第五話:緑の廃墟と、噛み合わない評定
怪物の黒焦げになった胴体が転がる坑道の入り口から少し離れた、巨大な杉の根元に広がる日だまりで、俺たち三十人はへたり込むようにして腰を下ろしていた。
頭上を見上げれば、見たこともないほど太い巨木群の枝葉が天蓋のように空を覆い、その隙間から差し込む陽光の中で、大気中の青い光の粒が塵のようにゆったりと漂っている。遠くの山の斜面には、かつての釜石の街へ続いていたらしき高架道路の橋脚が、太い植物の蔦に締め上げられた灰色の石柱のようにポツポツと突き立っていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
聞こえるのは、風に揺れる葉擦れの音と、膝を抱えて震える女子生徒たちのすすり泣く声だけだ。社会科見学の最中に催眠ガスで眠らされ、気がつけば三百四十年後の未来に放り出されていたなどという話を、頭では理解できても心が追いつくはずがなかった。
「……いつまでこうして泣いてても仕方ないだろ。暗くなる前に、これからどうするか決めようぜ」
重い沈黙を破ったのは、クラスの学級委員長を務めていた男子――シンジだった。
背が高く、端正な顔立ちをした彼は、こんな麻の粗末なシャツとズボンを着ていても、周囲を落ち着かせるような雰囲気を持っていた。彼は立ち上がると、顔を伏せるクラスメイトたちを見渡して言葉を続けた。
「あそこに崩れてる高架橋の錆び方を見ても、さっきの化け物を見ても、ここが俺たちの知ってる岩手県じゃないことは認めざるを得ない。あの機械の科学者が言っていた通り、本当に何百年も時間が経ってしまったんだ。警察や救助隊が山を登ってくるのを待つのは、もう無理だと思う」
何人かの女子が、うっと口元を押さえて肩を震わせる。
その隣で、先ほど坑道で腰を抜かしていた柔道部のカズマが、バツが悪そうに顔をしかめながら立ち上がった。大柄な体躯に革の外套を羽織った彼は、自分の拳を強く握りしめてみせる。
「さっきは……その、いきなり化け物が出てきて動けなかったけどよ。でも、テンテさんが見せてくれただろ! あの機械が言ってた魔法ってやつを使えば、あんな怪物だって一撃で吹き飛ばせるんだ。だったら、まずはこの山を下りて、人間が住んでる街か村を探そうぜ。腹も減るし、こんな森の中で夜になったら、またあの化け物に襲われるぞ」
「その魔法のことなんだけど……さっきから少し試していたんだ」
地面に落ちていた木の枝を拾い、湿った土の上に奇妙な記号をカリカリと書き殴っていた小柄な男子――パソコン部の部長で、いつも学年トップの成績を取っていたトオルが、自分の目元をこすりながら顔を上げた。
彼の細い目は、恐怖で引きつりながらも、目の前の信じがたい現象をどうにか理屈で理解しようと必死に動いていた。
「あの地下の機械が壊れる直前に、赤い文字で発音記号みたいなものを映し出しただろう? 僕も必死に睨んでいたから、最初の数行だけはなんとか思い出せたんだ。あの科学者は、空気中に漂っているこの青い光がナノマシンで、特定の声で命令を出すと魔法みたいに火や風が出るって言っていたよね」
トオルは震える息を吐き、土に書いた記号を見ながら、ぎこちない発音で短い言葉を呟いた。
すると、彼の指先の周りに漂っていた青い光の粒がほんの少しだけ集まり、パチッ、と静電気のような小さな赤い火花が散ってすぐに消えた。
「……見ての通り、僕にはこれが限界だ。発音の抑揚なのか、声の高さなのか分からないけど、指先にマッチの火くらいの熱を出すだけで喉が焼けるみたいに苦しい。テンテさん、君はどうやってあの一瞬であの文字を覚えて、あんな凄い光を撃ち出したんだい?」
クラスメイトたちの視線が、俺から半歩ほど離れた木の根元に、背筋をまっすぐ伸ばして座るテンテへと集まった。
そこへ、いつも教室でテンテのグループにいた小柄な女子――ミホが、涙でぐしゃぐしゃになった顔で這い寄ってきて、テンテの腕に縋りつこうと手を伸ばした。
「ねえテンテちゃん、私もう怖いよぉ……! テンテちゃんがいれば、またあの化け物が出てもやっつけてくれるよね? 町が見つかるまで、私たちを守ってくれるよね!?」
だが、ミホの手がテンテの灰色の外套に触れる直前、テンテはごく自然な動作でスッと立ち上がり、ミホの手が届かない位置へと半歩退いた。
俺はすぐ近くから、その時のテンテの横顔を見ていた。空振りに終わったミホを見下ろすテンテの黒い瞳には、ほんの一瞬だけ、自分の領域に踏み込もうとした無粋な生き物を見るような、氷点下の冷ややかさが宿っていた。
しかし次の瞬間には、彼女は普段通りの礼儀正しく涼しげな優等生の表情で、静かに口を開いた。
「落ち着いて、ミホ。取り乱しても状況は変わらないわ。発音の要領なら、歩きながらみんなにも説明するから。……それよりシンジくん、私もまずは山を下りて人が住む場所を探すことに賛成よ。ただし、そこに隠れて暮らすためではなく、あの機械が言っていた四天王の居城とやらがどこにあるのか、手がかりを集めるためにね」
「手がかりを集める? ……待てよ、テンテさん。それって、あの機械が勝手に押しつけてきた使命を、本当にやるつもりなのか?」
シンジが驚いたように目を見開く。
「おいおい、冗談だろテンテさん! 俺たちはただの高校生だぞ!? なんで俺たちを誘拐した犯人の言いなりになって、どこにあるかも分からない城を探して戦わなきゃいけないんだよ!」
