第七話:選抜の神話と、盲目の教典
松明の火ではなく、壁の窪みに嵌め込まれた青い結晶石が、石造りの聖堂の内部を淡く照らし出していた。
魔獣の体内から取り出されたというその結晶は、空気中の青い光と共鳴して静かに脈打ち、高い天井に彫られた粗削りな彫刻に揺らめく影を落としている。
三百四十年後の未来、管理AIが散布したナノマシンにより科学が封印され、魔法と魔獣が支配する「偽りの神話世界」へと変貌した地球。その片隅にあるこの小さな城塞村の聖堂で、コールドスリープから目覚めた俺たち三十人の高校生は、ようやく冷えた身体を休めていた。
村人たちが木製の鉢に入れて運んできてくれたのは、香草と塩で煮込まれた温かい麦の粥と、何かの獣の干し肉だった。
「うわ、あったけえ……生き返る……」
「お肉、少し硬いけど美味しいよ。よかったぁ、殺されるかと思った……」
カズマやミホをはじめとするクラスメイトたちが、床に敷かれた藁の上で安堵の吐息を漏らしながら食事にありついている。無理もない。社会科見学の坑道で眠らされ、目覚めた直後に白骨化した科学者の消滅と化け物の襲撃を経験したのだ。まだ誰もが、この異常な現実を半分も受け止めきれてはいなかった。
だが、俺は一口だけ粥を啜って木鉢を置くと、群がるクラスメイトたちから少し離れた太い石柱の根元に背を預け、懐からあの一冊の黒い小冊子――『聖軌規範』を静かに取り出した。
視線を少し上げれば、聖堂の最奥にある祭壇の前で、テンテがシンジやトオル、そして言葉の橋渡しをしているナギとともに、村の老神官と向き合っているのが見えた。
俺は青い結晶石の灯りを頼りに、紙とも布ともつかない白い頁を無作為にめくった。そこには状況の説明など一切なく、ただひたすらに厳格な奉仕の作法と規約だけが淡々と羅列されていた。
たまたま開いた中ほどの頁に、幾何学的な図形とともにこんな一節が記されているのが目に入った。
――《第十七条:最上位対象が休止状態に入る領域の四方には、黒き石あるいは樹皮を削りて二重の環を描き、逆さにしたる三本の枝を突き立てよ。従属する者は夜明け前にこれを行い、泥を塗りて遮蔽すべし。さすれば不要なる干渉波は絶たれ、対象の静止は守られん》
俺はその条文を二度、三度と丁寧に読み返した。
なぜ石を削って二重の環を描くのか、なぜ枝を逆さに突き立てて泥を塗るのか、その仕組みまでは書かれていない。だが、そうすれば不要な干渉が絶たれ、最上位対象――すなわち聖女たるテンテの眠りが守られるとはっきりと記されている。
こんな見知らぬ土地の硬い床の上で、彼女が少しでも安らかに眠れるようにするために必要な手順なのだ。ならば、俺がこの村でやるべきことは、夜明け前に村の四方を回ってこの作業を寸分違わず実行することだけだ。
俺は頁に描かれた二重の環の紋様を、描き損じることのないよう網膜へと焼き付けた。
ふと顔を上げると、祭壇の前で老神官の話を聞いていたテンテが、シンジに何かを尋ねられて静かに頷いているのが見えた。彼女は俺の方を特別に見つめるようなことはせず、あくまでクラスの代表の一人として、落ち着いた態度で話し合いに臨んでいる。
それでいい。彼女のような気高い存在が、俺ごとき一介の従属者を特別扱いするはずがないのだ。俺はただ、誰にも気づかれぬよう影から彼女の軌道を整え続ければいい。俺は静かな充足感を胸に抱きながら、再び『聖軌規範』の活字を追い続けた。
***
それから一時間近くが経ち、老神官が深く一礼して聖堂の奥の部屋へと下がっていくと、シンジとトオル、ナギ、そしてテンテの四人が俺たちの元へと戻ってきた。
