第六話:骨の城塞と、言葉をつなぐ風
山を下り始めてから二時間ほどが経った頃、鬱蒼とした原生林の隙間から、潮の香りを孕んだ風が吹き抜けた。
俺は常にテンテの三歩前を歩き、彼女の灰色の外套に木の枝や茨が引っかからないよう、手頃な太さの折れ枝を杖代わりにして草木を黙々と薙ぎ払い続けていた。
「ラキ。少しペースを落としなさい」
背後から、テンテの澄んだ、しかし抑揚のない静かな声が飛んできた。
俺が足を止めて振り返ると、彼女は俺から二歩ほど離れた場所で立ち止まり、俺の右手をじっと見つめていた。さっき坑道で瓦礫をついた時に切った手のひらの傷が、枝を振り回し続けたせいで再び開き、木の杖を赤く濡らしていたのだ。
テンテは俺に歩み寄って手を取るようなことはしなかった。
ただ自分の灰色の外套のポケットから、いつの間にか裂いて用意していたらしい清潔な麻の布切れを取り出すと、俺の目の前へとすっと差し出した。
「傷が開いているわ。それを巻いておきなさい」
「……ああ。すまない、テンテ。お前が歩く道に棘一本残すわけにはいかないからな」
俺が布切れを受け取って礼を言うと、テンテは何も言い返さず、ただ長い睫毛をわずかに伏せて俺の手元を見つめていた。
俺がその白い布を自分の傷口にきつく巻きつけ、血が布地にじわりと滲んでいくのを、彼女は瞬き一つせずに見守っている。その涼しげな黒い瞳の奥底に、自分の裂いた布が俺の血を吸って肌に密着していくことへの、息が詰まるほど深く暗い満足感がちらりと揺らめいた気がしたが、彼女は何も言わずに視線を前方へと戻した。
「いいなぁ、ラキくんばっかりテンテちゃんに気にかけてもらって……」
後ろから歩いてきたミホが、少し不満そうに唇を尖らせて呟いた。
その瞬間、前を向いたままのテンテの背中から、周囲の空気が凍りつくような冷ややかさが放たれたのを俺は肌で感じた。だが、ミホがそれに気づくよりも早く、先頭付近で周囲を警戒していたカズマが「おい、あれを見ろ!」と声を上げた。
木々が途切れた崖の縁から見下ろす視界の先――かつての釜石の湾であったろう入り江のほとりに、異様な姿の集落が広がっていた。
コンクリートの建物も、トタン屋根も、電柱もそこにはない。
代わりにそびえ立っていたのは、ゴツゴツとした自然石と丸太、そして何より目を引く巨大な獣の白骨や黒い甲殻を継ぎ接ぎして築かれた、高さ五メートルほどの歪な防壁だった。壁の上には木製の物見櫓が組まれ、その内側には茅葺きや石積みの家々が肩を寄せ合うようにして並んでいる。入り江に浮かんでいるのは、丸太をくり抜いた小さな手漕ぎ舟ばかりで、鉄の船はおろか大きな帆船すら一隻も見当たらなかった。
「すげえ……本当に、映画の中世か縄文時代みたいな村だぞ」
「見て、防壁の継ぎ目に鉄の釘やワイヤーが一つも使われていない。すべて植物の蔓と樹脂、それに石の噛み合わせだけで組まれているんだ。金属が錆びてしまうから、こういう作り方をするしかないんだね」
カズマとトオルが感嘆の声を上げる中、俺たちは慎重に崖の下へと続く獣道を降り、集落の正面門へと近づいた。
俺は懐にしまった『聖軌規範』の重みを胸に感じながら、ただ静かにテンテの斜め前を歩いた。あの地下で目を通したのはまだ最初の数行に過ぎない。早く落ち着ける場所で、この教義集のすべてを読み解きたいという静かな渇望が俺の胸を満たしていた。
俺たち三十人の姿を最初に見つけたのは、門の上の櫓に立っていた見張りの男だった。
カン、カン、と乾いた木を打ち鳴らす音が響き渡り、丸太を組み合わせた門の隙間から、十人ほどの男たちが飛び出してきた。彼らは粗末な獣の毛皮や麻の衣をまとい、その手には黒く輝くガラス質の石を穂先にくくりつけた槍や、動物の骨を削って作った弓が握られていた。
「――エトゥ、マレビト! ドゥラ、キタァ! マジュ、ナカ、アルキ、ナゼェ!」
先頭に立つ顎髭の男が、石の槍を突きつけて怒鳴った。
俺たちは思わず顔を見合わせた。男が発しているのは、かすかに日本語の響きを残してはいるものの、母音が極端に歪み、単語もすっかり変わってしまった三百四十年後の言葉だったのだ。
「え、なんて言ってるんだ? 全然聞き取れないぞ!」
「待て、落ち着いてくれ! 俺たちは敵じゃない、道に迷っただけだ!」
委員長のシンジが両手を挙げて必死に呼びかけるが、男たちは「ウヌ? カミ、コトバ、チガウ……?」「アヤシ、モノ!」と警戒を強め、槍の穂先をジリジリと近づけてくる。
