第33話 最初の声
海でずいぶんゆっくりしたため、山の上の神殿へ向かう乗合自動車は最終便になった。
海を離れてからも、寄せては返す波の音が耳の奥に残っていた。あの景色をまだうまく言葉にはできない。それでも、知らなかった景色を一つ、自分の中へ持ち帰る事はできた。それで今は十分だと思えた。
日没の時刻はまだ先だが、木々に囲まれた石段には、ひと足早く夕方の涼しさが漂い始めている。
帽子を脱いで背負い鞄へ押し込み、肩紐を締め直す。
――この石段を上るのも、久しぶりだね。
私は神殿へ続く石段に足を掛け、一段、また一段と、慣れ親しんだ道を踏みしめていった。
1時間ほど上っただろうか。
初めのうちは、参拝を終えて山を下るらしい人達と何度かすれ違った。上るうちに下山する人影は少しずつ減り、いつしか石段を歩くのは私一人になっていた。
――この時間なら、もう下りてくる人はいなさそうだね。
聞こえるのは、枝葉を揺らす風と、石段を踏む自分の足音ばかりだ。
踊り場まで上ったところで、石段の脇に立つ大きな樅の木が目に入った。太い幹と、空を覆うように広がった枝には見覚えがある。ここまで来れば、神殿まではもう少しだ。
私は樅の根元近くにある平たい石へ腰を下ろし、袖で額の汗を拭った。背負い鞄を脇へ置き、汗が引くのを待っていると、胸の奥に懐かしい記憶がよみがえる。
「そういえば、ここだったっけ。エリの声を初めて聞いた場所」
服の上から首飾りへそっと手を当てる。あれは、私が6歳になった年の事だ。
母の形見である首飾りは、幼い私には鎖が長すぎた。それまでは神官のじいちゃんが大切にしまっていたけれど、6歳になって少し体が大きくなると、鎖を短く直して渡してくれた。
薄い青色の石が胸元で揺れるのが嬉しくて、遊ぶ時も寝る時も外さず、いつも身に付けていた。
その日も私は、石を指で弄びながらこの石段を下りていた。
ろくに足元など見ていなかったのだろう。
爪先が段の縁へ引っ掛かり、体が前へ投げ出された。とっさに両手を突いたため、膝を少し擦っただけで済んだ。けれどその時、胸元で固いものが石段へぶつかり、甲高い音を立てた。
慌てて首飾りを拾い上げると、青い石の表面に白い亀裂が走り、端が小さく欠けていた。
「うそ……」
血の気が引いた。
宝物であり、母の形見でもある石を、自分の不注意で壊してしまった。
胸が苦しいほど早く脈打ち、頭の中が真っ白になった。私は傷を隠すように石を両手で握り込み、目を固く閉じた。
「治れ、治れ、治れ、治れ、治れ……」
もちろん、石を修復する魔術が使えるわけではない。ただ、何もしないではいられなかった。
どれほど唱え続けただろう。傷を見るのが怖くて、石を握ったまま、おそるおそる尋ねた。
「治ったかな?」
『損壊状態に変化なし』
「そんなぁ……」
突然聞こえた声が誰のものかを考えるより先に、治っていない事が悲しくて涙がこぼれた。
「治ってよ、お願い。どうすれば良いの?」
『表面の硝子層を全て剥がせば、外観は回復』
「えっ、剥がせば良いの?」
そこで初めて石から指を離した。涙でにじむ目をこすって確かめると、亀裂は青い石の中まで届かず、表面を覆う透明な膜だけに広がっているように見えた。
私は涙を拭うのも忘れて立ち上がると、来た道を駆け戻った。
神殿へ戻って部屋へ飛び込み、積み木遊びに使っていた小さな木槌を取り出した。
机の上へ布を敷き、首飾りを置く。壊してしまったばかりの石をさらに叩くのは怖かった。それでも、あの声に教えられた通り、欠けた部分へ木槌をそっと当てる。
こつん。
薄い欠片が一つ剥がれた。
力を加減しながら何度も叩くと、亀裂の入った透明な膜は少しずつ剥がれていった。その下から現れたのは、傷一つない青い石だった。
最後の欠片を取り除き、窓から差す光へかざす。石は曇りが取れて、透き通るような青さを取り戻していた。
「うわぁ、良かったぁ……」
胸へ抱き締めてから、ようやく首を傾げた。
――そういえば、さっき教えてくれたのは誰だろう?
