第四話:偽りの空と、最初の奇跡
「グルルルル……ッ!」
坑道の出口を塞ぐ瓦礫の山の上で、六つ目の怪物が再び低く喉を鳴らした。
逆光を浴びて黒光りする硬い甲殻の隙間から、白い蒸気がプシュッと噴き出す。外気の中を漂う青い光の粒が怪物の背中の突起へと次々に吸い込まれ、そのたびに丸太のような四肢の筋肉がミシミシと不気味に膨れ上がっていく。俺たちが知っている地球上のどんな動物とも違う、悪夢の中からそのまま這い出してきたような異形の獣だった。
「む、無理だよ……あんなの、熊よりデカいじゃないか……!」
「誰か、さっきの機械が言ってた魔法ってやつを使えよ! 画面に出てた赤い文字、読めた奴はいないのか!?」
壁際にへたり込んだカズマが、裏返った声で周囲を見回す。
だが、他のクラスメイトたちもただ頭を抱えて震え、あるいは泣きじゃくるばかりだった。無理もない。あの地下の空洞が崩れ落ちる極限の混乱の中で、一瞬だけ空中に映し出された意味不明な発音記号の羅列を正確に記憶できた人間など、普通はいるはずがないのだ。そもそも、言葉を発するだけであんな化け物に勝てるなどという話自体、にわかには信じがたい狂言に思えた。
怪物の六つの赤い目が、一番手前で腰を抜かしている女子生徒へと一斉に焦点を合わせた。
太い後ろ脚が沈み込み、黒い鉤爪がコンクリートの瓦礫をミシリと踏み砕く。跳ぶ気だ。あの巨体が振り下ろされれば、人間の身体などひとたまりもない。
その時、俺のすぐ後ろにいたテンテが、音もなく一歩前へと足を踏み出した。
俺と繋いでいた彼女の手が、すっと解かれる。
横目で見たテンテの横顔には、周囲の生徒たちが浮かべているような恐怖や動揺は微塵もなかった。どこまでも涼しげで、氷のように澄み切った佇まい。ただ、怪物を捉える彼女の黒い瞳の奥底には、俺と二人で歩いていた時間を無粋な害虫に邪魔されたことへの、冷え切った苛立ちだけが静かに宿っていた。
彼女の薄い唇がわずかに開き、あの機械が最後に残した奇妙な発音を紡ぎ出そうとした、まさにその瞬間だった。
「――下がっていろ、テンテ」
俺は彼女の華奢な肩を追い越し、その前に立ちはだかるようにして斜坑の中央へと躍り出ていた。
「……ラキ?」
背後でテンテが低く呟く気配を感じながら、俺は足元の土砂に半分埋もれていた、錆び残りの太い鉄パイプの破片を右手で引き抜いた。青い光の粒に蝕まれて表面が赤茶け、ボロボロと剥がれ落ちかけている鉄の棒だが、まだ芯の部分には鈍器としての重みが残っている。
俺の胸の奥では、懐に抱いた『聖軌規範』が熱い塊となって脈打っていた。
第二条には、最上位対象の進行軌道を最優先領域と定め、その軌道上に存在するあらゆる物理的障害や不純物を事前に排除し、塵一つ残すべからずと記されている。
今、テンテは俺たちの前に立とうとしていた。
そんなことが許されるはずがない。もし万が一にも、あの化け物の吐き出す唾液や返り血が、彼女の白い頬や美しい黒髪を汚すようなことがあったらどうするのだ。聖女たる彼女の御手を不浄な獣の血で穢させないためにこそ、俺という従属者が存在しているのではないか!
