第13話 足止め
緩い登り坂の上に、ルッシェリーナが暮らす寮の入口が見えたところで、私は一度足を止めた。
肺が焼けるように痛い。喉の奥がひりつき、心臓の音が耳のすぐ内側で鳴っている。額から流れた汗が目に入りそうになり、私は袖で乱暴にぬぐった。
「ハァ、ハァ……エリ……状況……」
声がかすれた。
胸元の賢者の石を握り込み、周囲の確認もおざなりに問いかける。
「凄腕さん……いまどこ?」
『ルッシェリーナが住む寮の中。ルッシェリーナの部屋の所在を確認中』
「じゃあ……ルッシェリーナは?」
『貴族寮へ向かって歩行中。もう少ししたら寮に到着する見込み』
「ハァ、ハァ、ハァ……良かった……ぎりぎり間に合った……」
膝に手をつき、荒い息を吐き出す。
けれど、ここで止まっている暇はない。ルッシェリーナが寮に着いて、自分の部屋へ戻ってしまえば最悪だ。
私はふらつきながらも、もう一度走り出した。
元貴族向けの寮の正面玄関は、私達の寮とはまるで違っている。
高い柱に支えられた庇、磨かれた石の階段、両開きの扉には繊細な飾り金具がついている。
入口に立つ守衛さんは、こちらを見て怪訝な顔をした。
髪を乱し、ぜえぜえ息を切らしながら寮に駆け込もうとしているのだ。私だって逆の立場なら止める。
「す、すみません……友人に……用が……」
なんとかそれだけ言い、学生証を提示すると、守衛は眉を寄せつつも扉を開いて中へ導いてくれた。
玄関広間へ入ると、涼しい空気が肌に触れた。磨かれた床に、窓から差し込む光が白く伸びている。
中央の応接用の長椅子で談笑していた数組の女生徒達が、一斉に私を見る。受付に座る女性も、書類から顔を上げてこちらを見ている。
視線が痛いけれど、気にする余裕はなかった。
入口をくぐってすぐの場所で、私は壁に手をつき必死に息を整えようとした。
胸が上下し汗が背中を伝う。これだけ全力で走ったのはいつ以来だろう。
少なくとも、物語を聴きながらのんびり散歩している普段の私には、ありえない運動量である。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「ミリアナ、一体どうしたの。すごい汗だけど大丈夫ですか?」
振り返ると、ルッシェリーナが心配そうにこちらを見ていた。
――わーん、ルッシェリーナだー!良かった、間に合ったよー!
私は思わず泣きそうになった。
◇ ◇ ◇
遡る事30分ほど前――
私は新聞社の支部を飛び出し、人気の少ない廊下の角まで移動して、すぐにエリへ問いかけた。
「エリ、凄腕さんは今どうしている?」
『凄腕さんは、ミリアナが新聞社支部で聞いた会話を把握し、事務局で入手した生徒目録の資料でルッシェリーナについて確認中』
「まさか、すぐにルッシェリーナを捜しに行ったりしないよね?」
『凄腕さんは「寮住まいか。女子学生一人くらいならどうにでもなるな。この仕事はさっさと終わらせよう」とつぶやいている』
「えっ、嘘でしょ!!」
思わず声が漏れる。
どうにでもなるって、話している内容が洒落になっていないよ!
「ルッシェリーナは?いまルッシェリーナは部屋にいるの?」
『ルッシェリーナは学生食堂の喫茶室でセルヴィンを取材中』
「例の写像機は持ってるの?」
『写像機はルッシェリーナの部屋の机の上』
「良かった。最悪の状況は避けられた……」
そう安堵したのも束の間だった。
とにかくルッシェリーナを捕まえようと、私が共同研究棟の建物を出てすぐ、人気のない場所で再びエリに確認すると――
「凄腕さんとルッシェリーナの状況に変化はある?」
『凄腕さんは既に調査を完了、ルッシェリーナの寮に向かって移動中』
そして、その数分後に確認すると――
『ルッシェリーナの取材が終了。貴族寮へ移動開始』
「早い、早い、まだ取材を続けてほしいのに〜!」
と、状況は悪化の一途をたどっていた。
――セルヴィンもっと引き留めておけよ!
こういう時くらい話を長引かせてほしかった。
「エリ、凄腕さんがルッシェリーナとばったり会ったら、どうなっちゃうかな?」
『凄腕さんは基本的に潜入中の遭遇を避ける傾向。ただし過去の潜入工作では、発見された場合に事故に見せかけて始末した事例がある』
「ひょえ〜〜〜!!」
血の気が引いた。
――ルッシェリーナが危ない。始末されてしまう!