まだ起きて待っていたクラスメイトたちが、不安そうな顔で四人の周りに集まってくる。俺も『聖軌規範』を懐へとしまい、立ち上がってその輪の端に加わった。
「どうだった、シンジ? あの爺さん、なんて言ってたんだ?」
カズマが尋ねると、シンジは老神官から譲り受けた古い羊皮紙の地図を床に広げ、重苦しい面持ちで口を開いた。
「ナギのおかげで、この村の人たちが何を信じて暮らしているのか、大体のことは分かった。……正直、聞けば聞くほど頭が痛くなるような話だけどな。トオル、説明してくれるか」
促されたトオルは、羊皮紙の上に描かれた歪な日本列島と大陸の地図を指差しながら、まだ信じきれないといった硬い声で語り始めた。
「まず、この世界の人々が信じている『星巡りの神話』について話すよ。彼らの言い伝えでは、大昔に人間が『鉄と炎の禁忌』に手を出して世界を滅ぼしかけた。そこで神々は人間から鉄を取り上げる代わりに、奇跡の力であるマナを与え、地上に四つの聖地――つまり、あの地下の機械が言っていた『四天王の居城』をお作りになったそうだ」
「なんだよそれ、じゃあやっぱり、あのガイコツの機械が言ってたことは全部本当だったってことかよ……」
カズマが顔をしかめて呟く。トオルは重く頷いた。
「認めたくないけど、そう考えるしかない。そして、この神話には続きがあるんだ。――『魔獣のうろつく大地を越え、四つの聖地すべての試練を乗り越えて、世界の果ての玉座まで辿り着いた選ばれし人間には、神々の箱舟が与えられ、永遠の楽園へと迎え入れられる』とね」
「は? 箱舟? なんだよそれ、俺たちが来るって予言でもされてたのか?」
「いや、僕たち高校生の事なんかこれっぽっちも予言されていないよ」と、トオルは首を振った。
「老神官の話ぶりを聞く限り、これはこの世界の人間なら誰でも知っている、当たり前のルールみたいなものなんだ。おそらくあの管理AIとやらは、この過酷な世界を自力で生き抜いて、四つの城を突破して最後の拠点まで辿り着けるくらい優秀な人間を選りすぐって、そいつらにその『箱舟』とやらを任せるつもりなんじゃないかな。そのための選抜試験を、神話っていう形にして世界中に広めているんだと思う」
「じゃあ、なんで村の人たちは俺たちにこんなにご飯をくれたり、親切にしてくれたの?」
ミホが涙声で尋ねると、ナギが長い前髪の奥から控えめに答えた。
「えっと……この世界では、四つの聖地を目指す『巡礼団』は、神様の試練に挑む尊い人たちだから、どこの村でも宿や食べ物を分け与える決まりになっているそうなの。それに……老神官様が言うには、私たち三十人は、この時代の人たちよりもマナに干渉する力が桁違いに強いらしいの」
「俺たちの力が強い?」
カズマが自分の手のひらを見る。トオルが眼鏡の位置を直すような仕草をして補足した。
「ああ。僕たちはあの地下の機械が見せた一瞬の文字をうろ覚えで真似ただけだから、さっきは火種くらいしか出せなかった。でも、老神官にこの村へ伝わる正しい『魔法の言葉』の仕組みを少し教えてもらったら、僕でも驚くほど簡単に強い光を出せたんだ。どうやら、三百四十年前の人間である僕たちの声や体質は、今の時代の人たちよりも空気中のナノマシンを動かす力がずっと高いみたいなんだよ」
トオルが短く整った抑揚で言葉を口にすると、彼の手のひらの上に、昼間の何倍も明るく安定した青白い光の球がふわりと浮かび上がった。
周囲の生徒たちから「おお……!」「すげえ、トオルでもそんなに出せるのかよ!」と驚きの声が上がる。
「これなら、神官様にちゃんと教われば、僕たち全員が自分の身を守るくらいの魔法をすぐに使えるようになるはずだ。……ただ、問題はこれから向かう場所なんだよ」
シンジが地図の西側を指差した。
