第三話:聖女の仮面と、青き燐光の坑道
青白い光の霧が渦巻く瓦礫の山を、テンテが静かな足取りで降りてくる。
頭上からは絶え間なく花崗岩の破片が降り注ぎ、足元の鉄骨が赤錆となって崩れ落ちていく地獄のような光景の中で、彼女の姿だけは別世界の住人のように澄み切っていた。空気中に漂う無数の青い光点が、彼女の黒い髪や灰色の外套の裾にまとわりつき、まるで夜空の星屑を織り込んだ衣のように淡い燐光を放っている。
「……無茶をするのね、ラキ。私を突き飛ばして、自分だけこんな瓦礫の下に残るなんて」
俺のすぐ前に立ったテンテは、息一つ乱すことなく、涼しげな声でそう言った。
いつも通りの、どんな時でも感情の波を決して表に出さない落ち着いた佇まいだ。彼女はゆっくりと膝を折り、砂塵にまみれた俺の目の前へと白い手を差し伸べた。
だが、彼女の視線が俺の額をかすめた擦り傷と、瓦礫をついた時に滲んだ手のひらの血に止まった瞬間だった。
テンテの長い睫毛がわずかに伏せられ、その黒い瞳の奥底に、背筋がぞくりと粟立つほど冷たく、暗い光が宿った。彼女はちらりと、俺を置いて逃げ出したクラスメイトたちが消えた北西の斜坑へと目を向けた。その横顔は、もし叶うならこの崩れゆく岩盤ごと、俺を傷つけたものすべてを跡形もなく消し去ってしまいたいとでも思っているかのように冷え切っていた。
「……テンテ?」
俺が思わず声をかけると、彼女は小さく瞬きをした。
次の瞬間には、その氷のような冷たさは跡形もなく消え去り、いつもの穏やかで凛とした微笑みが彼女の唇に戻っていた。
「なんでもないわ。……立てる? 骨には異常はないかしら」
「ああ、ただのかすり傷だ。それより、なんでお前一人で戻ってきたんだよ。俺なんかのために、もしお前に万が一のことがあったら……」
俺は自分の言葉を途中で呑み込んだ。
懐にしまい込んだ『聖軌規範』の硬い感触が、麻のシャツ越しにじわりと胸を焼いていた。
そうだ。俺としたことが、なんという不敬な口を利いているのだ。彼女は俺ごときを救うために、自ら崩れゆく瓦礫の底へと引き返してくださったのだぞ。その気高い慈悲に対して、なぜ戻ってきたなどと問い詰めるのは、従属する者として万死に値する無礼ではないか。
俺は慌てて居住まいを正し、瓦礫の上に深く頭を垂れた。
「……いや。ありがとう、テンテ。お前が戻ってきてくれたおかげで、俺は救われた」
「……ずいぶん改まった言い方をするのね、ラキ。あなたが私を庇ったのだから、私が迎えに来るのは当然でしょう」
テンテは静かな声でそう応じながら、俺の手を取って引き起こしてくれた。
表面上はどこまでも冷静で涼しげな顔をしているのに、俺の手を握り返してきた彼女の白く細い指先は、俺の血で汚れることも厭わず、まるで二度と手放さないとでも言うかのように、爪が食い込むほどの異様な強さで俺の指を絡め取ってきた。
「さあ、行きましょう。ここもじきに埋まるわ」
「ああ。……足元が悪い、俺が前を歩く」
俺は立ち上がると、テンテの半歩前へと出て、落ちてくる小石や瓦礫から彼女を庇うようにして北西の斜坑へと向かった。
『聖軌規範』の第二条には、最上位対象の進行軌道上に存在するあらゆる物理的障害や不純物を事前に排除し、塵一つ残すなと記されていた。
まだ俺には、あの機械が最後に投影した魔法とやらの文字を読み解く力はない。だが、この身一つを盾にして、彼女が歩む道から小石や瓦礫を取り除くことくらいはできる。
ドォンッ! と背後で一際大きな轟音が響き、俺たちが今までいた地下ドームの天井が完全に崩落した。
吹き荒れる砂塵と突風が、斜坑の入り口へと入った俺たちの背中を強く押し上げる。
「……ここから先は、一本道みたいだな」
俺たちが足を踏み入れた北西の斜坑は、かつて鉱石を運ぶトロッコが通っていたらしい、緩やかな上り坂のトンネルだった。
だが、その坑道の内部もまた、異様な変貌を遂げつつあった。
上方から、あの青白い光の粒が川の流れのように止めどなく吹き降りてきているのだ。その光が坑道の壁面に打ち込まれた古い鉄の支柱や、床に敷かれたレールに触れるたび、ジュウウ、と泡立つような音を立てて金属が赤茶けた粉末へと変わり、風に乗ってサラサラと崩れ落ちていく。
鉄の支柱が消えたことで、坑道の天井からはミシミシと不気味な軋み音が鳴り響き、湿った土砂が絶えず落ちてきていた。
「ラキ。私の前ばかり歩かないで、隣に並びなさい」
背後から、テンテの静かな、しかし有無を言わせぬ声が飛んできた。
