第7話「名前」
「でも、冬優さん、飲み物ないと困りますよね?」
綺麗な瞳を表現する言葉なんて、いくらでも存在するはずなのに。
それなのに、私の中の語彙力というものは消滅した。
「私は仕事がないので、あとは家に帰るだけです」
優しく笑むことのできる夏都くんに見惚れて、彼の澄んだ真っすぐな瞳を表現する言葉が見つからない。
「良かったらどうぞ」
いつまでも夏都くんの表情ばかりに魅入られているわけにはいかない。
私は不審者扱いされても可笑しくない行動をとっているのだから、何かしらの言葉を紡いで誤解を解かなければいけない。
「毒は入っていない……と思います。そのペットボトル、まだ開いていないので」
「ははっ、毒なんて考えてもいませんでしたよ」
毒が入っていない根拠はない。
けれど、夏都くんの警戒心を解くためにも適当に言葉を付け加えた。
「でも、これから仕事なら、飲み物持ってますよね?」
「今日は、冬優さんに甘えます」
スタジオがあるビルの出入り口を塞ぐように立っていた夏都くんは、扉付近の柱にもたれ掛かるのをやめた。
たった一歩程度しか動いていないのに、どうしてこんなにも夏都くんの声が響くように感じるのか分からない。
気まずい空気に屈して下げていた視線を上げると、そこには優しい笑みを浮かべた夏都くん。
「今日の仕事、不安だったんです」
夏都くんが歩を進めたのだから、夏都くんとの距離が縮まったのは当然。
ほんの少し歩み寄るだけで、夏都くんとの声を近くに感じるのは当然。
「冬優さんに会えて、ちょっと落ち着きました」
それなのに、その、当然を受け入れるのに時間がかかった。
完全に思考が停止してしまって、私は再び夏都くんと見つめ合う形になってしまった。
「ははっ、やっと目が合った」
このままずっと。
このまま永遠に、夏都くんと見つめ合うことになるような。
そんな錯覚を引き起こすような。
不思議でぼんやりとした感覚に囚われていると、夏都くんは私の時間を動かすために声を発してくれた。
「人の目を見て話すことが大事って言われても、なかなか恥ずかしくて見ていられないときもありますよね」
夏都くんの声が、夏都くんの声だけが、頭の中に響き渡る。
街は忙しなく人が行き交っているため、常になんらかしらの音が聞こえる。
無音なんてものとは縁遠い騒がしさが存在しているはずなのに、彼の声だけは鮮明に聴覚が聞き取ってしまう。
「俺の話を聞き入れようとしてくれて、ありがとうございます」
夏都くんの声だけが、聞こえる。
夏都くんの声だけが、届く。
夏都くんの声だけが、私の聴覚へと運ばれてくる。
「冬優さん?」
そんなこと現象は起こるはずがない。
だって、ここは二人きりの場ではないから。
だから、夏都くんの声だけが響きだすっていうのは可笑しな錯覚……錯覚……?
「名前!」
「冬優さんの名前が、どうかしました?」
違和感。
でも、不快な違和感じゃない。
普通は違和感の正体が分からないと、息苦しくなるようなむず痒さのような心地よくないものが体と脳を支配していく。
「私の……名前……」
違和感。
でも、ちっとも不快じゃない。
不快に思えない。
「私の……名前……」
ただの、同級生。
ただの、同業者。
「あ……その……名前を呼んでもらえたことに驚いたっていうか……」
ただ、それだけの関係だったはずなのに。
夏都くんが私の名前を呼ぶという、そんな奇跡にも近い出来事が起きている。
「橋本冬優さん」
胸元に下げていた視線を、夏都くんの綺麗な瞳に戻す。
すると、夏都くんは何か面白いことを見つけたかのように楽しそうな笑みで私を見つめた。
「俺なんかの声で良ければ、いつだって冬優さんの名前を呼びますよ」
泉夏都くんと、橋本冬優の間に、接点が生まれる。
日向を生きる人と、日陰を生きる人に接点なんて生まれるはずがないと。
自惚れるなと、自身を叱咤するために脳が活動を始めるのが日課だった。
「夏都くん……」
でも。
でも。
でも。
「ありがとう……ございます……」
こうして、ちゃんと言葉を交わしたのは今日が初めてではないはずなのに。
こうして、ちゃんと話をしたのは今日が初めてではないはずなのに。
「ありがとう……」
心が嬉しいって叫んでいる。
「頑張ってきて……良かった……」
心が、泣きそうになるくらいの幸福感に満たされている。
「積み重ねてきた努力……無駄じゃなかったんだなって……」
新人声優が名前を覚えてもらうには、とてつもなく大きな苦労を伴う。
作品に携わっているスタッフの方に名前を呼んでもらえるなんて奇跡的な話で、呼んでもらえたとしても次に会ったときには忘れさられる。
それが新人声優の宿命だと思っていた。
「本当に……本当に……ありがとう……」
それなのに、私は夏都くんに名前を記憶してもらえていた。
「私も事務所に寄って、ちょっと不安になってました」
「声優業界あるある……芸能界あるあるですよね。名前問題」
初対面じゃない人から、初めましてって言われたときの衝撃は大きい。
でも、自分は名前を覚える価値すらないって事実は認めなきゃいけない。
「名前を覚えてもらう幸せ、久々に取り戻せました」
「ふーゆさんっ」
「私が夏都くんの心配をしたのに、私が幸せになっちゃいましたね」
「もっと幸せになっちゃってください」
自分の名前を記憶してもらうために頑張り続けている最中なのだけど、夏都くんと話をしていると自然と笑みが零れてくる。
あんなに苦労しているのに、こんなに苦労しているのにっていう苦労話は山のようにある。
それなのに、その苦労話が笑い話のように感じられるのは夏都くんの話し方が上手だからかもしれない。
「夏都くん」
「はい」
「とっても重い言葉かもしれませんが……お仕事、頑張ってください」
特別、意識しなくても笑えるようになった。
だから、スタジオに向かおうとしている彼を笑顔で送り出す。