凄腕さんはすでに寮のすぐそば。ルッシェリーナも寮へ戻っている。彼女を部屋に帰してはいけない。絶対に、いまだけは部屋へ近づけてはいけない。
ここからなら、走れば私の方がルッシェリーナより先に寮へ着けるはずだ。
――死ぬ気で全力疾走だ〜!!!
私は鞄を抱え直し、貴族寮へ向かって全力で駆け出した。
◇ ◇ ◇
「本当に大丈夫?顔色も良くないですよ」
ルッシェリーナは眉を寄せ、私の顔を覗き込んだ。
私はまだ息が整わず、返事の代わりに片手を上げる。深呼吸をしようとしても、胸がひゅうひゅう鳴るだけで、うまく空気が入ってこない。
少しだけ落ち着くのを待ってくれたあと、ルッシェリーナが静かに問いかける。
「どうしたの。わたくしに急ぎの用?」
なんとかしてこの場に引き留めなければ。ルッシェリーナが気にしている事。彼女が足を止め、こちらの話を聞かざるを得なくなる話題。
あれしかない。
「カレフィーネの……落第の件で……」
ルッシェリーナの目が、すっと鋭くなった。
――よし、食いついてくれた!
「詳しく聞かせてもらいましょう。……ただ、ここではあまり突っ込んだ話はできないですね。入室許可を取るので、わたくしの部屋に行きましょう」
ルッシェリーナは寮の玄関広間を見渡すと、自分の部屋へ私を導こうとする。
――ルッシェリーナの部屋だけはやめて〜〜〜!
私はまともに声が出ない状態のまま、ルッシェリーナの腕にすがった。
「部屋は……だめ……」
ルッシェリーナは困惑した顔で私を見下ろした。
「では……給湯室に行きましょうか。この時間なら人もいないでしょう」
――ルッシェリーナの部屋じゃなければどこでもいいよ!!
ルッシェリーナは、うなずく私を連れて歩き出した。受付で入室手続きを済ませると、私は来客用の上履きに履き替え、彼女に続いて廊下を進んだ。
「この寮の給湯室は、昔は侍女達の待機室だったそうです。今は学生が茶を入れたり、軽い菓子を置いたりする場所になっています。共同台所とは違って、火を使う料理はできませんけれど」
説明を聞きながらも、私は気になってしかたない。どこかで凄腕さんとすれ違うのではないか……。
給湯室は廊下の突き当たり近くにあった。中には小さな卓と数脚の椅子、茶葉の棚、湯を保温する器具が置かれている。
たしかにこの時間は誰もいない。
「せっかくですから、お茶でも入れましょう。落ち着いて話した方が良さそうです」
ルッシェリーナが奥の棚へ向かった隙に、私は胸元の石を押さえて、小さな声で話した。
「私に聞こえるぎりぎりくらいの音量で、この後の質問に答えるとどう聞こえるか教えて?」
これはエリの回答を小声で聞くための呪文だ。依頼や命令ができないので、このような言い回しが必要となる。
「凄腕さんはいまどこ?」
『ルッシェリーナの部屋の前。鍵を開けるため、合鍵を作成中』
怖っ!合鍵って……さすがの手際の良さだ。でも、今は少しでも早い方が助かる。
もう一度小声の呪文を唱えて――
「ルッシェリーナをどのくらい引き止めればいい?」
『過去の事例から推測すると、凄腕さんの潜入に必要な時間はおそらく15分前後。長くても30分』
――30分か……。
たった30分。されど30分。
ここまで確認したところで、ルッシェリーナが盆に二つの茶器と急須を載せて戻ってくる。
私は心の中で拳を握る。
――よし、なんとしても30分引き止めるぞ!!
「それで、どうして突然わたくしを訪ねてきたの?」
「ルッシェリーナに聞いて欲しい事があるんだけど……どう話せば良いのかわからなくて……」
「カレフィーネの落第の件ですね?」
私はうなずき、茶器に口をつけた。温かい茶の香りが鼻をくすぐる。少しだけ落ち着いたが、頭の中はまだ全力で回転している。
賢者の石で確認した内容は話せない。カレフィーネには守秘義務があり、説明会の内容は「不正」を含め、私にも話をしていない。だから説明会の部屋の中で起きた事を、私が知ているのはおかしい。
あくまでも事務局の落ち度という形で、私が関わった範囲だけを話すのであれば大丈夫……かな?