「お、おいラキ!? お前、なに考えてんだ、戻れって! 死ぬぞ!」
背後でカズマが悲鳴のような声を上げるが、俺の耳には届かない。
俺は鉄パイプを両手で強く握りしめ、怯えるクラスメイトたちとテンテを背後に庇いながら、一歩、また一歩と怪物の立つ瓦礫の山へと歩み寄った。
「来いよ、化け物! そこから先は、彼女が歩く道だ。お前のような汚らわしいものが、一秒たりとも居座っていい場所じゃない!」
俺が坑道全体に響き渡る声で叫び、鉄パイプの先端を突きつけると、怪物の六つの目がギョロリと動いて俺一人を捉えた。
獲物が自ら前に出てきたことに興奮したのか、怪物が大きく顎を開き、鼓膜が破れそうな咆哮を上げながら瓦礫の山を蹴った。
黒い暴風のような巨体が、一直線に俺の頭上へと降ってくる。
速い。目ではとても追いきれないほどの速度だ。だが、不思議と俺の心には恐怖のカケラもなかった。俺がここで血を流してでもこいつの顎に鉄パイプを突き込み、ほんの一瞬でも動きを止めれば、テンテは無傷のまま外へ出られる。そう思った瞬間、俺の足は逃げるどころか、地面を強く踏みしめて怪物の真正面へと鉄パイプを振り上げていた。
「……本当に、馬鹿な人ね」
背後から、坑道の空気を一瞬で凍らせるほど静かで、低く澄み切ったテンテの声が響いた。
叫び声でも、取り乱した悲鳴でもない。あまりにも落ち着き払った、絶対零度の響き。
直後、俺のすぐ後ろの空間で、空気そのものが沸騰するような凄まじい音が鳴り響いた。
テンテが、あの機械の画面に映し出されていた奇妙な発音記号を、流れるような美しい抑揚で口にしたのが聞こえた。
その短い言葉に呼応するように、斜坑の中に漂っていた無数の青白い光の粒が、一瞬にして俺の背後へと吸い寄せられていく。青白い光はたちまち目を焼くような深紅へと変色し、肌がピリピリと粟立つような激しい熱気が背中を撫でた。
俺が振り上げた鉄パイプの先端が、飛びかかってきた怪物の牙とぶつかる、ほんのわずか手前。
俺の右肩のすぐ横を、太陽をそのまま細く引き絞ったかのような、白熱する光の奔流が音もなく掠め通った。
「――っ!?」
熱風で前髪がチリッと焦げる。
テンテが放ったその光の槍は、俺の身体には火傷一つ負わせぬよう紙一重の隙間を通り抜け、俺に噛みつこうと大きく開かれていた怪物の口の中へと、真正面から突き刺さった。
音はなかった。
ただ、眩い光が怪物の内部で膨れ上がり、次の瞬間には、三メートルあったはずの巨体の頭部が、背後の分厚いコンクリートの崩落岩ごと跡形もなく消し飛んでいた。
ドォォォンッ!!
一拍遅れて発生したすさまじい爆風と衝撃波が、坑道の出口を塞いでいた瓦礫の山を粉々に吹き飛ばした。
頭を失った怪物の胴体が、返り血一滴すら飛び散らせることなく、断面を真っ黒に焦がした状態でゴロゴロと外の大地へと転がり落ちていく。俺の手にしていた鉄パイプは、今の熱波と青い光の激しい反応によって完全に錆びつき、サラサラとした赤い砂になって指の隙間からこぼれ落ちた。
坑道の中は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
誰も言葉を発することができない。ただ、怪物と瓦礫が吹き飛んでぽっかりと開いた巨大な出口から、緑の匂いを孕んだ風と、目が眩むような太陽の光が坑道の中へと一気に流れ込んできた。
「す、すげえ……なんだよ今の、手品じゃねえぞ……」
「一撃で、岩ごと消し飛ばした……あれが、魔法なのか……?」
腰を抜かしていたクラスメイトたちが、信じられないものを見る目で俺とテンテを見上げている。
俺がゆっくりと振り返ると、すぐ後ろにテンテが立っていた。
彼女の顔色は普段と変わらず白く滑らかで、呼吸ひとつ乱れてはいなかった。
