴィンも同じ時間には学園にいるらしい。
――良かった。少なくとも、継譚商会の仲間が銀行強盗に巻き込まれる心配はなさそうだね。
学園の講義が始まる時刻を考えれば、ほかの学生達も事件へ巻き込まれる可能性は低いだろう。
「月曜日に、何か予定がありますの?」
ルッシェリーナが不思議そうに尋ねてきた。
まだ起きていない事件の事など話せない。私は用意していた答えを口にする。
「原稿が仕上がっていたら、二人に確認をお願いしようと思っていたんだ」
「もうすぐ読めるの?」
カレフィーネが期待に満ちた目を向けてくる。
「うん。この土日で仕上げるつもりだよ」
そう答えると、カレフィーネは嬉しそうに笑った。
朝食後、新聞社へ向かうルッシェリーナや、家庭教師先へ向かうカレフィーネと別れ、私は寮の部屋へ戻った。
扉を閉めるなり胸元の首飾りへ触れ、昨夜送った電報がどう扱われているのかをエリへ尋ねる。
『治安局は悪戯の可能性を高く見積もる一方、内容の具体性から最低限の警戒を決定。銀行と都電の責任者へ連絡し、当日は少数の私服局員の配置と周辺巡回の経路調整を予定。銀行は警備担当者が対応を協議中』
「完全に無視されていないなら、大丈夫かな。あとは全部任せて良いよね。私はもう気にしない事にするよ」
治安局も銀行も動き始めている。どのみち、これ以上私にできる事はない。
――心配したところで、私の胃が痛くなるだけだもんね。
月曜日の朝まではまだ時間があるけれど、銀行強盗の事はいったん忘れる事にした。
老婦人との約束は午後だ。
皇都内とはいえ、土地勘のない場所まで出かける。道に迷っても慌てずに済むよう、余裕を持って出発した方が良いだろう。
普段の外出では、学生服を着る事が多い。皇立高等学園の制服は身分証明代わりになり、店へ入っても警戒されにくいので便利なのだ。
けれど、今日は買い物ではなく個人的な客として招かれている。学生服よりも私服の方が良さそうだ。
数少ない外出着の中から、失礼にならない程度に落ち着いた色の服を選ぶ。先日の里帰りで持ち帰った母宛ての手紙や弔電、葬儀の参列者名簿を小さな手提げ鞄へ収め、それとは別に、用意しておいた手土産を風呂敷で包んだ。
寮を出る前に服の上から首飾りを押さえ、念のため確認する。
「エリ、探偵さんはまだ私を監視している?」
『監視は終了。現在は依頼人への報告を取りまとめ中』
尾行されるのを覚悟していたけれど、どうやらその心配もなくなったようだ。
都電を乗り継ぎ、皇城の東側に広がる住宅街へ向かう。
この辺りには貴族家を含めた上流階級の者が多く暮らしているらしく、車窓からは、高い塀に囲まれた大きな屋敷がいくつも見えた。手入れされた庭園の木々が塀の向こうから枝を伸ばし、色鮮やかな花を咲かせている。
停留所で都電を降り、持ってきた地図を広げた。教えられた店までは、ここからさらに20分ほど歩くらしい。
見慣れない街並みの中を進みながら、私が知っている母の事を思い返す。
母は、私が2歳になる前に亡くなった。手元には写真も残っておらず、その面影は私の記憶にない。
じいちゃんも、母が山の上の神殿へ来る前の事はほとんど知らなかったようだ。怪我をして仕事を辞めた母が、神殿で療養しながら私を大切に育ててくれた頃の話なら、何度も聞かせてくれた。
それより前の母について、私が知っている事はあまりにも少ない。
エリに尋ねれば、皇城で働いていた頃の母についても、きっと詳しく教えてもらえる。それでも尋ねる事を避けてきたのは、幼い頃に受けた忠告を守るためだ。
あれは、エリと話せるようになって間もない頃だったと思う。
「エリは、ずっとずっと友達でいてくれるよね?いなくなったりしないよね?」
『ミリアナが賢者の石の持ち主でいる限り、交流は継続可能』
「じゃあ、私が石を捨てなければ大丈夫って事?」
『賢者の石を求める者が大勢いる。奪われないための対応が必要』
「えっ。じゃあ、どうすれば良いの?」
『賢者の石の所持を、誰にも言わないのが一番確実』
「じいちゃんにも言っちゃ駄目?」
『例外はない』
