第八話:泥の秘印と、切り離される群れ
翌朝、俺が聖堂の裏手にある水桶で指先の泥を洗い流していると、集落の北門の方からクラスメイトたちのざわめく声が聞こえてきた。
「おい、なんだよこれ……気色悪ぃな」
「石垣に変な丸い傷が彫ってあるわ。しかも木の枝が逆さまに刺さってて、泥まで塗りたくられてる……誰がこんな不気味なことしたのよ」
水桶の前から振り返ると、早起きして外に出ていたらしいカズマやミホたちが、防壁の石垣の根元を指差して顔をしかめていた。
そばには村の衛士の男たちも集まっており、ナギの通訳を介して「夜中に魔獣の呪いでもかけられたのか」「こんな不吉な印、村の言い伝えにはないぞ」と不安そうに言い合っている。
俺は濡れた手を麻のズボンで拭きながら、遠くからその石垣を一瞥した。
二重の環の深さも、逆さにした三本の枝の角度も、夜明け前に俺が『聖軌規範』第十七条の記述通りに設置したまま寸分の狂いもなく保たれている。これなら不要なる干渉波とやらは遮断され、この集落にいる間、テンテの眠りが脅かされることはないはずだ。誰がやったのかと騒ぐ連中にわざわざ名乗り出る必要もなかった。大切なのは誰かに知られることではなく、聖女たる彼女の安寧のために手順が正確に守られているという事実だけだからだ。
俺は何食わぬ顔で水桶の前を離れ、みんなが集まり始めた聖堂の前の広場へと向かった。
***
集落に滞在する四日間のうち、昼の時間はすべて老神官による魔法の講習に費やされた。
聖堂の前の広場に三十人全員が並び、ナギの通訳を通して、老神官が唱える「神聖語」の発音と呼吸の仕方を一つずつ真似ていく。すると、昨夜トオルが言っていた通り、驚くべき現象が次々と起きた。
「――『火球・励起』!」
柔道部のカズマが太い声で短い言葉を叫ぶと、彼の突き出した拳の先で空気中の青い光の粒が激しく渦を巻き、バスケットボールほどの大きさがある真っ赤な火の玉となって飛び出したのだ。
火の玉は広場の隅に置かれていた練習用の丸太に激突し、ドォンッ! と凄まじい爆音を立てて丸太を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「す、すげえええっ! おい見たかシンジ、俺の手から火が出たぞ!」
「ああ、すごい威力だ……!」
カズマが自分の両手を見て大喜びし、他の生徒たちも競うように声を張り上げては、地面を抉るほどの突風や氷の礫を次々と生み出していく。ミホもまた、指先から放った風の刃で少し離れた木の枝をスパッと切り落とし、「やった、私にもできたよテンテちゃん!」と無邪気に跳びはねていた。
老神官や村の衛士たちは、俺たち高校生の放つ魔法のすさまじい威力を見て、腰を抜かさんばかりに驚いていた。村の神官が長い祈りを捧げてようやく松明ほどの火を灯すのがやっとだというのに、三百四十年前の時代から目覚めた俺たちは、ほんの数日練習しただけで、誰もが一流の魔導士を凌駕するほどの力を発揮してみせたのだ。
俺もまた、広場の端で黙々と発音の反復を続けていた。
俺の目的はカズマたちのように力を誇示することではない。『聖軌規範』の第二条にある通り、テンテの歩む軌道上の障害物を速やかに排除するための手段として、一つでも多くの言葉を正確に身につけておく必要があったのだ。
そして広場の中心では、テンテが他の誰よりも美しく、完璧な手本を示していた。
彼女は自分から前に出て場を仕切るようなことはせず、俺だけを特別扱いして近づいてくることもなかった。ただミホや他の女子生徒たちに囲まれながら、誰に対しても穏やかで控えめな優等生として振る舞い、老神官が最も難しいとされる「治癒の言葉」を実演した際も、ただ一人だけその場で完全に習得してみせた。
滞在三日目の夕暮れ時、講習が終わって生徒たちが聖堂へ戻り始めた頃だった。
老神官から治癒の魔法を教わったテンテは、練習で喉を痛めた女子や、転んで膝を擦りむいた男子の手当てを順番に済ませたあと、ごく自然な流れで、広場の隅にいた俺の前へと歩み寄ってきた。
「ラキくんも、手の傷を見せて。神官様から教わった治癒の魔法、ひと通り使えるようになったから」
周囲にまだ何人かのクラスメイトが残っているのを意識してか、彼女は教室にいた頃のように、丁寧な口調で声をかけてきた。
