幹線の客車列車
鉄道旅客車両を、電車、気動車、客車に区分すると、令和の今、最も希少は客車である。
機関車に牽引される乗り心地を体感しようと思えば、イベント列車にでも乗らない限り、なかなか難しくなっている。
昭和53年10月改正当時、客車は主力のひとつであった。ブルートレインと呼ばれた寝台特急から、14系特急型座席車、12系急行型座席車、雑多な形式の旧型客車に至るまで、様々な列車に使われていた。
余談ながら、昭和53年10月改正号では新型客車として、通勤・通学用の50系客車が紹介されている。赤一色の車体は、くすんだ茶や青ばかりの旧型客車より目にも鮮やかで、幅広の乗降ドアは自動で安全性を重視したものと謳っている。
けれども、明治・大正ならいざ知らず、自動ドアが「売り」とは恐れ入る。写真に写る車体に冷房はなく、ご自慢の幅広自動ドアも車体の両端にあって、通勤・通学用の車両として機能的であったのかどうか。旧型客車よりは比較優位かもだが、当時の世間一般の感覚からすれば、冷房もない「新型車両」などありえないものだったろう。しかしながら、国鉄には、車両のサービスレベルに厳格な基準があり、地方の普通列車に冷房を奢るなど、とんでもないことだったのかもしれない。ともあれ、新型車両を出すほどに、当時、客車列車はありふれた存在であった。
東海道本線・山陽本線では、特急や急行に多く客車列車があった。普通列車は他線区へ直通する列車にあった。
例えば、草津線から下り3本、上り2本が直通しており、草津ー京都間を走っている。ただ、悲しいかな鈍足で、いずれも後続の普通電車に抜かれてしまう。
下り721列車など、7時4分着の草津駅で6分間も停車する。7時10分発で京都に7時41分に着く。途中、瀬田駅には停車しない。にもかかわらず、瀬田駅にも停車する7時12分草津発の923Mに大津ー山科間で抜かれる。923Mの京都着は7時39分である。これなら、草津でのんびり停まってないでさっさと発車するか、停車駅をもっと減らして京都着を早めるかすればいいと思うが、いろいろ事情があったのであろう。当時の通勤・通学客は草津で乗り換える人が多かったのではないか。あるいは、大津までの客が多かったので、このダイヤで差し支えなかったのかもしれないが。
岡山ー倉敷間には、伯備線に直通する客車列車があった。こちらも電車列車より鈍足ながら、草津ー京都間のようなことは起こらない。そもそも列車本数が少ない。
幹線のローカル輸送の主力は客車であった。
運転区間は様々で、短距離もあれば、長距離もあった。長距離の普通列車は、機関車が電気やディーゼルに代わっただけで、蒸気機関車当時とほぼ変わりない。運転本数は限られており、運転時間はきわめて長い。
北陸本線523列車は、10時33分に米原を出る。敦賀で27分、福井で15分、金沢で18分、富山で15分という具合に、主要駅で長時間停車を繰り返しながら、北陸本線の終点・直江津に21時1分に着く。そこで33分停車してから、信越本線に踏み入れ、終着の長岡は23時23分。
かように長距離を長時間かけて走る。通勤・通学輸送含め、様々な役割を果たしながら。主要幹線では、そんな客車列車が多数運転されていた。
長野16時18分発323列車。信越本線を下り、直江津に18時26分に着く。そこから列車番号を1323に変えると、更に信越本線を下り続け、終着の新潟に22時41分に着く。この列車、「信越本線」という路線名をなぞるためにあるかのようだ。
なお、この列車と対になる上り列車は、新潟ー直江津間、直江津ー長野間で分離されている。直江津の停車時間が1時間12分に及ぶためだと思われるが、車両は同じであったろう。直江津を挟んで普通列車で移動する客は、いったん列車から降ろされていたのだろうか。車内清掃をやってくれるのであれば、動かない車内にいるよりいいかもしれない。
なお、323列車の前には321列車がある。これは9時49分に高崎を出て、12時52分に長野に着く。321列車の車両が323列車に引き継がれるのであれば、321列車、323列車、1323列車として高崎ー新潟間を12時間以上かけて運転されることになる。信越本線全線を通しで運転される列車と言い換えることができる。
上越線ができる前の高崎ー新潟間の経路をなぞる列車が存在していた。
と仮定するなら、趣味的には興味深い。
信越本線ほど輸送実態と線区の一体性が合致しない線もないであろうから、かつてのメインルートをなぞる列車は歴史を背負っていたと言えるのかもしれない。
ところで、夏目漱石の「三四郎」は、熊本の高等学校を出た三四郎が、汽車に揺られて上京するところからはじまる。
その情景には、明治の汽車旅の雰囲気が随所に散りばめられている。
「女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている」
「このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である」
「発車まぎわに頓狂な声を出して駆け込んできて、いきなり肌を脱いだと思ったら背中にお灸のあとがいっぱいあった」
「女とは京都からの相乗りである」
「三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた」
