第36話 感染症
翌日の講義後、カレフィーネ達4人は以前も借りた小さな会議室へ集まった。
授業で使われていない時間なら、学生でも申請すれば借りられる。長机と椅子があるだけの簡素な室内だが、人目を気にせず継譚商会の話をするには十分だった。
全員が席へ着くと、ミリアナが鞄から封筒を取り出した。
「じゃーん。推薦状もらえたよ!」
封筒から推薦状を抜き、商印章が見えるように机の中央へ置く。
「おお、やったじゃないか!」
「おめでとう、ミリアナ。きっとうまくいくと思っていたよ」
「これで、推薦者探しに関しては一安心ですね」
セルヴィンは身を乗り出し、カレフィーネも隣からミリアナの肩を抱いた。向かいに座るルッシェリーナも、印影を確かめて満足そうに頷いている。
昨日はずいぶん弱気になっていたけれど、やはり心配はいらなかったらしい。誰よりも推薦状の当てがないと悩んでいたのに、ふたを開けてみれば真っ先に手に入れてしまう。そんなところが、いかにもミリアナらしかった。
「カレフィーネはどうだったの?」
ミリアナが推薦状を封筒へ戻しながら尋ねてくる。
「私が家庭教師をしている子のお父様とは、今週の土曜日に会える事になったよ。家庭教師にも満足していただけているし、商会の計画をきちんと説明できれば、その場で推薦状を出していただけると思うなぁ」
家庭教師先の娘は、カレフィーネの兄であるフェルディオにすっかり夢中だった。家庭教師の時間にも、勉強の合間に兄の話を聞くのを楽しみにしていた。
その娘に頼まれた父親が、フェルディオを交えた食事会という形で、推薦状について話す時間を設けてくれたのだ。
兄の名を利用したようで少し気が引けるものの、推薦するかどうかは話を聞いてから決めると言われている。
――面談では、ちゃんと私自身を見て判断してくださると思うんだけどねぇ。
セルヴィンの分も、実家の商会内で手続きが進んでいる。昨日聞いた通りなら、あとは郵送されてくるのを待つだけだ。
3人とも順調かと思いきや、ルッシェリーナは意外なところで苦労していた。
「推薦状を出す事自体は、既に了承を得ているのですが……」
ルッシェリーナは少し困ったような、けれどどこか誇らしげな笑みを見せた。
「新聞社は、商会を始めてもわたくしに記者を続けてほしいそうです。まだ女性の記者は少ないため、絶対に手放したくないのだとか。まあ、そこまで必要とされているのであれば、悪い気はしません」
交渉が長引いているのは、新聞社の仕事と継譚商会の活動を兼ねるための条件を決めているかららしい。
新聞社と継譚商会は、どちらも出版に関わる。商会で知った情報が新聞社の仕事へ影響する事もあれば、記者として知った情報を商会で使える場面もあるだろう。どこまでが取材で、何が商会の秘密なのか。報酬や勤務時間だけでなく、守秘義務についても細かく取り決める必要があった。
「少し時間は掛かりますが、ミリアナの秘密が守られる内容になるよう契約を進めます。ですから、安心してください」
ルッシェリーナは、ミリアナの目を真っ直ぐに見てそう告げた。
「うん。ありがとう」
短く答えたミリアナの表情が、わずかに緩む。
――やっぱり、ルッシェリーナにも秘密を打ち明けてもらって正解だったねぇ。
推薦状の進み具合を確認した後、セルヴィンが書類の束を机へ広げた。
学園からは商会設立の仮承認が下りている。ディアネリス教授から顧問就任の了承を得れば、正式に商籍登録を行い、継譚商会として活動を始められるという。
「推薦状が集まるまでに、仮承認の段階でできる手続きは済ませておきたい。カレフィーネさん、手伝ってもらえないかな。学生の仮代表名義だと、共同設立者が複数人必要になる申請が多いんだ」
「もちろん、協力するよ。何をすれば良いのかなぁ?」
カレフィーネが予定帳を開こうとすると、ミリアナが不思議そうに首を傾げた。
「ちょっと待って。まだ商会はできていないんだよね?登録前にできる手続きなんてあるの?」
