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たとえ愛が存在しなくても、この声にだけは愛を込めて  作者: 海坂依里
第6章「私たちの未来に名前をつけるなら」
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第3話「叶えたい夢があるから」

「橋本さん、スタジオ入りましょうか」

「あ、私が扉を押さえます」


 私の中で、とても大きくて、とても心強い存在だった彼。

 彼は私の中で、一生恩人であり続けるのだと思う。


「え、俺がやりますよ」

「いつだったかのときは夏都くんに譲ったので、今日は私に譲ってください」


 勇気を出すことができなかった自分。

 そんな自分が勇気を振り絞って彼と関わったことで、彼の救いになんてなれないことは分かっている。


(でも……)


 私は、やっぱり彼と関わってみたい。


(彼がいる世界で、私も声の芝居を続けたい)


 時間が流れていくのと同時に、空も一緒にどんよりと黒ずんでいく。

 星の瞬きも月の明かりすらも見えない空が雲で覆われているはずなのに、なかなか雨だけは降ってきてくれない。

 まるで、空が泣くのを必死で堪えているみたいに思えた。


「泉くん、今日は凄く叫びましたね」

「橋本さん! 緊張のしすぎで喉を潤したくても、飲み物が喉を通らないです……」


 マイク前から戻ってきた夏都くんは緊張で身体が可笑しなことになっているらしくて、臓器のあちこちが悲鳴を上げているような挙動不審な態度。

 それを見た先輩声優さんやスタッフさんはマイクが切られた、この時間に笑い声を上げる。


(この空気、好きだな)


 絶対的な大丈夫は、存在しない。

 それでも、こうして声優として仕事をさせてらうと、気持ちが落ち着いていくのが分かる。

 絶対的な大丈夫が存在しない声優業界を生きているはずなのに、これからも声の芝居を続けたいっていう欲は次から次へと溢れていく。


「泉くん、落ち着いて、お水をどうぞ」

「ありがとうございます……」


 感染症対策で、少人数での収録は相変わらず。

 でも、私は今日、夏都くんと同じグループで収録をさせてもらっている。

 収録が終わった夏都くんを迎え入れることができるほど夏都くんの近くにいられるような、それくらいの大役をいただくことができた。


「うん、とりあえずは主役でいられそうかな」

「主役でいさせてください! 主役でいさせてください! お願いします!」


 同じグループで一緒に収録させてもらっている先輩声優が、夏都くんに向けて呑気な声を投げかけてくる。

 でも、その呑気な声こそ、夏都くんは大丈夫っていうお墨付きのようにも感じられた。


「はぁ」

「幸せそうな溜め息で、安心します」

「ありがたいことに」


 ここで言わなきゃ、後悔する。

 いつも夏都くんから、背中を押してもらうだけではいられない。

 指を曲げて、指を伸ばして。

 それらの動作を繰り返して、私は勇気を整えていく。


「夏都くん、主役おめでとうございます」


 私の声が、夏都くんの背中をポンと押すことができるように。


「え、え、橋本さん、ここスタジオ……」

「今日は喜びに浸りまくる日として、許してもらおうかなと」


 仕事の場では、苗字呼び。

 それを徹底していくのはこれからも変わらないけど、夏都くんの声の芝居を直に感じることができた私は彼の名前を呼んだ。


「……冬優さん」

「って、スタジオでは……」


 大切な大切な、大切な人に名前を呼ばれる幸福を。


「なんか、今日の俺、感傷的になりすぎてるかも」


 大切な大切な大切な人を、名前で呼ぶことができる幸福を噛み締める。


「これからもずっと、夏都くんの幸福が続きますように」


 夏都くんと出会うまでは、自分の人生に対して俯くことしかできなかった。

 自分の人生から、目を逸らすことしかできなかった。

 心の中で繰り返されるのは、過去の自分に向けたごめんなさいの言葉。


「冬優さん……ここで泣いたら、俺、セリフ言えなくなっちゃうんですけど……」

「夏都くんは、私の言葉に(なび)くような役者さんではないはずですよ」


 夏都くんの声を聞くと、あ、私はやっぱり夏都くんの顔が見たいって思う。


「褒め上手ですね」

「私、夏都くんよりも年上なので」


 この場に、夏都くんと言葉を交わすことができる相手は私しかいない。

 夏都くんが私のことを気にしてくれているってことは、彼の視線が私に注がれているということ。


「……隣の席って、いいですね」

「夏都くんと話をしていると凄く落ち着いて、いい芝居ができそうな気がしてきます」

「このスタジオにいるみなさんと、冬優さんと、いい芝居……したいですね」


 隣から、声が届けられる。

 優しい声。

 優しすぎる声が、私のことを呼ぶ。


「私、夏都くんの声も、お芝居も大好きです」

「冬優さん、優しすぎ」


 夏都くんは、きっとこういう人。

 私の面倒見が良いどころの話ではなく、心の底から優しい人。

 突き放してくれたっていい。今まで起きたことを冗談で済ませたっていい。

 それなのに、返ってくる言葉は私を気遣うもの。


「私も夏都くんみたいに……」


 夏都くんが、笑ってくれている。

 気を遣って、穏やかな笑みを浮かべているだけかもしれない。

 けれど、夏都くんが優しい眼差しで私を見守ってくれることに私は安心した。

 瞳から溢れ出そうになる雫を堪えながら、私はなるべく口角を上げた笑顔で夏都くんと向き合う。


「誰かを勇気づけることのできる役者になりたいです」


 今は、無理矢理に作り込んだ笑顔かもしれない。

 でも、いつかは夏都くんの前で、自信を持って自然な笑みを向けられるようになりたい。

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