【8】婚約者の尊さを聞かされただけなのに、三時間が溶けました。〜圧迫面接は、ケーキと去る〜
厳選されたダージリンティーから、最高級の白ワイン。
世界各国の一流菓子が、完璧な配置で並べられたテーブル。
だが――
完璧なマナーでスイーツを口に運ぶアンジュを除き、
その場にいる者たちの会話は、目に見えない圧に包まれていた。
ルチアーノの父親が、低く厳しい声で問いかける。
「お二人の出会いは?」
ルシアンは、静かに一言だけ答えた。
「聖なる務めの場にて」
父親が、鼻で笑う。
「つまり……
君の婚約者は“働いている”ということか」
「ええ」
短く答えたルシアンのヘイゼルグリーンの瞳には、
年長者の威圧すら押し返す、揺るぎない誇りが宿っていた。
父親はフンと鼻を鳴らし、白ワインに口をつける。
「君は、婚約者たるレディを働かせて満足しているのだな?
つまり、自分一人で彼女を養う自信が無い、と?」
ロクシーの目が、鋭く光る。
――来た……!
千年前の価値観、発動……!――
ルシアンは、父親を真っ直ぐに見据えて答えた。
「“養う”という発想そのものが、下劣ではありませんか。
働くことは、尊い行為です」
――正解……!
質問には質問で返す。
しかも正論……!――
ロクシーの内心で、静かな喝采が上がった。
だが、その思惑は、次の瞬間に裏切られる。
父親が、苛立ちを隠さぬ声で言った。
「ほう……。
それならば聞かせてもらおう。
君の言う、その“尊さ”とやらをな」
その瞬間――
ルシアンが、音も立てずに椅子から立ち上がった。
そして、ゆっくりとアンジュの前に進み、
静かに跪く。
胸に手を当て、
まるで聖なる誓約を捧げるかのように、
穏やかな声で語り始めた。
「アンジュさまは、
私にとって尊敬と敬愛の対象であり、
恐れ多くも天界の光です。
聖なる務めを果たし、
常に私に尊い導きをお与え下さる方。
慈愛に満ち、
揺るぎない信念を持ち、
その存在そのものが――」
その語りは、止まらなかった。
一時間。
二時間。
そして、三時間。
もちろん、
ロクシーの脚本には、一切存在しない展開である。
父親は、その三時間――
一度も言葉を挟むことが出来なかった。
否。
挟めなかったのだ。
反論の糸口も、
遮る隙も、
話題を逸らす余地すら見出せないまま。
なぜなら、
ルシアンの語る“アンジュの尊さ”には、
同じ言葉が、ただの一度も繰り返されなかったからだ。
称賛は尽きず、
論は破綻せず、
聖句のように連なっていく。
圧迫質問を仕掛けたはずの父親は、
いつの間にか、
静かな聴衆へと追い込まれていた。
一方、その“尊さ”の中心にいるアンジュは――
終始、微笑みを絶やすことなく、
スイーツを上品に口へ運びながら、
内心で呆れていた。
――まだ……?
まだ喋るのか、ルシアンよ……。
よくもまあ、これだけ私を褒め続けられるな……。
そして、紅茶を一口飲み、
何事もなかったかのように言った。
「おかわり!」
その一言が、
この三時間の異常さを、
何より雄弁に物語っていた。
その様子を――
少し離れた位置から、
ルチアーノが無言で撮影している。
ズッ友の勇姿。
そして、
その隣で完璧に“婚約者役”をこなすアンジュ。
これは永久保存だ。
何度でも見返す。
将来、何百年経っても語り継ぐ。
そんな確信に満ちた眼差しで、
ルチアーノは画面を見つめていた。
「……やっぱり、俺様のズッ友は最高だな……」
完全に浮かれ切ったその背中に――
ゴンッ。
ロクシーのヒールの踵が、容赦なく落ちた。
「……っ!?」
だが、ルチアーノは痛みを感じなかった。
それほどまでに、
この光景は“尊かった”のだから。
そうして――
日が傾き始め、バルコニーに差し込む光が長い影を落とし始めた頃。
ルチアーノの父親が、突如として席を立った。
だが、その動きにも気付かぬかのように、
ルシアンはなおもアンジュへ向かって語り続けている。
尊敬を。
敬愛を。
導きを。
光を。
一切の淀みなく。
一方のアンジュは――
さすがに満腹なのか、瞼がゆっくりと重くなり、
微笑みを浮かべたまま、うとうとと舟を漕ぎかけていた。
その静寂を引き裂くように、
雷鳴のごとき怒声が轟く。
「ルシアン殿! もう良い! やめんか!
わしは理解した!
だから――黙れッ!!」
その瞬間。
アンジュの身体がびくりと震え、
椅子から崩れ落ちそうになる。
だが次の刹那。
三時間も跪き続けていたとは思えぬ速さで、
ルシアンが立ち上がり、
流れるような動作でアンジュを抱き留めた。
優雅で、無駄がなく、
まるで一枚の絵画がそのまま動いたかのようだった。
父親のこめかみに、血管が浮かび上がる。
瞳は怒りと焦燥で燃えている。
――この場では……勝てぬ。
価値観が違う。
力の質が、違う。
だが。
――ならば、盤面を変えるまでよ。
父親は、わざとらしく咳払いを一つすると、
威厳だけを貼り付けた声で口を開いた。
「大声を出して、失礼した。
……だが、良いことを思いついてな」
空気が張り詰める。
「ルチアーノとロクシー殿のお披露目に、
盛大な宴を催そうと思うのだ」
父親の口元が、ゆっくりと歪む。
「我がモナコの宮殿で――舞踏会を開く。
各国の貴族、王族も招待する。
逃げ場のない、正式な社交の場だ」
視線が、ルシアンとアンジュへ向けられる。
「君たちも当然、
“地獄の王の親友とその婚約者”として出席してもらう。
異論はあるまい?」
ルシアンは、
腕の中ですやすやと眠るアンジュに一瞬だけ視線を落とし、
その眠りを妨げぬよう、声を低く整えて答えた。
「……ええ。喜んで」
ただ、それだけ。
その瞬間――
「うおおおおお……!!」
感動のあまり、
ルチアーノは最新型の録画機器を床に落とし、
「……っ!」
ロクシーは、思わず盛大な舌打ちを響かせた。
舞踏会という名の、
次なる戦場が――
静かに、しかし確実に、幕を開けた。
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