【9】舞踏会の前に、地獄が始まりました。〜魔女の練習場に入った時点で、もう詰みです〜
翌日、午前10時。
イレイナの荘厳な館――
その本館に連なる、ダンスホールの扉の前で、四人は立っていた。
イレイナが、静かに手を翳す。
すると、重厚な音もなく扉が開き、
正面と左右、すべてが鏡張りになった広大な空間が姿を現した。
床は磨き上げられ、天井は高く、
ここが“訓練の場”であると同時に、逃げ場の存在しない場所であることを、無言で告げている。
イレイナは、ゆっくりと振り返り、凄みを帯びた美しい微笑みを浮かべて、
アンジュ、
ルシアン、
ルチアーノ、
ロクシーを見渡した。
「ここが、練習場よ。
存分に、使いなさい」
淡々と告げる。
「料金は、ルチアーノから送金済み。
アドバイザー料も、きっちり受け取ってるわ」
選択肢は、ない。
この場に立った時点で、全員が理解した。
「ありがとう、イレイナ!」
ロクシーが、軽やかにパチンとウィンクする。
だが、その横で――
ルチアーノだけが、どこか浮かない顔をしていた。
その様子を見逃さず、ロクシーがジロリと睨みつける。
「……なによ?」
「あのー……その……」
次の瞬間。
ゴスッ。
ロクシーの肘鉄が、容赦なくルチアーノの横腹に突き刺さった。
「……あがっ……!
ロクシー先生……痛いであります……!」
ロクシーは、ゆっくりと人差し指を立てる。
「誰の父親のせいで、
私たちは、舞踏会なんて面倒くさいものに、出なくちゃならなくなったんだっけ?」
「……っ!」
ルチアーノは、即座に正座し、床すれすれまで頭を下げた。
「申し訳ございませんでしたッ……!」
その様子を冷ややかな目で見下ろしながら、イレイナが苛立ちを隠さず言い放つ。
「ルチアーノ。時間が無いの」
ぴしり、と空気が張り詰める。
「言いたいことがあるなら、さっさと言いなさい。
でなければ、今すぐ練習に入るわ」
「……でも……俺様……」
ルチアーノは、視線を泳がせ、ぼそりと本音を零した。
「……ダンス、苦手だし……」
その瞬間。
イレイナの雷が落ちた。
「あんたね……!」
床を叩くこともなく、声を荒げることもなく――
それでも、圧倒的な怒気が場を支配する。
「さっき、リビングで、
あんたとロクシーの脳に、私の魔術で刻み込んだでしょう?」
指を折る。
「ワルツ。
タンゴ。
スローフォックストロット。
クイックステップ。
ウィンナーワルツ。
ラテン。
ルンバ。
チャチャチャ。
サンバ。
パソドブレ。
ジャイブ」
淡々と、容赦なく。
「全部、踊れるの。
理解した?
グダグダ、言わない」
ルチアーノは、完全に黙り込んだ。
イレイナは、興味を失ったように視線を移し、ルシアンとアンジュを見る。
「ルシアンは?
全部、踊れる?」
「ああ」
短く、一言。
「……そう。さすがね」
次に、視線が向けられる。
「アンジュは?」
アンジュは、胸を張り、高らかに答えた。
「私か?
全部、踊れるぞ!」
――その瞬間。
空気が、止まった。
ロクシーが、瞬きを忘れ、ルチアーノの口が半開きになる。
そして――
ピキィン……!
イレイナの瞳が、まるで、“ドル”という音を立てたかのように輝いた。
――アンジュ……
やはり、恐ろしい子……!!
22歳で、この教養、この完成度……!
ただの、全米No1ランジェリーモデルじゃない……!
絶対に、広告代理店を立ち上げて、私の会社のミューズにするわ……!!
