第32話 知らない海
私は今まで、外海を見た事がなかった。
海なら知っているつもりだった。
異世界の物語では、数え切れないほど耳にした。船が渡り、怪物が潜み、嵐が荒れ狂い、朝日や夕日を映す場所。果てしなく広がる青い水と、寄せては返す白い波。言葉を重ね、頭の中で何度も形を作った。
けれど、砂丘の上から見た大洋は、そのどれにも収まらなかった。
青い。
ただ青いのではない。内海とは違う黒さを含んだ青が、遠ざかるほど白い光に霞み、そのまま真っ直ぐな水平線へ溶けていく。
右を見ても、左を見ても、波が打ち寄せる無人の砂浜が遠くまで続いている。
大きな雲が海の向こうから立ち上がっていた。白く輝く頂は空高くそびえている。
砂丘を下り、波打ち際へ近づく。
波は、遠くから見れば同じ動きを繰り返しているようだった。けれど一つとして同じ波はなかった。盛り上がり、光を透かし、白く砕け、砂の上を薄く滑って足元へ迫る。引いていく水の下で、無数の砂粒がさらさらと鳴る。
ざあ、と一つ。ざざあ、と重なって、また一つ。
その隙間を縫うように、頭上から鴎の鳴き声が落ちてくる。
風には濃い潮の匂いがあった。細かな水しぶきを含んだ風が頬や唇を撫で、舐めてもいないのに舌の先へかすかな塩味を残す。太陽は容赦なく帽子の上から照りつけ、靴底を通して砂の熱が伝わってきた。
どれも知っていた。
砂浜も、波も、水平線も、潮風も。言葉としてなら、全部知っていた。
でも、私の中にあった海は、あまりにも多くのものが足りていなかった。
物語を聴きながら思い浮かべていた海は、薄くて、狭くて、音も匂いもない。頭の中へきれいに収まる、行儀の良い青い絵でしかなかった。
本物は、目にも耳にも肌にも、一度に押し寄せてくる。
胸が震えるほど美しかった。
しばらくは、目の前の海を眺める事しかできなかった。
けれど、その美しさに胸を躍らせているはずなのに、いつからか、胸の奥へ薄いもやが掛かっていた。
感動している。それは間違いない。なら、この気持ちは何だろう。
私は波打ち際を離れ、気持ちを整理するため、砂丘に生えた松の影へ腰を下ろした。火照った頬に触れる風だけが冷たい。服の内側から首飾りを引き出し、賢者の石を手のひらに載せる。
すぐにはエリへ話しかけず、自分の中にあるものを順番に確かめていく。
海を見られた事は嬉しい。期待していた以上に美しく、その感動も少しも嘘ではない。ならば、海そのものに不満があるわけではなかった。
それでも胸に引っ掛かるのは、頭の中に描いていた海と、目の前の海を比べた時だ。
――ああ、そっか。私は、自分の想像が足りなかった事を悔しがっているんだ。
膝を抱え、幹へ背を預けたまま、波が生まれては消えるのを眺め続ける。
異世界の物語には、雪に閉ざされた山も、光の届かない深海も、極地の氷原も、熱と命が渦巻く密林も出てくる。私はそのどれも見た事がない。
以前、自分でも物語を創ろうとして、何一つ形にできずに諦めた。その時に、世界を思い描くための経験が足りていないのはわかっていた。だから、まずは今の自分にできる事から始めようと、異世界の物語をこの世界へ届ける道を選んだ。
けれど、何が足りていないのかを正確には理解していなかった。今日初めて、その言葉の重さを、目の前の海に見せつけられた気がした。
「異世界の作家さん達は、どうしてあんなにたくさんの景色を描けるのかな?」
問い掛けながらも、私は海から目を離さなかった。
「私には、こんな風景をいくつも思い浮かべるなんて無理なんじゃないかな。見た事もないものを、知っている言葉だけで埋めて、それらしくしたところで、今日までの私の海と同じでしょう?」
返事を待つ間にも波の音は絶えない。
『ミリアナはまだ経験が不足。こちらの世界の作家達とは、環境の違いも大きな要因』
エリの声はいつもと変わらず淡々としていた。
『こちらの世界では、山岳氷河、火山帯の溶岩、極地の大雪原、砂漠の風紋など、世界中の絶景が〈ドローン〉で撮影され、高精細で総天然色の写真や動画を簡単に見る事が可能。過去から蓄えられた膨大な文献や資料など、他にも創作の材料が大量に存在。それらは、誰でも、いつでも閲覧可能。この環境は、こちらの世界が、長い歴史の中で技術と文化を積み重ねて構築』
才能の問題ではないと、慰めようとしてくれているのだと思う。
けれど、その言葉は今の私には、越えられない壁の高さを教えるものにも聞こえた。
「それじゃあ、私の世界では無理って事?」