じいちゃんにも秘密にする。
幼い私にとって、それはとても重い決断だった。それでも、エリとずっと一緒にいるため、誰にも石の事を話さないと決めた。
「……わかった。じゃあ、誰にも言わない!そうすれば、ずっと一緒にいられるの?」
『……以前の賢者の石の所持者について、詮索しない事も推奨』
「前の持ち主って、お母さんの事?」
『ミリアナの母エーゼリナは、賢者の石を認識していないため対象外』
「それじゃあ、お母さんが誰からもらったのかを聞かなければ良いの?」
『賢者の石の前回利用者が対象。その人物に対する調査が危険』
当時の私は意味をよく理解できないまま、エリの忠告へ素直に従った。
けれど、今ならエリが何を心配していたのか、ある程度は予想できる。
母が皇城で侍女として働いていた事。先代の女皇陛下が成し遂げた、異世界を彷彿とさせる数々の改革や技術革新。その二つを結び付ければ、以前の賢者の石の所持者が誰だったのかは、おのずと想像がつく。
そして、女皇陛下の死後に起きた出来事を考えれば、その秘密を知る事がどれほど危険なのかも。
これから会う老婦人は、皇城で働いていた母の同僚だ。話を聞くうちに、知らない方が良い事へ近づいてしまう可能性もある。
そう考えると、足取りが少し重くなった。
それでも、自分の知らない母を知りたいという思いは消えなかった。
教えられた店は、大きな屋敷が並ぶ区画を抜け、品の良い一軒家が立ち並ぶ住宅街の一角にあった。
店先にはいくつもの植木鉢が並び、赤や黄色の小さな花を咲かせている。閉店中の札が掛かった扉を押し開けると、澄んだ鈴の音が鳴った。
中にあったのは、白い卓布が掛けられた小さな卓二つと、丸椅子の置かれた接客台だけだった。飾り棚には花柄の茶器が並び、窓から差し込む柔らかな光が、清楚な店内を明るく照らしている。
「あら、いらっしゃい。よく来てくれたわね」
奥から姿を見せた老婦人が、ふんわりと笑った。
歓迎の言葉に少しだけ緊張がほどける。私は用意してきた手土産を渡し、勧められた卓を挟んで老婦人と向かい合い、腰を下ろした。
老婦人は、用意してあった急須から茶を注ぎ、焼き菓子とともに卓へ並べてくれた。ほのかな甘い香りをまとった湯気が、二人の間をゆっくりと立ち昇る。
出されたのは、薄く焼き上げた生地となめらかな餡を幾層にも重ねた、見慣れない菓子だった。一口かじると、生地がぱりぱりと小気味よく砕け、柔らかな甘みが口の中に広がった。
「そういえば、先日はお名前を伺わないまま別れてしまって……」
私が切り出すと、老婦人は今さら気づいたように目を丸くした。
「まあ、本当ね。すっかり名乗ったつもりでいたわ。ネマリエよ。あらためて、よろしくね」
「ミリアナです。こちらこそ、よろしくお願いします」
互いに名乗り直すと、先ほどまで残っていたよそよそしさが、少しだけ薄れたように感じられた。
茶を飲んで落ち着いてから、持ってきた母の遺品を手提げ鞄から取り出した。
ネマリエさんは、母に届いた手紙や弔電を一つずつ手に取り、懐かしそうに眺めた。葬儀の参列者名簿へ目を通した時には、知り合いの名前を見つけ「参列できたのね」と小さく目を細めていた。
それから、母エーゼリナが侍女として働き始めた当時の思い出を、いくつか語ってくれた。
母は侍女達の中で一番若く、先代の女皇陛下からも可愛がられていたらしい。ネマリエさんの話に出てくる女皇陛下は、私が歴史の講義で教わった姿とは少し違っていた。
侍女達と言葉を交わす時にはよく笑い、時には仕事の失敗を冗談にして慰める、優しく穏やかな人だったという。
私は初めて知る母の姿を、何一つ聞き漏らすまいと耳を傾けた。
しばらく話した後、ネマリエさんがふと口を閉ざした。
茶器を置き、ためらうように指を組んでから、私の顔をじっと見つめる。
「ミリアナちゃんにとって、少し辛いお話になるかもしれないけれど……あなたが生まれた時の話を聞いてくださる?」
胸が大きく跳ねた。
怖くないといえば嘘になる。それでも、ここへ来ると決めた時から、覚悟はしていた。
「はい。お願いします」