「老神官から聞いた四つの聖地の名前は、あの機械が言っていた通りだった。一番近くにある第一の城『霊峰アイテール』は、西の大陸のずっと奥――昔のヒマラヤ山脈の頂上にある。だけど、この世界には鉄の釘もエンジンもないから、大きな海を渡る船なんてどこにもないんだ」
シンジの言葉に、クラスメイトたちが息を呑む。
「ヒマラヤへ行くには、まずこの岩手から九州の端――昔の福岡あたりまで、陸路で歩いて南下するしかない。そこから小さな舟で対馬と朝鮮海峡を渡って、大陸へ入ってからもずっと歩きだ」
「い、岩手から福岡まで歩いて、そこからインドの上まで歩き!? 冗談じゃないわよ、そんなの何ヶ月かかると思ってんの!? 絶対に途中で化け物に食べられちゃうわよ!」
ミホが悲鳴のような声を上げ、他の生徒たちも「無理だ、できるわけない!」「なんで俺たちがそんな目に遭わなきゃいけないんだ!」と一気に騒ぎ始めた。
「みんな、少し声を落として」
その時、シンジの隣に立っていたテンテが、澄み切ったよく通る声で静かに言った。
彼女は誰か一人を見るのではなく、怯えるクラスメイトたち全員を平等に見渡しながら、いつもの優等生らしい穏やかで落ち着いた口調を続けた。
「すぐ明日、丸腰で出発するわけではないわ。老神官様にお願いして、数日間この村に滞在させてもらえることになったの。その間に、老神官様からこの世界に伝わる魔法の言葉を全員で教わりましょう。……神官様は、火や風を起こすだけでなく、傷を治す『治癒の魔法』もご存じだそうよ」
「えっ、傷を治す魔法もあるのか!?」
カズマが目を丸くする。
テンテは「ええ」と涼しげな顔で頷いた。
「明日からの講習で、私もその治癒の魔法を神官様からしっかり教わるつもりよ。そうすれば、もし山道で怪我をする人が出ても、すぐに手当てができるでしょう? だから、今夜はそんなに怯えないで、ゆっくり身体を休めてちょうだい」
「テンテちゃん……ありがとう、テンテちゃんがそう言ってくれるなら、なんだか安心したよ……」
ミホがほっとしたように胸を撫で下ろし、他の生徒たちも「数日ここで練習できるなら……」「魔法が使えるようになってからなら、なんとかなるかもしれないな」と頷き合いながら、それぞれの寝床の藁へと戻っていった。
テンテもまた、俺のところへ寄ってくるようなことはせず、ミホやナギたち女子のグループと一緒に、聖堂の奥に敷かれた寝床へと自然な足取りで歩いていった。
ただ、彼女が俺の前を通り過ぎるほんの一瞬だけ、その黒い瞳がすっと下がり、俺の右手に巻かれたままの血の滲んだ麻布をじっと捉えた。
昼間、山を下りる時に彼女が差し出してくれたあの布だ。
彼女は足を止めることも、俺に声をかけることもなく、まるで何でもなかったかのようにすぐ視線を前へと戻して女子たちの輪の中へ入っていった。だが、後ろを向いた彼女の白い耳朶が、青い結晶石の灯りの下でほんのわずかだけ赤く染まり、体側に下ろされた指先がスカートの裾を小さく握りしめていたのが見えた。
やがて灯りが落とされ、聖堂全体が静かな寝息に包まれる。
俺は藁の上で目を閉じたふりをしながら、数時間が経つのをじっと待った。
そして夜明け前、聖堂の奥で眠るテンテたちの呼吸がすっかり深くなったことを確認した俺は、足音を殺して外の冷たい空気の中へと抜け出した。
手には昼間のうちに拾い集めておいた黒い石の破片と、三本の折れ枝。俺は『聖軌規範』第十七条に記された手順を正確に守るため、誰もいない夜の村の四方を回り、指先から血が滲むのも構わずに石垣を削って二重の環を描き込み、逆さの枝を地面に突き立てて泥を塗り込む作業を、東の空が白むまで黙々とやり遂げたのだった。