トオルが「まずいな、何百年も経ったせいで言葉が通じない。このままじゃ襲われるぞ」と青ざめた。
俺が咄嗟にテンテの前へ出て盾になろうとした、その時だった。
「……待って。私、わかるかも。この人たちの声の後ろに、青い光の波が重なってる……」
クラスメイトの列の後ろから、おずおずと一歩前に出てきた女子生徒がいた。
図書委員のナギだ。普段は教室でもほとんど声を荒らげることのない、長い前髪で目元が隠れた物静かな少女だった。彼女は自分の両耳にそっと手を当てると、空中に漂う青い光の粒を見つめながら、震える唇であの機械が遺した発音記号の一つを口にした。
ナギが小さくその言葉を呟いた瞬間、彼女と男たちの間を漂っていた青白い光の粒が、目に見えない糸を張るように淡く輝き、微かな鈴のような音を響かせた。
直後、顎髭の男が再び何かを叫ぶと、不思議なことに、その耳慣れない音声と同時に「止まれ、どこから来たのか」という明確な意味の響きが、空気の振動を介して俺たちの鼓膜の奥へと直接滑り込んできたのだ。
「すごいぞ、ナギさん! 空気中の光が、お互いの言葉の意味を繋いでくれているのか!」
トオルが驚きの声を上げる。ナギは少し顔を赤らめながらも、深く息を吸い込み、男たちに向かってゆっくりと語りかけた。彼女の声もまた、青い光を通じて男たちの言葉へと変わっていく。
「わ、私たちは、怪しい者ではありません。山の奥の、深い石の眠りから目覚めて……降りてきました」
ナギの言葉が伝わると、男たちは驚いたように目を見開いた。
すると、門の奥から「――静まれ、衛士たちよ」という、深く厳かな老人の声が響いた。ナギの力のおかげで、その言葉ははっきりと俺たちの頭の中に響いてくる。
男たちが慌てて左右に道を開けると、そこから一人の老人が歩み出てきた。彼だけは他の村人とは違い、空気中の青い光に反応して淡く発光する白い衣をまとっていた。首からは、青く透き通った結晶石の首飾りを下げている。
「これは、神官様……! しかし、この者たちは奇妙な訛りを使い、三十人もの大所帯で……」
「愚か者め。この方々が今、どれほど高度な言霊の奇跡を使ったか分からぬのか。そして何より――そこの娘御の周囲で、マナの光がどれほど濃く集まっておるかを見よ!」
神官と呼ばれた老人が、震える指先で俺の後ろに立つテンテを指差した。
老人の言葉通り、夕暮れが近づき始めた薄暗い空気の中で、テンテの黒髪や肩の周りには、空気中の青い光の粒がまるで女王に群がる蛍のようにびっしりと集まり、幻想的な光の輪を作っていたのだ。
「娘御よ、もしやあなた方は、四方の聖地を目指す『星巡りの巡礼団』であらせられるか……?」
ナギを介して、老神官の問いかけが届く。
シンジたちがどう答えるべきか戸惑う中、テンテは一歩前へ出ると、一切の感情を交えない、しかし神話の聖女そのものといった凛とした佇まいで静かに頷いた。
「ええ。私たちは四方の聖地を巡るためにここへ降りてきました。少しの間、あなた方の知恵と宿をお借りできますか」
テンテはそう言うと、右手を軽く宙へ翳し、ごく短い発音を一つだけ口にした。
老神官たちが何十秒もかけて祈りの言葉を唱えなければ起こせないはずの現象が、ただの一言で起きた。テンテの指先から眩いばかりの純白の光球が生まれ、夕闇に沈みかけていた門の周囲を昼間のように明るく照らし出す。
「おお……っ、おおおっ! なんと短い言葉で、これほど強い光の奇跡を……!」
老神官が感極まったようにその場に両膝をつき、後ろの男たちも慌てて石の槍を投げ出して地面に額を擦りつけた。
俺はその光景を見下ろしながら、騒ぎ立てることも、言葉を挟むこともせず、ただ静かに目を細めた。
当たり前のことだ。彼女は唯一無二の聖女なのだから、地上の民がこうして膝を屈するのは自然の摂理に過ぎない。俺は自分の右手に巻かれた、テンテの布切れをそっと左手で押さえ、彼女の横顔を照らす純白の光を誰よりも深い敬意とともに見つめていた。
「……行きましょう。ここでなら、四つの城へ行くための道筋がわかるはずよ」
テンテが光球を消し、誰に向けるでもなく涼しげな声で言った。ただ、その横顔がほんの一瞬だけ俺の方を向き、俺の右手に巻かれた白い布を見て満足げに目を細めたのを、俺だけは知っていた。
こうして俺たち三十人は、集落の奥にある石造りの聖堂へと丁重に招き入れられたのだった。