俺と繋いだままの彼女の手が、ぐっと強く引かれる。振り返ると、彼女は青白い燐光に照らされた端正な顔をピクリとも動かさず、ただ真っ直ぐに俺の背中を見つめていた。
「あなたが前に出たら、上から岩が落ちてきた時にあなただけが傷つくでしょう。そんなことをされたら、私がわざわざ戻った意味がないわ」
「テンテ……」
なんという無私の言葉だろう。
自分の身の安全よりも、盾となるべき俺の命をここまで案じてくださるとは。教室にいた頃の俺なら、彼女のその言葉に勝手に期待し、勝手に身の程を知って苦しんでいたはずだ。
だが、今の俺には『聖軌規範』がある。迷いはない。
「心配するな、テンテ。俺はもう、お前を置いて勝手に死んだりはしない。お前がこの先どこを歩こうと、その道は俺が隣で守り抜く。それが俺の、唯一の目的だからな」
俺が真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返してそう告げた瞬間、テンテの足がピタリと止まった。
彼女は表情こそ変えなかったものの、その黒い瞳が大きく見開かれ、青白い光に照らされた白い耳朶が、見る間に朱色へと染まっていった。俺の手を握る彼女の指先に、骨が軋むほどの力がこもる。
「……そう。今、あなたが自分の口で言ったのよ、ラキ」
彼女の声は、今まで通り低く落ち着いていた。
だが、その声の奥には、隠しきれずに滲み出たような、ひどく甘く熱っぽい響きが混じっていた。彼女は繋いだ俺の手を、自分の灰色の外套の胸元へとそっと引き寄せると、冷ややかなほど整った顔立ちの上に、ぞくりとするほど深く艶やかな微笑みをほんのわずかだけ浮かべた。
「忘れないでね。あなたがずっと私の隣にいると言ったのよ。……なら、先の道なんて心配しなくていいわ。あの機械が言っていた四つの城でも、なんでもいい。私たちの前を塞ぐ邪魔なものは、私がすべて最短で片付けてあげる」
「ああ。四方の偽りの権威など、お前の前では塵も同じだ」
俺が『聖軌規範』の第三条を思い浮かべながら応じると、テンテは満足げに細めた瞳で俺を見つめ、再び静かに歩き出した。言葉の意味がどこか噛み合っていないような気もしたが、彼女の深遠なる思慮を俺ごときが完全に測れるはずもない。ただ彼女が俺の誓いを受け入れてくれた、その事実だけで俺の胸は満たされていた。
俺たちは手を取り合ったまま、青白い光が吹き降りる斜坑を登り続けた。
どれくらい歩いただろうか。十分か、あるいはそれ以上か。
次第に空気の温度が上がり、冷たい石の匂いに混じって、むせ返るような土と濃い草木の匂いが鼻腔をくすぐり始めた。同時に、上方から差し込む光が青白い燐光から、眩いばかりの自然の太陽光へと変わっていく。
外だ。ついに坑道の出口に辿り着いたのだ。
だが、その出口の手前――最後の緩やかなカーブを曲がったところで、俺は足を止めた。
「……なんだ、あれは。なんでみんな外に出ないんだ?」
俺たちの前を走って逃げていたはずの二十八人のクラスメイトたちが、出口のすぐ手前の広場で、誰一人として外へ出ることなく塊になって立ち尽くしていたのだ。
いや、立ち尽くしているのではない。誰もが腰を抜かし、壁際にへたり込み、あるいは互いの肩を抱き合って、声にならない悲鳴を上げながらガタガタと震えていた。一番体格のいい柔道部のカズマでさえ、顔面を蒼白にして尻餅をつき、出口の向こう側を指差して歯の根を鳴らしている。
「う、嘘だろ……なんだよあの化け物、映画のCGじゃねえのかよ……!」
「無理よ、外に出たら絶対に食い殺される……っ!」
俺はテンテを背後に隠すようにしながら、クラスメイトたちの視線の先――半分崩れ落ちた坑道の出口を見上げた。
そこには、眩しい陽光を背後から浴びて、巨大な影が立ち塞がっていた。
外の世界を埋め尽くす鬱蒼とした巨木の森。その太い木の根が絡みついた瓦礫の山の上に、全長三メートルはあろうかという四足歩行の異形の獣が君臨していたのだ。
狼に似た輪郭でありながら、その全身は昆虫のような黒光りする硬い甲殻に覆われている。頭部には耳がなく、代わりに赤く光る六つの目がギョロギョロと不規則に動き、裂けた顎からは粘り気のある唾液が糸を引いて垂れ落ちていた。空気中の青い光の粒が獣の背中の突起に吸い込まれ、バチバチと不気味な火花を散らしている。
「グルルルル……ッ!」
六つ目の怪物が、坑道の中にひしめく俺たち三十人を見下ろし、鼓膜をビリビリと震わせるような低い唸り声を上げた。
後ろはすでに崩れ落ちた岩盤、前は見たこともない化け物の顎だ。誰かがヒュッと引きつった悲鳴を漏らし、坑道の出口は絶望的な沈黙に支配された