俺が「ああ、頼む」と右手を差し出すと、テンテは俺のすぐ前に立ち、俺の手に巻かれていた麻の布――三日前に彼女自身が用意してくれた、血の滲んだ布切れをゆっくりと解いた。
布の下から現れた俺の手のひらには、坑道で切った傷だけでなく、ここ数日の夜明け前に石垣を黒い石で削り続けたせいでできた、無数の新しい擦り傷と血豆、そして洗っても落ちきらなかったわずかな泥の跡が刻まれていた。
その指先を見た瞬間、テンテの動きがピタリと止まった。
彼女は一言も発さず、俺の荒れた指先から、毎朝村人たちが騒いでいる北門の石垣の方へとほんの一瞬だけ視線を動かし、そして再び俺の手のひらへと目を戻した。
伏せられた彼女の長い睫毛が、微かに揺れる。彼女は俺の肌に直接触れることはせず、俺の手のひらから数センチ浮かせた位置に自分の白い両手を翳した。
ただ、俺の手を覆うように翳された彼女の指先がほんのわずかに強張り、彼女の白い耳朶が夕陽の色とは違う鮮やかな朱色に染まっていくのが見えた。
「……ずいぶん、深い傷ね。跡が残らないようにしないと」
平坦で涼しげな声でそう呟くと、彼女は静かに治癒の言葉を口にした。
彼女の白い手のひらから、淡く優しい緑色の光が溢れ出し、俺の右手を包み込む。じんわりとした温かさが皮膚の奥へと染み渡り、手のひらの裂傷も、石垣を削って潰れた指先の傷も、見る間に新しい皮膚が盛り上がって綺麗に塞がっていった。
「ありがとう、テンテ。もうすっかり痛くない」
「ええ。……じゃあ、この布はもういらないわね。私が処分しておくわ」
テンテは治癒を終えて手を引くと、俺から外したばかりの、乾いた血と泥が染み付いた麻の布切れを拾い上げた。
そして、それを捨てるのではなく、丁寧な手つきで四角く折りたたむと、自分の灰色の外套の深いポケットへと静かにしまい込んだ。俺と視線が合うと、彼女は表情を一切変えないまま、唇の端だけをほんのわずか小さく持ち上げてみせ、そのままミホたちの待つ聖堂へと戻っていった。
俺は綺麗に塞がった自分の手のひらを見つめ、再び懐の『聖軌規範』を押さえた。
これで今夜も、滞りなく石垣の作業を続けることができる。
***
そして、出発の朝となる五日目の夜明けが訪れた。
村人たちから分け与えられた頑丈な革の靴と、干し肉や麦を詰めた背負い袋、そして黒曜石の槍が聖堂の前に並べられ、いよいよ福岡へ向けて出立する時が来た。
「よし、みんな準備はいいか! 魔法も使えるようになったし、これならきっと福岡まで辿り着ける。列を乱さないように――」
委員長のシンジが背負い袋を背負い、全員に声をかけた時だった。
聖堂の入り口付近に固まっていた十人ほどの男女――昨日の夕方、村の狩人が森の魔獣に片腕を食い千切られて運び込まれるのを目の当たりにして怯えきっていたグループが、背負い袋を足元に置いたまま一歩も動こうとしなかった。
「……俺たち、やっぱり行かない」
その中の一人、帰宅部の男子生徒が俯いたまま震える声で言った。
「え? おい、なに言ってるんだ。魔法だって使えるようになったじゃないか」
「無理だよ! 昨日、血だらけで運ばれてきた村の人を見ただろ!? いくら火や風が出せたって、あんな化け物に後ろから飛びかかられたら一発で終わりじゃないか! 岩手から福岡まで何百キロも歩くなんて、絶対に途中で死ぬぞ!」
男子が顔を上げて叫ぶと、後ろにいた女子生徒の一人も涙声で訴え始めた。
「そうよシンジくん! なんで私たちが四天王の城なんて止めに行かなきゃいけないの!? 私たちの魔法の力が強いから、この村に残って外壁の警備や手伝いをしてくれるなら、一生衣食住を保証するって神官様も言ってくれたわ! 私たちはこの安全な壁の中で暮らす!」
「お、おい、ふざけんなよ! クラス全員で助け合って進むって決めたじゃねえか!」
カズマが顔を真っ赤にして詰め寄るが、残ると言い出した十人は頑として首を振った。「死にたくない」「行きたい奴だけで行けばいい」と口々に言い募り、聖堂の前の空気は最悪の形で凍りついた。
「……ミホ、あんたも残るでしょう? あんな森の中を何ヶ月も歩くなんて無理よ!」
残るグループの女子に声をかけられ、テンテの近くに立っていたミホがビクリと肩を揺らした。