神殿へ通ってくる家政婦さんは、昼過ぎには麓へ帰っている。参拝客の姿も見かけなかった。声は女性のものに聞こえたので、じいちゃんのはずもない。
私は首飾りを握ったまま、じいちゃんのいる祭務室へ駆け込んだ。
「じいちゃん、さっき、誰もいないのに声がしたの」
大声で訴えると、神官のじいちゃんは書き物から顔を上げた。
「誰もいないのにかい。それは山の妖怪かもしれんなぁ」
私を怖がらせようと思ったのか、ただの冗談だったのか。けれど、その返事は私の好奇心を強く刺激した。
私は目を輝かせ、それから石が話していると気づくまで、しばらくの間、神殿とその周辺を巡って山の妖怪を探し回る事になった。
懐かしい思い出をたどるうちに、先日、母の同僚だった老婦人と出会ってから気になっていた事を思い出した。
「そういえば、あの時は硝子で被膜されていたから、割れるまで賢者の石として使えなかったんだよね?」
『ミリアナが割って硝子を剥がす前は、応答条件を満たすのが困難な状態だった』
古物市で出会った老婦人は、母と同じ形の首飾りを持っていた。なぜ、同じ見た目のものが複数あるのだろう。
母がこの石の正体を知っていたか。母や私が賢者の石を持っていると知る者がいるか。その二つは、以前にもエリへ尋ねている。答えはどちらも否だった。
「念のためにもう一度確認するけど、お母さんは、この首飾りが賢者の石だとは知らなかったんだよね?」
『エーゼリナは認識していない』
「お母さんや私が、賢者の石を持っていると知る人もいない?」
『知る人物は存在しない』
それなら、誰が賢者の石へ被膜を施したのだろう。
私はこれまで、軍事政変未遂があった自分が生まれた頃の出来事については、あまり聞かないようにしていた。下手に探れば、今も残る陰謀へ行き着くかもしれないし、エリにも安全のためにはあまり知らないほうが良いといわれていたからだ。
でも、同じ形の首飾りが存在するとわかった以上、少しだけ踏み込んで質問を続ける。
「じゃあ質問を変えるけど、お母さんが賢者の石を所持する可能性がある事を知っていた人はいる?」
『……存在する』
やはり、母やあの老婦人に首飾りを渡した人物が、賢者の石を隠したのだろう。見た目では区別できないようにして、複数の人物に配る形で。
「その人は、母から私が首飾りを引き継いだ事を知っているの?」
『……認識済み』
エリは答えたくない問いへの応答が極端に短くなる。賢者の石の出所については、あまり私に聞かれたくないのだろう。お気に入りの物語の感想を聞けば、こちらが止めるまで、とめどなく答えが返ってくるのに。
「その人は、賢者の石が今どこにあるのか知りたがっている?」
『興味を持っていない。むしろ知る事を忌避』
その人物が石を取り戻そうとしていないのなら、今すぐ危険が迫っているわけではなさそうだ。私はそれ以上、深く追及しない事にした。
「最後に一つだけ。その人は先日出会ったあの老婦人ではないよね?」
『別人』
私はひとまず納得して会話を切り上げ、平たい石から腰を上げた。神殿までは、あと5分というところだろう。
最後の石段を上り切ると、木々の向こうに懐かしい神殿の姿が見えた。
山の上のこの神殿は、帝国統治時代に大陸から伝来した宗派『大陸派』に属しており、正式には「山嶺神殿の山頂殿」という。
山嶺神殿とは、中豊平原の東に連なる山脈を一柱の巨大な精霊として祀る、祭祀地域と施設群の総称だ。その中でも、この山の頂近くに置かれた祭祀施設が山頂殿である。
神殿とはいうものの、ここに神の像や神体があるわけではない。
大陸派では、唯一神が世界を創り、その秩序を精霊に託したとされている。山嶺神殿で感謝を捧げる相手は、森を育み、川の源となり、大地へ恵みをもたらす山脈の精霊だ。
皇国には、祖先を敬う『祖霊派』もあり、人々は暮らしに合わせて両方の宗派へ祈りを捧げている。葬儀や結婚式も、望む宗派の流儀を選べる。
昔、統一帝国が各地を治めた時、それぞれの土地で神や祖先として信仰されていた存在は、全て唯一神に仕える精霊だと整理された。祭りや祈りの作法の多くは残され、祭祀を行う施設は制度上、一律に『神殿』と呼ばれるようになった。帝国が滅びて久しい今も、皇国ではその呼び名がすっかり定着している。
母とじいちゃんは大陸派の作法で葬られ、山頂殿の小さな墓地に並んで眠っている。じいちゃんの後を継いだ神官夫妻は、神殿と二人の墓を守り、里帰りする私をいつも家族のように迎えてくれる。
境内へ足を踏み入れると、開け放たれた窓から夕食の温かな匂いが流れてきた。私の足音を聞きつけたのか、初老の夫妻がそろって玄関から顔を出す。
「おや、遅かったね。少し心配していたよ」
「すみません。ちょっと寄り道をしていて」
「お帰りなさい。さあさあ、もう食事の用意もできているわよ。ミリアナちゃんの部屋は空けてあるから、荷物を置いていらっしゃい」
お帰りなさい、という言葉が胸へ染みた。
「ただいま戻りました。これ、皆さんでどうぞ」
私は背負い鞄から、皇都で買ってきた菓子の包みを取り出した。
「あっ!」
そこで、麓の門前町で生花を買ってくるのを忘れた事に気づいた。
――お金を受け取ってしまった手前、お花を供えないわけにもいかないよ〜!
明日、もう一度麓まで下りるしかないか……。
私は肩を落としながら、懐かしい自分の部屋へ荷物を置きに向かった。
悪魔: 運動習慣に乏しいくせに、ミリアナは意外にも健脚。




