第25話 共版者
――さすがに貴族寮は、部屋も広くて造りが良いなぁ。書斎だけじゃなくて、衣装納戸まであるなんて羨ましい〜。
ルッシェリーナの部屋は、私が暮らす庶民寮の2人部屋が2つは収まりそうな広さだった。
深い飴色の床板には毛足の短い織物が敷かれ、壁は継ぎ目の見えない淡い灰色の塗り壁になっている。天井際や窓枠には蔓草を模した細かな彫刻が施されており、隅々まで手入れが行き届いていた。
窓は雨音をほとんど通さない分厚い硝子で、外側には小さな屋根までついている。寝室は扉の向こう、衣装納戸はさらに奥にあり、こちらの部屋には学習用の机が置かれ、簡易的な書斎として整えられていた。
磨かれた机の上では、卓上灯の穏やかな光が2束の原稿を照らしている。
その机を挟み、カレフィーネとルッシェリーナは、私が渡した『風渡りの行商人』の冒頭を黙々と読み進めていた。
片方は作者用の筆跡で書いた文字起こし原稿、もう片方は普段の筆跡で清書した校正原稿だ。まだ皇国向けに文章を作り直していない箇所だけを選んだので、筆跡以外にほとんど違いはない。
異世界の長編物語を、エリ以外の誰かと一緒に味わうのは初めてだった。
最初は文字を追う速さや、わずかな表情の変化まで気になり、胸の前で組んだ指を何度も握り直した。けれど、やがてカレフィーネの微笑みが消え、ルッシェリーナの指が次の紙を探して急ぐようになる。
声をかけるのをためらうほど、二人は原稿へ引き込まれていた。
――大丈夫。ちゃんと、面白いって思ってもらえてる。
胸の内で小さく息を吐き、私は二人の横顔を眺めながら、ここへ来るまでの流れと、これからお願いしなければならない事を頭の中でまとめ直した。
始まりは、ほんの少し前の事だ。
カレフィーネが届けてくれた防水袋を受け取った私は、その場で彼女を部屋へ招き入れた。そして机の上の原稿を前に、たどたどしくも「素性を明かせない作者」がいる事と、その作者から許可を得て物語を皇国向けに直している事を打ち明けた。
さんざん悩んでいたのが何だったのかと思うほど、カレフィーネの返事はあっさりしていた。
「なるほど、素性を明かせない作者さん、か。それでミリアナがいろいろと挙動不審になっていたんだね」
カレフィーネは納得したように何度か頷き、それからいつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「でも、話してくれて嬉しいよ。もちろん、全部の秘密を話してくれるなら、その方がもっと嬉しいけどねぇ。きっとミリアナにも、その作者さんにも事情があるんでしょう?ミリアナが私を信頼してくれるなら、私もミリアナを信用する。話せない事を無理に聞こうとはしないって誓うよ」
その言葉に危うく涙腺が崩壊するところだった。
そう、カレフィーネは優しい。けれど、ただ甘いだけの人ではない。
「ただ、私が協力するだけでは、ミリアナと作者さんの秘密は守れないと思う。特に新聞への連載を実現したいなら、もう一人、ルッシェリーナの協力が絶対に必要だよ」
他の誰かに打ち明けるべきか。私が迷い続けた問題に、カレフィーネはその場で即座に答えを出した。
そして、善は急げとばかりに、途中まで整えた原稿を持たされ、そのまま貴族寮まで連れてこられたのだ。
「ルッシェリーナってね、自分だけ秘密にされるのが大嫌いなんだよ。私に話すのなら、彼女にも一緒に打ち明けるのが、きっと一番うまくいくよ」
その読みは正しかったらしい。
夜分の突然の訪問に、ルッシェリーナは最初こそ訝しげな顔をした。だが、カレフィーネが「ミリアナがね、ずっと抱えていた秘密を打ち明けたいらしいの。一緒に聞いてあげてほしいなぁ」と言うと、その眼差しがわずかに和らいだ。