私が目をおよがせながら考えをまとめていると、ルッシェリーナが尋ねてきた。
「もしかすると、わたくしに話しても良い範囲が線引きされているのですか?」
おそらく、ルッシェリーナの想定とは異なる理由になるのだろうが、私はこくりとうなずいた。
「わかりました。可能な範囲で良いので聞かせてください」
ありがたい。話が早い。
――いや、話が早く終わってはいけないんだけどね……。
私は成績説明会の前後について、自分が実際に関わった形に整えながら、ゆっくりと話し始めた。
カレフィーネが落第の発表で大きな衝撃を受けていた事。成績説明会を申請するには10札幣が必要で、学生には重い負担だった事。そこでセルヴィンに相談して費用を借りた事。カレフィーネの異母兄に内緒で連絡を取った事。そして当日、会議室にはディアネリス教授も参加していた事。
「ディアネリス教授が参加していたのですか!」
ルッシェリーナの声が一段高くなった。
「うん。なぜなのかは知らないけれど……」
「絶対に何かありますね……。ディアネリス教授やカレフィーネのお兄様に取材するのは、新聞社を通さないと無理そうですが……」
ルッシェリーナは茶器を置き、考え込むように視線を落とした。
その横顔を見ながら、私はひそかに時間を数える。
まだ10分くらいしか経っていない。
――やばい。話す事がもうあまり残っていない。
焦りが顔に出そうになった、その時だった。
「では、セルヴィンさんについて伺っても?」
――おおっ、珍しい!セルヴィンが役に立っている!
「セルヴィンさんは、ずいぶんとあなたに感謝しているようですが、届けた財布には、そんなに大事なものが入っていたのでしょうか?」
私は一瞬だけ言葉に詰まった。商印章の事は言わない約束だ。
「私は中を見ていないけど、貴重なものというよりも、他人に見られると超恥ずかしいものでも入っていたんじゃないかな。私は本当に中を見ていないんだけどね。あはははは……」
ルッシェリーナは少しだけ目を細めた。あんまり信じていなさそうだ。
「では、セルヴィンさんの実家の商会が『鎮』の家と取引があるか、ご存じですか?」
「鎮家?お貴族様だよね?」
私は首をかしげたふりをしながら、内心で冷や汗をかいた。
――鎮家って、例の不正を依頼した貴族だったような……。
「そこまでは知らない。セルヴィン先輩の家の商会については聞いた事がないよ」
「そうですか」
ルッシェリーナは残念そうではあったが、納得したように取材帳へ何かを書き込んだ。
その後も、彼女は角度を変えて質問を重ねた。
説明会の申請書は誰が書いたのか。費用を借りる相談はいつしたのか。カレフィーネの様子はどうだったのか。私は答えられる範囲だけを慎重に選んで返した。
時間が少しずつ過ぎて、茶器の中のお茶はすっかりぬるくなった。
「ミリアナ、ありがとうございます。あなたが勇気を出してくれたお陰で、今回の事件の裏に潜んでいるものが少し見えてきました」
ルッシェリーナは静かにそう言った。
「一度部屋に戻って取材帳を置いてきます。まだお茶が残っているので、良ければお茶を飲んでいてください」
私は心の中で悲鳴を上げかけたが、同時に時間を思い出した。
もうすぐ30分。
――よく頑張った。私、すごく頑張ったよ!
「うん。大丈夫だと……思う」
そう答える声が、少し震えていたかもしれない。
ルッシェリーナは不思議そうに私を見たが、追及せずに立ち上がった。
「では、すぐ戻ります」
給湯室の扉が閉まる。
その瞬間、私は胸元の石を握りしめた。
「エリ、凄腕さんは今どこ?」
『既に寮から退出。諜報部の拠点へ帰還中』
私は机に突っ伏した。
「は〜〜〜っ、良かった……。もう、しばらくは動きたくない……」
今回はいろんな意味で心臓に悪かった。
しばらく放心状態で机に顔を伏せていたが、ふと気がつくと、ルッシェリーナが横に立っていた。
その顔が深刻で、どこか険しい。
「……ルッシェリーナ?」
「単刀直入に聞きます。……ミリアナ、あなた、わたくしの部屋に侵入しましたか?」
「えーっ?なんで!!」
――なんでそうなるの!私は無実だよ!!
幸い、守衛さんの証言ですぐに誤解は解いてもらえたよ。やれやれ。
悪魔: 凄腕さんは偽の写像機と入れ替えて、部屋の鍵も閉じていった。ルッシェリーナは違和感を感じた程度のはず。