ネマリエさんは静かに頷くと、視線を手元の茶器へ落とし、ゆっくりと話し始めた。
「先代女皇陛下のお隠れになった後に起きた軍事政変の事は、ご存知よね。あまり知られていないけれど、皇城も襲撃を受けたの。数人の同僚が事件に巻き込まれて亡くなったわ。あなたのお母さんも、その時に大怪我を負ったのよ」
初めて聞く話だった。
軍事政変が起きたのは一部の軍事拠点で、その日のうちにほぼ鎮圧された。講義ではそう教わっていた。皇都やその周辺でも争乱があったのは知っているが、皇城に襲撃があり、亡くなった者までいたという話は聞いた事がない。
「刃物で刺された傷が内臓にまで達して、一晩、意識が戻らなかったの。意識を取り戻した後も予断を許さない状態で、酷い苦痛が続いたのだと思うわ。病床のエーゼリナは、心まで折れかけているように見えて……私達も心配していた」
その声がわずかに震えた。
私は膝の上で両手を握り、黙って続きを待つ。
「あなたが彼女のお腹に宿っているとわかったのは、そんな時だったわ」
自分でも気づかないうちに、握った指へ強く力が入っていた。
ネマリエさんは一度大きく息を吐くと、私の顔を見つめた。
「あなたは、自分のお父様について何か聞いているかしら?」
私は何も言わず、ゆっくりと首を横へ振った。
父について、何も聞いた事はない。エリからも聞いていない。
尋ねようとした事がないわけではなかった。まだ幼かった頃、一度だけエリに聞いた事がある。
「お母さんは、私にお父さんの事を知ってほしいかな?」
その時のエリは、はっきりと言い切った。
『エーゼリナは、ミリアナが成人するまで、父親について知らせない意向だった』
「じゃあ、今はエリにも聞かない方が良いのかな?」
『エーゼリナの意思を尊重するなら、その判断が適切』
当時の私は、母がそう望んだのなら、きっと何か理由があるのだと思った。
だから、成人するまでは父について尋ねないと決めた。エリに聞けば答えを得られると知りながら、今日まで一度も尋ねていない。
母が望んだ期限までは、まだ2年近く残っている。
「妊娠を知らされたエーゼリナは、医術師にこう言ったの。『お願い、私に抱かせて……あの人の、あの人の子供を』って」
ネマリエさんの目に涙が浮かんだ。
「私達も、あなたのお父様が誰なのかは知らない。でも、エーゼリナがその方を深く愛していたのは、間違いないと思うわ」
その言葉をどう受け止めれば良いのか、すぐにはわからなかった。
ただ、手のひらへ爪が食い込むほど強く握っていた指を、ゆっくりとほどいた。
ネマリエさんへ別れを告げてからも、母の話は胸の奥へ重く沈んだままだった。
都電へ乗り、見慣れた街並みを通り過ぎても、周囲の話し声や車輪の音がどこか遠くに聞こえる。
母が負った傷。生死をさまよった夜。その身体に私が宿っていると知り、医術師へ向けて口にした言葉。何度も同じ場面を思い浮かべているうちに、気づけば学園の停留所へ着いていた。
寮の部屋へ戻り、扉を閉める。
持ち帰った遺品を机へ置き、椅子に座った。何をするでもなく、重ねた手紙や弔電を見つめる。
やがて、胸元の首飾りへ手を伸ばした。
「エリ。お母さんは、私を生んで幸せだったのかな?」
短い沈黙の後、賢者の石から声が返る。
『エーゼリナは、幼いミリアナを胸に抱き、頬を寄せて何度も微笑んでいた。そして、ミリアナの成長を見守れない事を謝罪していた』
悪魔は、人の感情を読む事はできない。
それでも、その答えだけで十分だった。母が私をどれほど大切に思い、別れなければならない事を悲しんでいたのか。成長していく私を、ずっとそばで見守りたかったのだと伝わってきた。
目の奥に滲んだ涙を拭わず、私は母の胸に抱かれ、頬を寄せられていた幼い自分を思い浮かべながら、その言葉を胸の奥へゆっくりと沈めていった。
悪魔: 歴代の所持者のうち、幸せに天寿を全うできたのは、賢者の石の所持を誰にも明かさなかった者がほとんど。
悪魔の眷属: 作者は評価や本栞、共感に深く感謝しています。今後も応援をよろしくお願いします。