「あなたの一大決心とやら、わたくしも心して聞かせてもらいます。協力するかどうかは話を聞いてから決めますが、断ったとしても、打ち明けられた秘密は決して他の人へ漏らさないと約束しましょう」
そう言って、私の説明を最後まで聞いてくれた。
二人は、まだ原稿を読み続けている。
待っているうちに、二人へ話せる事と、話せない事をもう一度整理しておこう。
賢者の石と知恵の悪魔については、絶対に話せない。つまり、作者との連絡方法も明かせない。そこを説明できない以上、作者が異世界の住人だという事も伏せなければならない。
異世界の住人だと露見する一番の危険は、作者が私達が普段から使う魔術について何も知らない事だろう。次に危ないのが、この世界には存在しない技術を、説明もなく物語へ登場させる事だ。それ以外の文化や習慣の違いなら、遠い外国の出身だと考えてもらえるかもしれない。
だから、作者とのやり取りは全て私が引き受ける。原作をそのまま文字にしたものも、皇国人の目線で不自然な箇所を取り除くまでは、誰にも見せない方が良い。
今回渡した冒頭部分には、魔術に関係する描写も異世界特有の道具も出てこない。だからこそ見せられたのだ。
けれど、この線引きを守るなら、私が誰かへ相談したいと考える切っ掛けになった、愛犬との魔力同調についても話せない。結局、翻案で一番重い判断は私が引き受けるしかないのだろう。
それなのに、先ほどまで胸に詰まっていた重苦しさは、もうずいぶん薄れていた。
――そっか。秘密を全部明かせなくても、一緒に動いてくれる人がいるだけで、こんなに気持ちが変わるんだ。
賢者の石を通じたエリとの交流は、ずっと私の心の支えだった。けれど、同じ場所に立ち、周りで起きた事を一緒に経験してくれる友人達も、違う形で私の心を引っ張ってくれる。
やがて、二人はほとんど同時に最後の紙へたどり着いた。
「凄い!途中から、読むのが止まらなくなっちゃったよ。ミリアナがこの作品を世に広めたくなるの、すごく、すっごく、よくわかる!私、全力で協力しちゃうよ!」
カレフィーネが原稿から顔を上げ、頬を上気させたまま一息に言った。いつも落ち着いている彼女には珍しい興奮ぶりだ。
その反応が嬉しくて、私の頬まで緩みそうになる。
一方、ルッシェリーナは最後の一枚を机へ戻した後も、しばらく考え込んでいた。2つの筆跡を見比べ、最初の頁へ戻り、今度は私の顔へ真っ直ぐに視線を向ける。
「このお話は、本当にあなたが考えたものではないのですか?」
「うん。それだけは絶対に違うよ。私には、こんな素敵なお話を作る事はできないから」
自信を持って答えたのに、ルッシェリーナは私から目を逸らさない。完全には納得していないようだった。
「私は信じられるかなぁ。だって、こんな男女の繊細な恋心を、ミリアナが書けるとは思えないもの」
横から差し込まれたカレフィーネの言葉が、私の胸を少しだけ抉った。
しかし、まったく否定できない。私は両手で胸を押さえ、傷ついた顔を作りながらも深く頷いた。
その様子を見たルッシェリーナは小さく息を吐き、ようやく私から視線を外した。
「では、あの人形劇もこの作者の作品なのですか?」
「それも違う。でも、お話の入手方法には関係している。申し訳ないけど、事情があってその方法は二人にも教えられない」
ルッシェリーナの指が、机の上の原稿を軽く叩く。
作者の素性も、居場所も、原稿の入手方法も話せない。それでいて、新聞社へ作品を売り込みたい。自分で口にしていても無茶な頼みだとわかる。
やがて、寮の館内放送から時刻を告げる鐘音が響いた。
ルッシェリーナは、小雨が続く窓の外へ一度目を向け、静かに原稿を揃える。
「間もなく寮の門限です。あなたの秘密を呑み込んだ上で、このお話を新聞社へ売り込むのに協力するかどうか、一晩考えさせてください」
「……うん。今日は話を聞いてくれて、ありがとう」
その場で断られなかっただけでも十分だろう。
