第4話 脅迫状
商印章を捜して歩き続け、もう一時間は経っただろうか。
公園の並木の下で、セルヴィンはため息を吐きながら後悔の愚痴をこぼしていた。
「あー、くそっ!なぜ俺は窓を閉めなかったんだ!」
席を外したのは、ほんの数分の事だった。
今朝は早くから商談に向けて準備を進めていた。窓を開けたのは、ひんやりとした朝の空気を部屋に入れて、眠気を追い払うためだ。
昨晩も遅くまで契約書に目を通していたせいで、睡眠は十分ではなかった。
セルヴィンの住む寮は、現在では庶民の学生も多く入っているが、もともとは貴族向けに建てられたものだ。寝室のほかに、狭いながらも書斎と衣装納戸が付いている。
一通りの準備を終え、最後に押した割印が乾くのを待つ間に、セルヴィンは納戸で着替えを済ませた。そして書斎に戻った時には、机の上に置いていたはずの商印章が消えていた。
二階の部屋だ。窓から誰かが侵入するなどまず考えていなかった。
それに商印章そのものは金銀財宝ではない。盗んだところで使い途など限られている。だから大丈夫だとたかを括っていた。
その油断が今となっては腹立たしい。
父がこの契約をセルヴィンに任せた理由はわかっている。
卒業後に官僚を経験するのではなく、父の商会に直接入る選択肢をセルヴィン自身が取りやすくするためだ。
皇立高等学園という最高学府に在籍しているとはいえ、セルヴィンはまだ学生である。
小さな頃から可愛がってくれていた古参の幹部達はともかく、急拡大した商会に最近入ってきた商会員の中には、商会長の息子というだけで贔屓されていると見る者もいるだろう。
だから父は、あえて馴染みの商会との当たり障りない契約をセルヴィンに任せたのだ。
実務を経験させるためであり、同時に周囲へ実績として示すためでもある。
渡された商印章は、商会本店のものではない。最近登録したばかりの皇都支店のものだ。仮に誰かが盗んだとしても、使い途はほとんどないだろう。
手続き上は、新しい商印章を登録し直し、限られた数の契約や届け出をやり直せば済む。
だが、それで終わりではない。
商印章を紛失した商会という噂が広まれば、信用は傷つく。
大きな損害が出るかどうか以前に、商売をする者としてあってはならない失態だ。
父の信頼を裏切るのも心苦しい。だが何より、商会の名誉に泥を塗る結果となるのは、悔やんでも悔やみきれなかった。
セルヴィンは顔を上げ、木々の枝を見回した。
最初は盗難を疑った。しかし、落ち着いて考えるとその可能性は限りなく低い。施錠された部屋、二階の窓、価値の低い商印章――、危険を冒して盗む動機を持つ者などいないだろう。
ふと窓から外を見ると、数羽の烏が木の枝にとまってじっとこちらを見ていた。公園には烏が多い。光るものを持ち去るという話も聞いた事がある。
可能性があるなら捜すしかない。そう考えて寮に隣接したこの公園まで来た。
下草を覗き、枝の間を見上げ、木の根元に落ちているものまで確かめた。
何度も服に葉くずを引っ掛け、手には擦り傷が増えている。
途中で顔見知りの下級生ともすれ違ってしまった。法学の講座で何度か同じ班になった、ミリアナという女子学生だ。
挨拶をしただけだったが、この姿を見て怯えてしまったのかすぐに立ち去っていった。
探し物をしていた事を、あまり口外しないよう頼むべきだっただろうか。いや、見つからなければ口止めも何もない。
セルヴィンは息を吐き、また別の木へ視線を移した。
烏の巣など、そう簡単に見つかるものではない。
公園は広く、木は多い。しかも枝葉の重なった高い場所ばかりだ。
もうこれ以上捜しても無駄かと、諦める気持ちがじわりと広がりかけた時だった――。
ふと前方の木の幹に、白いものが貼り付けられているのが見えた。
「……手紙?」
こんな場所に、なぜ手紙があるのか。
近づいてみると、折られた紙は木の皮に差し込まれた細い枝で留められていた。
そして、その枝には黒い羽が一枚、わざとらしいほど目立つように挟まれている。
烏の羽だ。
セルヴィンは周囲を見回した。人影はない。
朝の公園は静かで、時おり烏や小鳥の鳴き声が聞こえてくるだけだった。
怪しい気配しか感じない――。
それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
封はされていない。折り目を開くと、中にはひどく歪んだ字が並んでいた。
――
お前の大事な物は預かっている。
生塵と交換で返してやろう。
音楽堂の横の銀杏の木、下から5番目の枝にある巣まで一人で来い。
烏
――
――なんだこれは!烏からの脅迫状だって?!
