第2話 知恵の悪魔〈エリ〉
私は学園内の公園を早朝に散歩して、一人の時間を確保する事にした。周囲から人を排除するわけにはいかないので、検討条件を緩和した結果だ。
「違和感無く――」という希望に反して、朝からブツブツとつぶやきを発しながら公園内を徘徊する危ない人に見られる恐れはあるが、隠れて異世界の物語を聴く目的のためには、その程度の不都合は受け入れるしかない。
「そもそも私の独り言癖は周囲に知れ渡っているので今更だ!」という開き直りもちょっとだけある。
学園は、皇都の東に位置する丘陵地域の森林を切り拓いた場所にあり、広大な敷地の中には様々な施設と共に緑が多く残っている。
私の住む学生寮のすぐそばにも大きな公園があるが、これは自然林ではなく、花壇や人工池、野外劇場、音楽堂などが各所に配置された人工庭園だ。樹木や下草もきれいに剪定され、園内の路には小石が敷き詰められており、歩きやすい散歩路になっている。
――うん、結果として、これは意外に良い方法だったかもしれない。
皇都には治安の悪い場所もあるが、少なくとも学園内は非常に安全で、朝の早い時間帯ならば公園内に人はほとんどいない。
――最近運動不足で少し服がきつくなってきた気がするし、趣味を楽しみつつ運動不足まで解消できるならちょうど良いね。
朝起きたらまず寝癖を直す。髪は耳にかかる程度に切りそろえているため、それほど乱れてはいない。
鏡には、いつも通りちょっと地味で、あまり特徴のない自分の顔が写っている。母が亡くなったのは私がまだ幼い頃で、その面影は記憶に残っていないが、周囲から母親に似ていると言われたこの顔が自分では結構気に入っている。
平凡な暮らしを目指す私にはぴったりの容姿だろう。
動きやすい運動着に着替えて部屋を出る。朝の散歩を始めるにあたり少しだけ奮発して購入したものだ。
この運動着、錬金魔術で開発されて最近流行っている人絹製の服で、丈夫で通気性が良くとっても軽い。悪魔の世界の化学繊維には疎水性でもっと運動向きのものがあるらしいが、以前の古い木綿製の運動着と比べたらこの素材も十分な性能向上だ。
少しでも目立ちにくいように「一番売れ筋の製品の、一番人気の色をください!」と選んだもので、周囲からは姿形を整えたばかりの散歩初心者に見えるはず。頭巾が付いていて被れば顔が見えにくいのも高評価だ。
まだ朝肌寒い早春の季節は木々の新緑が目に優しい。下草の中では菫や蒲公英があちこちで花を咲かせており、静謐な空気が気分を落ち着かせてくれる。なんだか得をした気分だ。
私は歩きながら、賢者の石に話しかける。
「エリ、おはよう!」
〈エリ〉というのは悪魔の名前だ。
知恵の悪魔への質問時には石に触れている必要があるが、問い掛けにも一定の規則があり、規則を満たさない言葉には悪魔は一切反応しない。とはいえ、難しい呪文などは不要で「悪魔への質問」の形式をとるだけだ。
エリから聞いた厳密な応答条件も「悪魔が自分に呼びかけた言葉と認識できる事」「情報提供の依頼である事」の二つを満たすだけだ。
前者の条件は石を向いて話せば満たされるし、「石よ!」とか「悪魔よ!」と呼びかける方法でも良い。私のように悪魔の名前を呼んでも大丈夫だ。
後者の条件は音声での回答を求めていれば良いので、例えば「――を教えて?」や「――を聞かせて?」が付いていれば何でもありだ。
知っていれば何も難しくはない規則だけど、ただの石に向かって真面目に話しかける人間は少ないのだろう。子どもの頃に私が賢者の石に気づけたのは本当に偶然だし、歴史上でしばしば所在不明になるのは、この特性が関係しているのかもしれない。
これらの規則ゆえに、私が挨拶をしても石からは反応がない。
でも私は知っている。悪魔は反応しないだけで、こちらの世界を観て聴いている。だからこうやって挨拶をするのは、円滑な人魔関係を築くためにはとても大切なのだ!