カズマが声を荒らげ、他の生徒たちも「そうよ、安全な場所を見つけて普通に暮らそうよ」「あんな化け物とまた戦うなんて絶対に無理だよ」と口々に叫び始めた。
当然の反応だろう。普通の高校生なら、訳の分からない使命など放り出して、安全な場所で生き延びることだけを考えるはずだ。
だが、テンテは眉一つ動かさず、一切の感情を乱さぬ平坦で澄んだ声で言った。
「カズマくんの言うことも分かるわ。でも、よく考えてみて。私たちが目覚めたあの地下の熱に気づいて、たった数分で坑道を崩して怪物を送り込んできたのは誰? この世界を管理しているというAIよ。私たちが昔の時代から来た邪魔者である以上、どんな町に隠れても、AIは必ず私たちを消しに来るわ」
テンテの冷静な声が、ざわめく生徒たちを静まり返らせる。
「私たちが誰にも邪魔されずに暮らすためには、あの機械が言っていた通り、四つの城のAIを止めて、この世界の仕組みそのものを終わらせるしかないの。……でも、あの機械は最後にアイテールやキメラ・クレイドルといった名前だけを言い残して壊れてしまったわ。地図も通信もないこの世界で、その場所を知るには、まず現地の人間が住む場所へ降りて、話を聞くしかないでしょう?」
あまりにも理路整然とした、非の打ちどころのない正論だった。
シンジが「……確かに、そうかもしれないな。場所も分からないまま逃げ回って一生怪物に怯えるよりは、まずは人里で情報を集めるべきか」と唸り、トオルも「あの機械の画面に一瞬映った世界地図の輪郭と、現地の人の話を照らし合わせれば、場所くらいは分かるかもしれないね」と頷いている。
俺は木漏れ日の下に立つテンテを見つめながら、胸の奥が熱く震えるのを抑えられなかった。
クラスメイトたちは、彼女がみんなを守るために戦おうとしていると思っている。だが、俺だけは、彼女のその氷のように冷徹な言葉の奥にある気高さに気づいていた。
彼女は誰かに甘えることも、弱音を吐くことも決してしない。
臆病な二十八人のクラスメイトを導くために、ただ一人であらゆる恐怖を押し殺し、孤独な先導者としてこの偽りの世界に立ち向かおうとしているのだ。
懐にしまった『聖軌規範』の頁が、俺の鼓動に合わせて熱を帯びていく。
あの黒い冊子の第三条には、地上領域に展開された四方の自律拠点が最上位対象の優先権を阻害する時、これを偽りの権威と見なし、悉く停止せよと記されていた。
そして第四条には、こうも書かれていたはずだ。
――《第四条:低位なる群れが最上位対象の進行を遅延せしむる時、従属する者は速やかにその負荷を切り離し、対象の意志のみを遂行せよ》
そうだ。カズマやミホのような連中が、安全だの暮らしだのと喚いてテンテの足を引っ張るというのなら、無理に連れていく必要などない。四つの城が世界の果てにあろうと、俺が草の根を分けてでもその場所を突き止め、彼女の御前へと差し出すのだ。
「――俺も、テンテの言う通りにするべきだと思う」
俺が立ち上がってそう宣言すると、座り込んでいた全員の視線が俺に集まった。
さっき鉄パイプ一本で怪物の前に飛び出した異常者を見る目だ。カズマが「ラキ、お前までなに言って……」と口を挟もうとしたのを、俺は冷ややかな視線で黙らせた。
「村に隠れて震えていたい奴は、勝手に残ればいい。だが、テンテが行くなら俺は行く。彼女一人に情報を集めさせて、後ろで守ってもらおうなんて虫のいい話が通用すると思うなよ。……アイテールとやらが世界のどこにあろうが、テンテが歩く道の邪魔になるものは、俺が最初に全部踏み潰す」
シンジやトオルが、息を呑んで俺を見上げた。
「ラキ……お前、そこまでの覚悟でさっき前に出たのか」「俺たちが情けないばかりに、すまない……」と、シンジが感銘を受けたように呟いている。何か勘違いをされている気もするが、どうでもいい。俺の言葉は、最初からクラスメイトたちではなく、たった一人の聖女にだけ向けられた信仰の誓いなのだから。
俺が視線を向けると、少し離れた場所に立っていたテンテと真っ直ぐに目が合った。
彼女は俺に近づいてくることも、甘い言葉を返すこともなかった。ただ、凛と背筋を伸ばしたまま、微動だにせず俺を見つめている。
だが、そのすました白い頬がほんのわずかだけ紅潮し、体側に下ろされた彼女の白い指先が、何かを必死に堪えるようにキュッと強く握りしめられたのを俺は見た。彼女の黒い瞳の奥底で、暗い炎のような歓喜の光が激しく跳ね上がり、唇の端が誰にも気づかれないほど小さく、満足げに弧を描いた。
「……そう。頼もしいわね、ラキ。なら、迷う必要はないわ」
どこまでも涼しげで、事務的ですらある短い返答だった。
けれど、その一言に込められた静かな響きだけで、俺の魂は震えるほどの充足感に満たされた。聖女たる彼女が、俺の従属を正式に認めてくださったのだ。
「よし、まずはこの山を下りて、人が住む集落を探そう。そこでこの世界の状況と、四天王の居城の手がかりを集める。……ラキ、テンテさん、先頭をお願いできるか?」
シンジの言葉に、俺とテンテは互いに触れ合うこともなく、ただ一定の距離を保ったまま同時に頷いた。
こうして俺たちは、まとまりきらない不安と、誰にも理解されないそれぞれの思惑を胸に秘めたまま、緑に呑まれた三百四十年後の大地へと足を踏み出したのだった。