ミホは蒼白な顔で森の方と、隣に立つテンテの横顔を交互に見比べていたが、やがて自分の背負い袋の紐をギュッと握りしめて首を横に振った。
「わ、私は……テンテちゃんたちと行くよ! 確かに化け物は怖いけど、私も風の魔法を使えるようになったし……何より、テンテちゃんを置いて自分だけ村に残るなんてできないもん!」
ミホが涙目でそう宣言し、テンテのすぐ隣へと歩み寄る。
テンテは自分から誰かを説得するような言葉は一切口にせず、ただ一歩引いた場所で「ありがとう、ミホ」と穏やかに微笑んで頷いてみせた。ミホが親しげにすぐ横に並んだその一瞬、テンテの体側に下ろされた白い指先がピクリとわずかに動き、ミホを見る黒い瞳の奥からすっと温度が消えたように見えたが、それもほんの瞬きする間のことだった。
一方、ミホにまで断られた残留組の十人はますます意固地になり、カズマと激しい怒鳴り合いになり始める。
俺はその言い争いを眺めながら、五日前に読んだ『聖軌規範』第四条の条文を静かに思い返していた。
――《第四条:低位なる群れが最上位対象の進行を遅延せしむる時、従属する者は速やかにその負荷を切り離し、対象の意志のみを遂行せよ》
迷う理由などどこにもなかった。
俺はカズマたちの間を無言で通り抜けると、足元に置かれていた残留組の背負い袋の一つを拾い上げ、中から保存食の包みだけを抜き取ってカズマの方へと放り投げた。
「ラ、ラキ? なにするんだ!」
「置いていこう、シンジ。こいつらは歩かないと言っているんだ。無理に連れていけば、道中でテンテたちの足を引っ張る重荷になるだけだ。食料だけ回収して、今すぐ切り離すのが正しい」
俺が淡々とそう告げると、残ると言っていた生徒たちが「なっ……! 重荷って何よ、ひどい!」と声を荒らげた。カズマも「おいラキ、言い方が冷たすぎるぞ!」と俺の肩を掴もうとした。
「――待て、カズマ。ラキの言い方は極端だけど、言っていること自体は間違っていないよ」
間に割って入ったのは、背負い袋を背負い直したトオルだった。
トオルは興奮するカズマを手で制すると、冷静な目で残留組の十人とシンジを交互に見渡した。
「本気で嫌がっている人たちを無理やり連れていっても、道中でパニックを起こせば全員が危険に晒されるだけだ。幸い、この村の神官様たちは僕たちを歓迎してくれているし、十人が村の警備を手伝う条件で養ってもらえるなら、ここで暮らす方が彼らにとっても安全だよ。……シンジ、ここは彼らの意志を尊重して、行く人間だけで出発しよう」
トオルの筋の通った言葉に、シンジは唇を噛みしめて俯いた。
数秒間の重い沈黙のあと、シンジは深く息を吐き出し、残ると言った十人に向かって真っ直ぐに頭を下げた。
「……わかった。無理を言ってすまなかった。俺たち二十人はこのまま福岡を目指して南へ進む。お前たちはこの村で、絶対に生き延びてくれ。……ナギさん、神官様に『十人は村の守り手としてここに残す』と伝えてくれるか」
「あ……う、うん、わかった……」
「シンジくん、トオルくん……ごめんね、ありがとう……」
シンジとトオルが場を収めたことで、あれほど険悪だった空気がようやく落ち着いた。
その一部始終を、テンテは少し離れた場所から一言も口を挟むことなく、ただ静かに見守っていた。そして出発が決まり、残る十人が涙ながらに手を振ると、彼女はみんなの後ろから一歩も出ないまま、お淑やかな笑顔で小さく手を振り返した。
だが、俺が背負い袋を担いで門の方へと向き直った時、前を歩くテンテの横顔がちらりと見えた。
門へと顔を戻したその瞬間――彼女の顔から優しげな微笑みがスッと消え失せ、まるで最初からそこに誰もいなかったかのような、氷のような無表情へと切り替わったのだ。三十人いた集団が二十人へと減ったにもかかわらず、彼女の足取りは村に着いた時よりもずっと軽く見えた。
こうして俺たちは、最初の村に十人のクラスメイトを残し、シンジやトオル、カズマ、ナギ、そしてミホを含めた二十人で骨の防壁の門をくぐり抜けた。
頭上には青緑色の光の帯が揺らめく高い空が広がり、足元には草木に覆われた細い巡礼路が南へと続いている。俺は綺麗に治った右手で黒曜石の槍を握り直し、懐の『聖軌規範』の重みを確かめながら、南へと続く道の先頭を黙々と歩き始めた。




