第1話「芸能界でも闘う」
今日も、自分の指を曲げて伸ばし手を繰り返す。
いつも通りが送れていることに安堵しながら、私はついさっきまで使っていた台本を鞄の中へと片づける。
(制服を着られるのもあと少し……)
今日は日曜の昼間に収録だったため、久しぶりに私服で収録スタジオに来ることができた。
制服を着ていない私が収録スタジオで目立つことはなくなってしまって、率先して声をかけてくれる人の数がごっそりと減ってしまう。
(制服って、話しかけるきっかけになってたんだ……)
学生が制服姿で収録スタジオに来ていたら、それだけで話題の種になっていたことにいまさら気づかされる。
誰にも話しかけられない寂しさを抱えながら、今日も私はスタジオの出入り口の扉を押さえる係を務める。
「おはようございます、V-leap所属の遊川穂乃花です」
「おはようございます、|KUGA promotion所属の橋本冬優です」
どんな仕事場に行っても、いくら普段から親しくしてもらっている人に出会っても、挨拶というものは基本中の基本。
挨拶なしで社会を生きていけるほど、世の中は甘くない。
「昔に比べると、挨拶する人の数……随分減っちゃったなぁ」
人を不快にさせない笑顔を浮かべることは、社会人としての常識なのか。
この業界は朗らかな笑みを浮かべることができる人ほど、声優としての生存率が高いような気がする。
綺麗な笑顔で共演者やスタッフを魅了する遊川さんが、誰にも話しかけてもらえない私に声をかけてくれた。
「感染症が流行する前は、もっと大人数で収録していたんですよね?」
「うん、先輩のお芝居を目の前で聴くことができるの」
「凄く羨ましいです」
一緒にスタジオの扉付近にいるのに、第一声は必ず遊川さん。
遅れをとってしまうだけでなく、遊川さんが私を気遣って挨拶のタイミングを作ってくれたところもあった。
それだけ夏都くんの知り合いの遊川さんは気遣い上手な人だった。
「でも、橋本さんは、ベテランさんと共演する機会が多い方だと思うよ?」
「前の事務所のときは、結構推してもらったので……」
「私も事務所に推されるような人生を歩んでみたいっ」
夏都くんと親しげに話していた雰囲気が印象に残っていたから、遊川さんはまだ高校生くらいの年齢かと思っていた。
けど、実際は私よりも三歳年上のお姉さんだった。
遊川さんは一つ目の養成所では結果を出すことができず、夏都くんと出会った三つ目の養成所で声優事務所への所属を決めた人だった。
「私は、その……事務所の期待を裏切ってしまった人間なので……」
「本当に期待を裏切っちゃった人は、別事務所に移籍なんてできないよ?」
「……ありがとうございます」
感染症が流行してからは、少人数のグループ単位で収録することが多くなった。
感染症が落ち着いた今でも、感染症対策で少人数での収録は続いている。
そういう事情もあって、三か月のレギュラーを共にする遊川さんとは話す機会が自然と増えていった。
「私はね、三つ目の養成所で所属が決まった劣等生だから」
「生き残りたいですね、この業界に」
「橋本さんにも負けないよー」
声優を目指すために、私たちは専門学校や養成所などの育成機関に通わなければいけない。
一つ目の育成機関で芽が出ればいいけれど、小木下くんや遊川さんのように別の育成機関を経て芽が出る方もいる。
経済的には早く芽が出た方がいいけれど、長い目で見ると、どっちがいいかなんて分からない。悲観するには、まだ早い。
「でも、一年って本当に大きいよね」
遊川さんが、どういう意味で一年を指しているのかは分からない。
でも、遊川さんの言葉の意味を、私はよく理解できる。
病気で学校も仕事も休んだ三年間は、とても大きかった。
同期として仕事をしていた七春ちゃんなんて、どう努力したところで追いつけないくらい遠いところに行ってしまった。
「二十代前半って、世間的に見ればまだ若い。でも、声優業界だと、もう二十代前半で、後輩が数えきれないほどいるんだよね」
遊川さんは苦笑したような表情だったけど、やっぱり綺麗な笑みを浮かべていた。
人を不快にさせない綺麗な優しい笑みで、そんな笑みを浮かべることのできる遊川さんが羨ましい。
(私、ちゃんと笑えてるかな……)
当たり前を当たり前にやり遂げられる人に、ならなければいけない。
当たり前のことが、当たり前にできるような人材にならなければいけない。
「橋本さんは三月で高校卒業だから、仕事量増やせるね」
「増えるといいんですが……」
「二十歳は需要の宝庫だよ」
プロになる。
プロとして仕事をもらっている以上、もう弱音は言っていられない。
できないなんて言葉を吐くことは許されないってことを、私たちは日々を通して学んでいく。
「橋本さんは実家住まい? それとも家、出るの?」
「希望としては……実家を出たいなと」
「おっ、だったら仕事量増やさないと」
「頑張ります……」
自然と溢れてくる笑顔を私に向けてくれる遊川さんに心が和むのを感じていると、収録スタジオに入る時間になった。
その足取りは決して重いだけのものではなく、仕事が楽しみっていう気持ちを足にも込めてみたいと思った。
(プロとしての顔、整えたい)
いつだって知らない世界で、知らない場所で、何かが動いている。
良いことも悪いことも、一緒になって動いている。
それは時間が止まっていないという証であるから、時々怖くなる。
生きるということは、そういうこと。
流れる時間にと共に、歩んでいくということ。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
扉係を務めると、先輩方を見送るってだけじゃなくなっていることに気づく。
スタジオから出て行く人たちの中には何人もの後輩がいて、私が病気で仕事を休んでいる間にも声優としてデビューしていた人たちがこんなにも大勢いたのかと驚かされる。
「俺も同じ役、受けたー……」
「誰か夏都の勢いを止めてくれ……」
スマホを触りながら、スタジオを出て行こうとする男性共演者。
年齢は私よりも上に見えるせいか、声優デビューして間もないっていう初々しさがないところが格好よく見える。
大人の男性特有の余裕ってものなのかもしれない。