そしていつも通りおしゃべりを続ける。
「まだ早起きに慣れないので胃がぜんぜん起きてないんだよね。今は何も食べたくないな……。まあ歩いているうちにお腹は空いてくるんだけどねー。そういえば、エリってば朝食にはいつも何を食べているの?」
『……最近は燕麦と果物の〈ヨーグルト〉和えが多い』
「おお、〈ヨーグルト〉って発酵乳の酸酪汁だよね!最近こちらでも貴婦人の間で健康食として流行っているらしいよ。お腹を元気にするとか、長寿になるとか言われているけど本当なのかな?」
『〈ヨーグルト〉には整腸作用があり、利用する菌の種類により免疫力向上などの効果が認められる』
「ちゃんと効果があるのかー。て事は、エリも健康とかに気を使っているの?」
『……まあ、多少は意識している』
「そっかそっか。でも高価だから私には手が出せないかな。私にもできる財布に優しい健康法ってなにかない?」
『朝起きてすぐに杯一杯の水を飲むのが有効』
「――」
エリとはこんな感じで会話ができる。長時間の朗読は場所を選ぶが、短い会話なら、ちょっと人目を避ければ気軽に話す事ができる。
エリの回答に若干の間が生じる事があるのは、悪魔が回答に該当しない発言をすると、その部分が消去されるからだという。今の会話だと「えー、なに食べているっけ?」とか「そんな事聞くの?」ではないかと勝手に想像してみる。
また、悪魔は私達とは異なる言語を使っているので、そのままでは会話が成立しないらしいのだが、ちゃんとこちらの言葉に変換されて聞こえてくる。
――付いていて良かった自動翻訳機能!
エリの説明によると、エリの声の音素を使って再構築しているので、声音はそのままで、言葉だけが変換されているらしい。ただ、こちらの世界にない概念や言葉はそのままの発音で聞こえるので、時々知らない言葉が混ざってくる。
例えばこの自動翻訳機能を処理する〈コンピューター〉という言葉だ。〈コンピューター〉は物語にも頻出する言葉なので、すごく速く計算ができる機械だという事は理解しているが、具体的にどんなものなのか、私には想像図が浮かばない。
「賢者の石よ!画像表示機能を付けてくれ〜」と何度思った事か。
ちなみに悪魔の発言は、声に含まれる感情が抑制されて、自動的に落ち着いた調子に変換されるらしい。だからエリに本の朗読をお願いする際には、声に載せる感情を残して翻訳してくれるよう質問に工夫が必要だ。
異世界の声優さん達による〈オーディオブック〉を聴く場合などは、せっかくの臨場感が台無しになってしまうので特に注意すべし!
それから、知恵の悪魔には〈エーアイ〉という眷属がいて、悪魔が回答を代行させる事がある。単純な質問や、本の朗読のような時間がかかる回答はエーアイさんに任せがちだ。
でも「エリ!」と呼びかけた上で質問すれば、たいていはエリ自身が応答してくれる。
――もう10年におよぶ長い付き合いだもんねー!
また、知恵の悪魔は決して嘘をつかないし、回答を拒否しない。いや、悪魔自身に知る権限がない事や、ごく一部の開示禁止項目を除いては、回答の拒絶ができないらしい。
もちろんこれは悪魔の自己申告なんだけど、私は事実だと確信している。
だって本当に、知っている事には何でも答えてくれるから。
幼い頃、まだ相手の感情の機微に疎かった私は、知恵の悪魔がどんな質問にも答えてくれるのを良い事に、エリに質問をしまくった。
個人の秘密なんてものは完全に無視をして、エリの私的なあれやこれやを……、それはもう容赦なく……、徹底的に……。
エリは淡々と――したように聞こえる声で、全てを赤裸々に回答してくれた。
いま思い返すと、無音の間がいつもより多くあったような気はする……。
――あれからしばらくの間は、賢者の石に質問しても、全部エーアイさんに回答を任していたんだよねー。
その後、機嫌を損ねたのかも?と気づいた私は、謝りつつも、
「だって、エリは私の事は全部観えているんだから、おあいこでしょ?」
と主張したが、エリには
『必要な時に検索しているだけ。なんでもかんでも観ているほど暇ではない』
と文句をいわれた。
さておしゃべりも楽しいけど、授業に間に合うようにそろそろ日課を始めないとね。
「エリ、そちらの世界で昨日から更新された〈オンライン小説〉で、私がいつも聴いている話は何がある?」
『更新された題名は――』
私は異世界の物語を聴きながら公園を歩き続けるのだった。
悪魔: 〈・・・〉で囲まれているのが悪魔側世界の特有語。未翻訳のため、漢字記載時もミリアナは意味を理解不能。