私は原稿を防水袋に包んだ鞄に戻し、カレフィーネと連れ立って貴族寮を後にした。
部屋に戻り寝台に横になると、ルッシェリーナの考え込んだ顔が脳裏に浮かび、「断られるかも」という不安がじわじわと大きくなってくる。
私は胸元の賢者の石を押さえ、声を潜めてエリに尋ねた。
「ルッシェリーナは、協力してくれるかな?」
『彼女は物語に強く引き込まれていた。協力する可能性大』
「うーん……」
エリも『風渡りの行商人』の熱狂的な愛読者だ。同じ物語を好きになった者を信じる気持ちが、冷静な判断を阻害しているような気がする。
それでも、いまはその言葉を信じたかった。
◇ ◇ ◇
扉が閉じ、2人分の足音が遠ざかる。
ルッシェリーナは椅子へ座り直したものの、すぐには動けなかった。
原稿はミリアナが持ち帰った。それでも、遠くの丘へ向かって、草原をゆるやかにのびる街道や、荷車の脇を歩く主人公達の姿は、目を閉じれば鮮明に思い出せる。
これほど魅力的な物語を読んだのは初めてだった。
頁をめくるたびに見知らぬ土地へ引き込まれ、登場人物達の考え方や言葉に惹かれ、次は何が起こるのかと焦らされる。冒頭のわずかな分量だけでこの有様なのだ。続きを渡されれば、きっと眠る時間を削ってでも読んでしまう。
これまで読んだ本が、どれも陳腐で退屈なものだったと錯覚してしまいそうなほどに。
――これは、間違いなく劇薬ですね。
世に出せば注目を集める。うまく新聞へ載せられれば、あっという間に皇都の話題となるだろう。
それで終わるはずがない。
人気が金になると知られれば、掲載権を欲しがる新聞社、勝手に写して売る者、作者を囲い込もうとする商人が現れる。貴族が後ろ盾を申し出て、代わりに口を出してくる可能性もある。
ミリアナはきっと、物語を形にして広める事で頭がいっぱいなのだ。作者の作品を大切にしたいという思いは疑いようがない。しかし、思いだけで作品を守れるほど世の中は素直ではない。
カレフィーネもそこまでは見えているのだろう。だからこそ、ルッシェリーナをこの秘密へ引き入れた。
この物語は、魅力が強すぎる。
作者の名前を守る以前に、作品そのものを他人の手から守る事さえ難しい。そして、注目が集まる作品の作者を、素性も連絡方法も伏せたままにするなど、極めて困難な目標だ。
けれど――。
ルッシェリーナが記者の仕事へ惹かれたのは、世の中に隠された情報を見つけ、人々へ知らせる事が面白かったからだ。
一方で、友人達だけが共有する秘密にも、胸が躍っている。
作者が誰で、どこにいて、なぜ姿を見せないのか。答えを明かせないなら、その秘密自体を作品の価値へ変えれば良い。
注目を避けられないのなら、中途半端に隠れて追い回されるより、誰も勝手に手を出せないほど大勢の目が見張る場所へ出した方が守りやすい。そのためには新聞社へ原稿を持ち込むだけでは足りない。作品の権利を預かり、交渉し、得られた利益を管理するための形が必要になる。
素晴らしい物語と、謎に包まれた作者。
記者としても、これほど格好の題材はない。
ルッシェリーナは立ち上がり取材帳を手に取った。思いついた条件を忘れないうちに書き留めていく。
秘密の共有。
利益と権利の確保。
新聞社と対等に交渉できる組織。
最後の一行へ下線を引いたところで、口元に笑みが浮かんだ。
――そうですか。わたくしは秘密を暴くだけでなく、秘密を守り抜く事にも興味があったのですね。
◇ ◇ ◇
翌朝早く、私が扉を叩く音で目を覚まし、寝ぼけ眼をこすりながら扉を開けると――
「おはようございます。ミリアナ、あなたへの協力について検討しました」
そこには書類の束を抱えたルッシェリーナの姿があった。
「え〜!本当に一晩で考えちゃったの!」
悪魔: 悪魔が話すのは客観的な事実。……か、悪魔自身が信じる幻想。