このあと、三四郎は「前の停車場で買った弁当」を食べる。食べ終わった弁当の折りを窓の外に放り投げる。その投げた折りが窓から首を出して外を眺めていた女の顔に当たってしまう。それが縁になったのか、名古屋止まりの列車を降りてから、三四郎は女に請われて宿を共にすることとなる。
列車が名古屋に着いたのは定刻から遅れること40分ほどで22時を回っている。けれども、夏の名古屋は「まだ宵の口のように賑やかだ」。場末の「きたない看板」の宿に入ると、「上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、どうぞお上がり、ご案内、梅の四番などとのべつにしゃべられたので、やむを得ず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった」。
その後、いたたまれなくなった三四郎は先に風呂に入る。すると、そこへ女が現れ、「ぎいと風呂場の戸を半分あけた」。そして「ちいと流しましょうか」と聞くので、断ると、かえってはいって来て、帯を解きだした。三四郎は「たちまち湯船を飛び出した」。
その夜、二人はひとつしかない布団で一夜を過ごすのだが、三四郎はガードを固めて、女となにもないまま、朝を迎える。翌日、駅での別れ際、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と女に言われ、三四郎は「プラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした」。
列車の中で三四郎はさまざまに思いを巡らせる。
「元来あの女はなんだろう」
「あんな女が世の中にいるものだろうか」
「女というものは、ああ落ち着いて平気でいられるものだろうか」
「無教育なのだろうか」
「大胆なのだろうか」
「無邪気なのだろうか」
そして「要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない」と思い定め、「もう少しいってみるとよかった」と悔やんでみたものの、それも「恐ろしい」と思い直す。
無垢な青年の衝撃は、明治にあっても変わらなかったようで、様々な妄想に支配されながら、汽車に揺られていたことであろう。読者にとっても、それは同じで、違った展開になれば、汚い宿の風呂場や蚊帳の中で、年上の子持ちの女がうぶな若者をどう指南するのか、あらぬ妄想を広げてくれる。
女に翻弄された三四郎と車内で一緒になったのが、「髭を濃く生やしている」、「面長のやせぎすの」、「どことなく神主じみた男」だった。ここでも、車内の情景が描かれる。
「男はしきりに煙草をふかしている」
「三等へ乗っているくらいだからたいしたものでないことは明らかである」
「豊橋へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目をこすりながら降りていった」
「髭のある人は、窓から首を出して、水蜜桃を買っている」
「さんざん食い散らした水蜜桃のたねや皮やらを、ひとまとめに新聞にくるんで、窓の外へ投げ出した」
「浜松で二人とも申し合わせたように弁当を食った」
「食ってしまっても汽車は容易に出ない」
ずいぶん話がそれてしまった。
漱石「三四郎」の書評をするわけではない。ただ、これら描写に、当時の汽車旅の雰囲気が見える。
駅のプラットフォームでは物売りがいて、水蜜桃を売っていたようだ。また、車内で食べたものを窓外に投げるのは、ありふれていたようだ。自由に窓を開放できるのだから、自然なことである。線路端には様々なゴミが散乱していたことであろう。
浜松のような大きな駅では長時間停車もあったようだ。
そして、九州から延々と山陽線、東海道線を揺られて東京へ向かう。途中、名古屋では宿に泊まっているが、名古屋に至るまでも、宿には厄介になったことであろう。
食事は駅の弁当で済ましていたようである。
列車には途中駅から乗り込んで、途中駅で降りる客の描写があり、発車まぎわに駆け込んでくる人は当時からいたようだ。
昭和53年10月改正当時に全国各地の幹線を走っていた長距離普通客車列車の姿に重なる。
ただ、違いがあるとすれば、中距離以上の都市間移動の役割を特急や急行に譲っており、長距離の移動に、鈍行にひたすら揺られることはなくなっていたということであろう。言い方を変えれば、目的にかかわらず、列車だけが旧態依然として残っていたとなろうか。
また、切符の有効期限が長距離になるほど何日にもわたることや、途中下車ができることも、普通列車での長距離移動が当たり前だった明治の鉄道の名残りと言えるかもしれない。
昭和53年当時、列車に乗り合わせた女が、ひとつ部屋に泊まることに黙ってつきあってくれたり、風呂場にまで現れて自ら脱ぐようなことがあったのかどうか。
それに近い経験をされた方はいたかもしれないし、そこで勇気ある対応をされた方もいたかもしれない。その結果、いい思いをしたで済んだ方がいたかもしれないし、嵌められて代償を払わされることになった方がいたかもしれない。
令和の今も含めて、ひとつ変わりないものがあるとするならば、想像が妄想を生み、その果てしなさに時を忘れて戸惑う若者がいるだろうということであろうか。
と、わけのわからぬ話になったところで、そろそろお開きとしたい。