手のひらに載せた石をぎゅっと握る。
「世界中を見られる写真も、動く映像もない。行きたい場所へ簡単に行けるわけでもない。今日だって、里帰りのついでに少し寄り道できたから、初めて外海を見られただけだよ。私には時間も、お金も、経験もない」
『この世界に同じ環境を作る事は困難。ただし、同じ環境で、同じ物語の制作は不要。ミリアナ達の世界には、ミリアナ達の世界でしか生まれない物語が育つ』
「そんなもの……本当に育てる事ができるのかな?」
『今すぐには無理。でもミリアナの挑戦は、そのための積み重ねの一歩』
一歩と言われて、今の自分が積み重ねているものを考えた。
「でも、その一歩さえ、私はまともに進めている気がしない。自分で物語を創ろうとしても、何一つ形にできなかった。異世界の物語を少しこちらへ合わせるだけのはずなのに、たった一つの場面をどう直すかで、あれほど悩んだ。何を残して、何を変えて、どう伝えるか、そのたびに迷ってばかりだよ」
それなら、まずは素晴らしい物語をこの世界へ広める事から始めよう。そう考えて選んだ道でさえ、私はまともに歩けているのだろうか。
商会を作るために、これまで誰が何をしてきたか、一人ずつ思い返してみる。
セルヴィンには商売の知識がある。ルッシェリーナは新聞社とのつながりと誰もが納得する説明を作る頭がある。カレフィーネは人と人を結び物事を前へ進める事ができる。
私は何を持っているのだろう。
胸元に隠したこの石以外に。
「エリがいなかったら、私、何の役にも立たないね。賢者の石がなければ物語を用意する事もできない。皆に助けてもらってばかりで……私は自分では何も成し遂げられないのかもしれない」
そう考えると、思っていた以上に自分が情けなくなった。
こんな弱音を皆の前では吐けない。物語を広めたいと言い出した私が口にすれば、信じて動いてくれている皆に顔向けできない。
だから今だけは、エリに考えていた事を全て聞いてもらった。
悔しい。
知らない事が悔しい。想像できない事が悔しい。誰かの生み出した素晴らしい物語に触れるたび、嬉しいのに、胸の奥のどこかが痛む事も……。
この海のような景色を、何もない所へ創り上げられる人達が、どうしようもなく遠い。
私は膝の上へ顎を載せた。
賢者の石から返事はない。質問をしていないのだから、当たり前だ。それでも、エリが私の弱音を黙って聞いてくれている事は、ちゃんとわかっていた。
私は膝から顔を上げた。
海は変わらず大きかった。私が落ち込んでも、弱音を吐いても、波は勝手に寄せては返す。
今すぐ何かを創れるようになったわけでも、商会の役に立てると自信を持てたわけでもない。それでも、これからの自分について、エリに聞いてみたくなった。
「エリ。私はいつか、皆を感動させるような物語を、世の中へ送り出せるかな?」
賢者の石は、しばらく黙っていた。
『……ミリアナが、そうなろうとする気持ちを持ち続けていられれば、可能』
思わず、小さく笑ってしまった。
「悪魔は、未来を確定できないんじゃなかったっけ?」
『……気持ちを持ち続ける事は、十分な不確定条件』
エリの返事は苦しい言い訳だと感じた。
「言い訳しなくても大丈夫。応援してくれている事は、十分伝わったよ」
石を握っていた手を、そっと開く。
「……ありがとう、エリ」
しばらく、波の音に耳を傾ける。
「まあ、いきなり何もかもできるようにはならないよね。一歩ずつ進むしかないか」
言葉にしてしまうと、少しだけ肩の力が抜けた。
今日の海で得た感動も、きっと無駄にはならないのだろう。
急いで立ち上がる気には、まだなれなかった。
だから私は松の影に座ったまま、もうしばらく海を眺める事にした。
普通列車で海へ向かう途中では、海辺で波音を聞きながら異世界の海の物語を聴こうと考えていた。きっと最高に贅沢な時間になるはずだった。
けれど今は、聴く気にはなれなかった。
物語の言葉で頭の中を満たさず、何かを学ぼうともせず、ただ目の前にある海を見ていたい。
私にとって何もせずに過ごす時間は、いつもならもったいないと感じるものだった。それでも今は、この何もしない時間こそが、今日見たものを自分の中へ沈めるために必要なのだと思えた。
すぐには、うまく言葉にできない。
それなら、言葉になるまで見ていよう。
寄せて、砕けて、引いていく。一つとして同じではない波の音を、私は飽きるまで聴き続けた。
悪魔: 悪魔には未来確定の発言は不可能。若干の主観は含むものの……羞恥の隠蔽行動は否定。




