第6話「出会う」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
お疲れ様です。
この八文字に、どれだけの想いを乗せることができるか。
誰かに試されているわけではないけれど、試されているような。
たった八文字の言葉に、相当な気を遣ってしまう。
この感覚は、新人声優独自のものなのか。
それともプロ声優だったら、誰もが持ち合わせている感覚なのか。
(仕事がないと、私は食べていくことができないから……)
私にとっては別世界を生きている人気声優の人たちとも、オーディションという名の戦場で戦うときがある。
でも、どんなに私の戦闘力が低くても、戦いを勝ち抜かなければ私の元に仕事は巡ってこない。
(食べていきたい……な)
好きで飛び込んだ世界だけれど、とんでもない世界に飛び込んだという気持ちも湧いてくる。でも、それでも私はキャラクターの命を生きる声優になると決めた。
(……あれ?)
覚悟を決めながら街を歩いていると、制服姿の見知った彼の姿を見つける。
(そっか、ここらへんスタジオが多いから……)
群衆に紛れた私を夏都くんが見つけてくれることはなかったけど、これでいい。
ここで望んでいたのは、夏都くんが私を見つけるという運命的な展開ではない。
ここで迎えなければいけない展開は仕事に向かう夏都くんを見て、自分を鼓舞させること。
(次こそ、オーディションに合格したい)
夏都くんに見つからなかった私は人混みの中に溶け込む決意を固めたけど、肝心の夏都くんは近くにあるスタジオに入る様子を見せない。
(何を見てるんだろう……)
癖、かもしれない。
足元を見る癖。
私が視界に入れている泉夏都くんは、元気がなさそうな雰囲気をまといながら床に視線を向けていた。
「…………」
物思いにふけるという言い方もできるかもしれないけれど、アスファルトに視線を注ぐ夏都くんに私は違和感を抱く。
だけど、その違和感を抱くこと自体が間違っていることにも気づく。
(私は、夏都くんのこと……ほとんど知らない……)
勝手に、夏都くんを素晴らしい声優と祭り上げているのは私の方。
声優の仕事をしていないときの夏都くんは、こんな風におとなしいのかもしれない。
夏都くんのことを元気いっぱいの男の子と、一方的に決めつけるのは良くないと気づく。
(ただ普通に、通り過ぎればいいだけ……)
夏都くんの前を通りかかるまで、あと数歩。
「…………」
その数歩の間、私の心臓は激しく動き始める。
(どうしよう……)
まるで、知っている先輩を見かけたのに挨拶をせずに無視して通り過ぎていくときの心境。
そもそも先輩声優を無視した経験はないのだけど、今の心境はきっと先輩声優を無視するときの感覚に近いと思う。
「…………」
明らかに、足の動きが遅くなる。
なんとなく。
なんとなく。
夏都くんの前を通りたくない。
(でも……)
普段は眩しいくらいの輝きを放ちながらキャラクターと接している夏都くんと、今の夏都くんは明らかに別人。
声優に詳しい人が街を歩いていても、夏都くんがここにいることは気づくことができないかもしれない。
(余計なお世話……)
一日に、何人。何十人。
どれだけ多くの人たちと、《《初めまして》》と言葉を交わし合っているか分からなくなるような生活を送っている。
想像できないくらい大勢の人たちと言葉を交わしている夏都くんに、私という余計な存在を映して迷惑をかけたくない。
(さっき、学校で会ったばかりだけど……)
夏都くんに水を差し入れたからといって、何かが変わるわけではない。
むしろ、何も変わらない。
でも、言葉を交わすきっかけにはなると思って、私は夏都くんに差し出すためのペットボトルを鞄の中から取り出す。
「…………」
視界に映る景色の中には、元気がなさそうな人なんて大勢いる。
夏都くんに限った話じゃない。
だからこそ、私が夏都くんを特別視して水を差し入れるのは変な話。
でも、私から声をかけようと思った。
何か変わらなくてもいい。何も変わらない方がありがたいときだってある。
「あの」
声を出す。
「気分、悪い?」
そして、ほんの少しの嘘を混ぜる。
「大丈夫?」
プロの声優が口にしたら、確実に喉を壊してしまいそうなくらい冷たい水が入ったペットボトルを夏都くんの額に当てる。
「勝手なことをして、ごめんなさい」
夏都くんが具合悪そうに見えた、なんて嘘。
夏都くんの元気がなさそうに見えたから、放っておけなかった。
これが、正解。
でも、その正解を口にすることはできない。
「体調が悪かったら、マネージャーさんに報告して……」
ペットボトルを夏都くんの額に当てることで、私は夏都くんの視界を塞ぐことにも成功した。
こうすることで、私は夏都くんの瞳を見ないで話を進めることができる。
(こういうのを身勝手っていうんだろうな……)
身勝手と呼ばれている日本語の意味を、まさか自身の体で体感する日が来るなんて思ってもみなかった。
「すみません! スタジオの出入り口を塞いじゃって……」
アスファルトに向かっていた、彼の指先が上がっていく。
「残念ながら、私は出演者ではないので」
そして、その指は私が差し出したペットボトルへと向かっていく。
「冷たっ……このペットボトル、買ったばかりですか?」
「こんなに寒いのに、差し出がましいことをしてしまってごめんなさい」
私が手渡したペットボトルを受け取ってくれた夏都くん。
だけど、受け取ってくれたってことは、夏都くんの視界を塞ぐものがなくなったということ。
私と夏都くんは、目を合わせなければいけない状況に立たされたということ。
「ありがとうございます、冬優さん」
名前を呼ばれた。
名前を、呼んでもらえた。
それは、泉夏都くんが私のことを記憶してくれているという証でもある。