その野心を一切、表に出さず、イレイナは優雅に笑う。
「ホホホ……そう」
そして、感情を削ぎ落とした声で告げた。
「じゃあ――
まずは、ワルツから、踊ってみて?」
それは、提案ではない。
試験開始の合図だった。
そして――
ヨハン・シュトラウス2世の『皇帝円舞曲』が、ダンスホールに流れ出す。
まず、踊り出したのは、ルシアンとアンジュだった。
ルシアンは、一切の迷いなくアンジュを導き、
アンジュは、まるで羽根が生えたかのように軽やかにステップを踏む。
力強さと、優雅さ。
正確さと、柔らかさ。
すべてが噛み合い、二人の動きは、もはや「練習」という域を超えていた。
それを、ロクシーとルチアーノは、口を開けたまま見つめている。
イレイナは、腕を組みながら、満足そうに頷いた。
曲が終わっても――
ルシアンの呼吸は一切、乱れず、アンジュは楽しそうに微笑んでいる。
静寂。
そして、イレイナの氷のような声が落ちた。
「……ルシアンとアンジュは、合格」
一瞬の沈黙。
その“間”に、ロクシーは嫌な予感を覚え、
ルチアーノは、なぜか希望に満ちた顔をした。
「では――」
イレイナが、視線を鋭く走らせる。
「次。
ルチアーノと、ロクシーよ」
希望は、5秒で砕けた。
次に流れ出したのは、
ワルツの定番中の定番――
ヨハン・シュトラウス2世の『美しく青きドナウ』。
だが。
開始、わずか5秒。
「おじさん!!ステップが逆!!」
ロクシーの怒号が、ダンスホールに炸裂した。
次の瞬間、
ロクシーはルチアーノの手を振り払い、冷徹に言い放つ。
「まず、5キロはダイエットしないと、
ルシアンには絶対に勝てないよ?」
ルチアーノの顔色が、みるみるうちに真っ青になる。
「俺様が……ルシアンに勝つ……!?
む、無理であります……!」
ロクシーは、感情を一切乗せずに言い切った。
「この舞踏会で、新しい“契約”を結んだのを忘れた?
ルシアンに勝てば、成功報酬が出る」
一歩、近づく。
「やるわよ」
「……な、何をでございますか……!?」
ゴクリ、と喉が鳴る音。
ロクシーの眼は、完全に“軍師”のそれだった。
「ダイエットよ」
静かに、残酷な宣告。
「舞踏会は、体力勝負。
最後まで立っていられない人間に、勝ちはない」
ルチアーノが息を呑む。
「だから――
これからは私が、あんたの食事を全部管理する」
「そ、それは……」
「それと」
間髪入れずに続ける。
「ダンス練習に加えて、毎日20キロ、競歩」
「きょ、競歩!?
俺様、毎日ヨガタイムをこなしておりますッ……!」
ロクシーの動きが止まった。
「……ヨガ?」
絶対零度の視線。
ルチアーノは、反射的に背筋を伸ばす。
「……ヨガが、なに?」
低く、静かな声。
「一番痩せるのは、走ることでもない。
“歩くこと”よ」
一拍。
「普通なら会話ができる速度でいいけど、
舞踏会まで時間がない」
ロクシーは微笑んだ。
「だから、競歩。
止まれない、休めない、逃げられない。
行くわよ」
「ま、待って下さい……!
俺様、一人で競歩するのでありますか……!?」
恐怖で震えるルチアーノ。
その背中に、
ロクシーは余裕たっぷりの笑みを向けた。
「私が、あんたを一人ぼっちで競歩させると思う?」
背筋に、悪寒が走る。
そして、ロクシーは、
子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「私が、併走してあげる」
一拍置いて、宣言。
「ハーレーダビッドソンで」
「ヒィィィーーーッ……!!」
排気音と振動の幻覚に震えるルチアーノの襟首を掴み、
ロクシーはずんずんとダンスホールを引きずって行った。
残されたホール。
アンジュが青い瞳を輝かせ、ルシアンを見上げた。
「ロクシーの本気は、素晴らしいな!」
ルシアンは、ほんのわずかに口元を緩めて答える。
「彼女なりの、美学では?」
イレイナは――
教師としての矜持を総動員し、
吹き出しそうになるのを、必死で堪えていた。
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