「銀行の法人口座の事前申請や、未成年者の労働許可申請などだね。もちろん、最終的な申請には商籍登録を済ませて、代表者になる顧問の承認をもらう必要がある。だが、書類の確認までは先に進められるんだよ」
セルヴィンは書類の中から、銀行名の入った案内を抜き出した。
「特に列島通商銀行は、学生新興商会制度の協賛社だ。事前に審査を受けておけば、学園の正式承認と同時に口座を開設できるらしい」
「口座がないと連載料の受け取り方法が定まらず、新聞社との契約にも影響してきます。事前に動いておくべきですね」
ルッシェリーナが当然のように付け加える。
「私は手伝わなくていいのかな?」
ミリアナが心配そうに尋ねてくる。
けれど、こうした細かな手続きを引き受けるのは、カレフィーネの役目だと思っていた。
「うん、大丈夫。それよりミリアナには早く物語を用意してほしいなぁ」
この商会は、ミリアナと、彼女だけが連絡を取れる作者を守るために作るものだ。ミリアナには、何よりも優先してもらいたい仕事がある。
「わかった。それじゃあ、私は最初に見せる原稿の準備を進めるね」
「ああ、よろしく頼む。登録できても、肝心の商品がなければ始まらないからな」
セルヴィンの言葉に、ミリアナはしっかりと頷いた。
こうして見ていると、2人はずいぶん相性が良い。ミリアナは普段こそおとなしく控えめに見せているけれど、本当は好奇心が強く、やる時には大胆に動く。周囲の視線を気にせず前へ進むセルヴィンと一緒にいると、目立つ事へのためらいも薄れ、本来の行動力を出しやすいようだった。
2人だけで遠出までしているのだから、事情を知らない人なら、とっくに恋仲だと思っているかもしれない。
――本当にそうなったら、私は嬉しいんだけどねぇ。
けれど、周りから強引に押せば、ミリアナはきっと警戒して離れてしまう。セルヴィンの方も、彼女を大切に思っているのは確かだが、それが恋心かと聞かれると少し違うようにも見えた。今は余計な手出しをせず、見守るくらいが良いのだろう。
恋の行方はともかく、うまく噛み合っているのは2人だけではなかった。
誰に指図されるでもなく、全員が自分のやるべき事を見据えて動き始めている。4人が一つの組として、きちんと形になりつつあるのを感じた。
――うん、大丈夫。この商会は、きっとうまくいくね!
これから始まる継譚商会の活動を思うと、自然と胸が弾んだ。
◇ ◇ ◇
寮の部屋へ戻ると、私は制服から部屋着へ着替え、すぐに机へ向かった。
窓と扉が閉まっている事を確かめ、机の引き出しから原稿の束を取り出す。辞書代わりにエリへ尋ねられるよう、賢者の石を耳当て式受話器へ嵌めて装着し、鉛筆を削って机へ置いた。
『風渡りの行商人』第一部の翻案で残っている大きな問題は、深い傷を負った愛犬が、数日後に傷を化膿させる場面だけだ。この場面を除けば一通りの確認と修正を終えている。
直訳した原稿と、書きかけの清書を並べる。何度も読み返した頁には消し跡が重なり、紙の表面が毛羽立っていた。
主人公と愛犬の絆を考えれば、2人が魔力同調できないのは不自然だ。だが、同調して感知魔術を使えば、傷口の奥で細菌が増え、周囲へ広がっていくのを感じ取るはずだ。
原作でも、主人公は愛犬の容態が悪化している事に気づき、救うためにできる限りの行動を取っている。それでも私は、身体の内側で起きている異常まで感じ取れば、そこから何か新しい手立てを見つけ、原作とは別の行動に結び付けるはずだと思っていた。
だからといって、原作にない治療や行動を加えれば、その後の展開が変わってしまう。
2週間近く悩み続けたのに、答えは出ていない。
――本当に、そうかな。
昨日、店長と話した時の事を思い出す。
私は、清廉な英雄として描かれる覇皇が嫌いだと店長へ説明するため、彼が世界統一を成し遂げた時代について何度も考えた。
その中で、一つ気づいた事がある。
『風渡りの行商人』の本編は、既に最後まで聴き終えている。その物語の中では、感染症の原因が細菌や病原体である事を、誰も知らないようだった。