彼女は静かな足取りで俺の目の前まで歩み寄ると、俺の麻のシャツの胸元を、白く細い両手でそっと掴んだ。
「……前髪、少し焦げてしまったわね」
どこまでも穏やかで、涼しげな声だった。
だが、俺の胸元を掴む彼女の指先には、布地が千切れそうなほど凄まじい力が込められていた。そして、長い睫毛の奥から俺を見上げるその黒い瞳の奥底には、言葉では決して言い表せないほど激しく、ドロドロと渦巻くような暗い熱狂の光が宿っていた。
まるで、俺が彼女のために迷わず命を投げ出したという事実に、心の奥底で狂おしいほど歓喜し、震え上がっているかのような――そんな底知れない眼差し。
「私の前に出ないでと言ったはずよ、ラキ。……あなたが傷ついたら、私がここまで我慢して歩いてきた意味がなくなるわ。次は絶対に、私の隣から離れないで」
誰にも聞こえないほど低く、それでいて甘い蜜を含んだような声で彼女は囁いた。
俺には彼女の気持ちが痛いほど分かっていた。
『聖軌規範』の教え通りとはいえ、まだ何の力も持たない俺が鉄パイプ一本で前に出たことで、聖女である彼女に自ら手を下すという労力をかけさせてしまったのだ。自分の無力さが情けない。
「……すまない、テンテ。俺が未熟なせいで、お前に手を使わせてしまった」
俺が深く頭を下げて謝罪すると、テンテは俺の胸元からゆっくりと手を離し、唇の端に、背筋がゾクッとするほど綺麗で満足げな微笑みを浮かべた。
そして周囲のクラスメイトたちが立ち上がってこちらへ近づいてくる気配を察すると、彼女はすぐさま普段の凛とした優等生の表情へと戻り、俺の手を自然に取って出口へと向き直った。
「行きましょう、ラキ。外がどうなっているのか、確かめないと」
俺たちは二人並んで、崩れ落ちた坑道の外へと最初の一歩を踏み出した。
革靴の底が、柔らかく湿った土を踏みしめる。
視界いっぱいに広がっていたのは、俺たちの知る岩手県の山並みでも、舗装された道路でもなかった。見上げるほど巨大な樹木が天を覆う鬱蒼とした原生林と、その遥か上空を、昼間だというのに淡い青緑色の帯となって揺らめく光のカーテン。
遠くの谷間には、かつての鉄橋や送電塔らしき巨大な骨組みが、太い植物の蔦に呑み込まれ、赤錆の塊となっていくつも突き立っているのが見えた。
本当に、三百四十年後の未来なのだと、その圧倒的な光景が有無を言わせず俺たちに突きつけていた。
「うそだろ……街が、どこにもねえぞ……」
「道路も電線も消えてるし、本当に何百年も未来に来ちゃったっていうの……? 私、お家に帰りたいよぉ……!」
後から恐る恐る外へ出てきた生徒たちが、その絶望的なまでの大自然を前にして、再び泣き崩れ始める。
風が吹き抜け、木々の葉が擦れ合う音とともに、空気中の青い光がキラキラと俺たちの周囲を舞い踊った。
俺の隣で、テンテがその広大な空を冷ややかに見据えながら、静かに呟いた。
「……四天王の居城、ね。この世界のどこかに、あの機械が言っていた場所があるはずよ。早く見つけ出して、全部終わらせましょう」
彼女の声には、この未知の世界への恐れも、人類を救うといった使命感も滲んではいなかった。ただ、自分たちの時間を邪魔する課題を、一刻も早く片付けてしまおうとするかのような淡々とした響きだけがあった。
だが、俺の目には、青い光の粒子をまとって風に立つ彼女の姿が、この偽りの神話世界に降り立った唯一無二の聖女そのものに映っていた。
俺は空いている方の手で、懐に眠る『聖軌規範』の硬い表紙を強く押さえた。
機械が遺した言葉も、この世界の成り立ちも、俺にはどうでもいい。俺のなすべきことはただ一つ。彼女が歩むこの果てしない軌道の露払いを務め、四方の偽りの拠点を打ち砕き、すべてを彼女に捧げることだ。
「ああ、行こう、テンテ。――お前が望む場所へ、どこまでも」