だが、書かれている内容は今の状況に合いすぎている。大事な物。烏。巣。音楽堂の横の銀杏。
誰かの悪戯だとしても、商印章の行方を知っている可能性は高い。
「……行くしかないだろ、これは」
セルヴィンは手紙を握りしめ、音楽堂へ向かって走り出した。
◇ ◇ ◇
「ミリアナ〜、そろそろ出かけないと授業に遅れちゃうよ?」
「ごめん。ちょっと用事ができたので、朝一の講座には遅れちゃいそう。カレフィーネは先に行ってて」
カレフィーネを寮の部屋から送り出してから、私は扉の向こうの足音が遠ざかるのを待った。
よし、今なら大丈夫。私は服の上からそっと石を押した。
あの後私は公園から寮に取って返して、急いで手紙を書いた。
絶対に知り得ない事実はぼかしつつ、無視できないように気をつけて……。
思わず調子にのって脅迫文にしてしまったが、要点は抑えたので意図は伝わったはず。
その後、エリにセルヴィンの行動を予測してもらい、先回りして手紙を置いてきたのだ。
手紙には拾った烏の羽まで挿して、かなり目立つようにしておいたので、見落とされる事はないだろう。
「エリ、セルヴィン先輩はちゃんと手紙を読んでくれたかな?今の状況を教えて?」
『手紙は読んだ。現在は用務員から梯子を借り、音楽堂横の銀杏へ向かっている』
「おおっ、良かった。信じてくれたみたいだね」
――いや、信じたというより、怪しくても乗るしかなかったんだろうな〜。
でも結果が良ければそれで良い。こちらとしても、素性がバレるのを覚悟で手紙を書くのは、なかなか勇気のいる行動だったのだ。
私は椅子に座り直し、エリの実況を聞く体勢に入った。
「セルヴィン先輩はそろそろ巣に着いたかな?状況を逐次教えてくれる?」
『セルヴィンは梯子を銀杏の幹に掛けている。近くに烏が7羽いる』
「7羽もいるの!?」
『烏達は周囲の枝にとまり激しく威嚇』
烏も自分達の巣を守ろうと必死だ。しかしセルヴィンは怯まずに巣に向かって突き進んでいく。
『セルヴィンが右手で枝を払い、左手で巣の中を探っている』
「うわぁ、素手のまま巣の中に手を入れたの!?すごい。私には絶対に無理」
『烏達が背後から接近。セルヴィンに蹴りを入れている』
「危ない!危ない!」
『商印章を発見。布に包んで懐へ入れた』
「おおっ!やったねー!」
その後、セルヴィンは追撃する烏からなんとか逃れて、自分の寮に戻る事ができた。
髪も服もひどい事になったようだが、無事に商印章は回収したらしい。
烏は賢いので、セルヴィンは公園に近づくたびに襲われる危険があるが、まあ商印章を失うよりはずっとましだろう。
――烏の妨害にめげず、借りた梯子はちゃんと返そうねー。
やれやれ、これで一件落着である。
手紙を置くところは誰にも見られていないはずだ。字も利き手ではない左手で書いた。私が書いたと特定される恐れは少ない。
もし疑われても、烏が光るものを咥えて巣に戻るのを見たから知らせただけだと言えば、……たぶんごまかせる。
――うん、完璧。人助けをすると気分が良いね!
多少講座に遅れる事にはなったが、出席を取る授業ではないし、講義の内容はいつでもエリに補完してもらえるので問題はない。
私は晴れやかな気持ちで教科書を鞄に詰め、授業へ向かう事にした。
私が手紙を持って公園を走っていた姿を、公園掃除のおじちゃんに見られていた事には、全く気づいていなかった――。
「恋文かー。いやー、青春だねー」
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