私達の世界では、感染症が細菌などによって引き起こされる事は常識だ。けれど、それはずっと昔から知られていた知識ではない。
覇皇は賢者の石から得た知識を使い、各地の医術者へ身体の仕組みや病の原因を教えた。征服した国々の医術を整理し、医療知識を広めた事は、覇皇を嫌う私でも認めざるを得ない功績の一つだ。
それ以前の人々は、感染症を悪霊や、よどんだ空気が引き起こすと考えていたらしい。
――魔力同調ができる事と、同調して得た情報を理解できる事は、同じじゃないんだ。
魔力は、火が燃え、水が低い方へ流れるのと同じくらい、私達には当たり前の現象だ。だから、この世界の人々にとって、魔力が存在しない世界を想像するのは難しい。けれど、魔力は存在していても、医術が十分に発達していない時代なら、ずっと受け入れやすいはずだ。
主人公は、魔力同調をしなくても、化膿した傷や発熱、弱っていく様子から、愛犬の容態が悪化しているとわかっていた。だからこそ、知る限りの手当てを続け、助けを求めている。
同調すれば、傷口の奥で微細な何かが増え、愛犬の身体へ広がっている事も感じ取れるだろう。けれど彼女にとって、それは既にわかっている病状の悪化を、別の形で確かめる情報でしかない。それが傷の化膿や発熱を引き起こす原因であり、薬で抑えられるものだという知識がなければ、新しい治療法には結び付かない。
感じ取れる情報が増えても、選べる手段まで増えるとは限らないのだ。
私は新しい原稿用紙を引き寄せた。
『風渡りの行商人』の医療知識を、覇皇が医術を広めるより前の時代と同じ水準に置く。
主人公は弱っていく愛犬を抱き締め、魔力を同調させる。傷口から正体不明の異物が広がっている事はわかっても、それが何かも、どうすれば止められるのかもわからない。それまでと同じように、知っている限りの手当てを続け、愛犬の意識をつなぎ止めながら、助けを求める。
それなら、魔力同調をしても原作の流れは変わらない。
むしろ、離れていく愛犬の命を主人公が自分の身体のように感じる事で、2人の絆と、何もできない苦しさを今まで以上に描ける。
「これなら……いけるかも」
私は清書用の鉛筆を握り、毛羽立った原稿を脇へ避けた。
書き出しの一文を置くと、これまで何度も止まっていた鉛筆が、今度は迷わず紙の上を進んだ。
窓の外が暗くなり、学園の鐘が鳴った。
夢中になっていた私は、最後の一文へ句点を打ってから、ようやく顔を上げる。固まった肩を回すと、首筋が小さく鳴った。
書き上げた数枚を最初から読み直す。
主人公は病み衰えていく愛犬の命を感じ、恐怖に震えながらも手を離さない。主人公の行動も、原作の出来事も変えていない。それでも、皇国の読者が魔力同調を知っていても、不自然には感じないはずだ。
「よし、これなら大丈夫そう」
耳当て式受話器に嵌めてある賢者の石へ触れ、エリに声を掛ける。
「エリ、この修正内容を星乃とどき先生に確認してもらって、先生の意見を教えてくれない?」
返事は、ほとんど間を置かずに返ってきた。こちらの時間を止めて、先生へ確認してくれたのだろう。
『先生は変更案を了承。「完成した文章を楽しみにしている」と述べていた』
「良かったぁ……」
全身から力が抜け、机へ突っ伏したくなる。けれど、もう一仕事だけ残っていた。
書き直したばかりの紙を差し替え、第一部の原稿を初めから順に揃える。
これで完成、というわけではない。
第一部を初めから読み返して言葉遣いを整え、他の場面と細かな矛盾がないか確かめ、カレフィーネとルッシェリーナにも読んでもらう必要がある。
それでも、途中で止まっていた物語は、ようやく最後までつながった。
大きな問題はこれで片付いた。最後にこの物語の熱狂的な愛読者にも感想を聞いておこう。
「私の変更、エリはどう思う?」
『ミリアナは凄い』
「えっ、そう……かな?」
『星乃とどき先生の文章を変更するなど、恐れ多くて私には不可能』
「……」
――エリは、辞書に徹してもらった方がいいかもね……。
悪魔: 賢者の石を辞書だけに使われても、原稿は自由に読めるので平気。




