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第十七話:水没聖都トキオウと、春雷の記憶


長い石橋を渡りきった俺たちの目の前に、かつての日本の首都の変わり果てた姿が広がった。


「……うそだろ。東京が、海に沈んでるのか……?」


先頭の一号車の御者台で、カズマが呆然と呟いた。

見渡す限りの浅い入り江と、その水面から墓標のように突き出した何百本もの巨大な灰色の角柱――かつての超高層ビル群のコンクリートの骨格が林立していた。金属の窓枠や鉄骨はすべて腐食して消え失せ、風化したコンクリートの柱だけが、白い海鳥の群れと緑の蔦に覆われて海の上にそびえ立っている。


そして、その水没したビル群の根元や、海面から顔を出している高台の島々を繋ぐようにして、巨大な魔獣の骨と白い石材で組まれた無数の吊り橋や防壁が張り巡らされていた。何千もの木造や石造りの家々が、折れたビルの屋上や斜面にへばりつくようにして並び、巨大な水上都市を作り出している。


「あれが、この東の地方で最大の聖都『トキオウ』でございますよ」


カズマの隣に座る案内人のヤヒロが、細い目を眇めて言った。

「大昔の『トウキョウ』という呼び名が訛ったものだと聞いております。海から上がってくる水棲の魔獣を防ぐため、古の石柱を土台にして高い場所に街を作っているのです。人口はセンダリオンを凌ぐ十五万人ほど。ここから西へ続く大巡礼路――昔の東名と呼ばれる街道へ入るには、このトキオウを抜けていく必要があります」


俺たちは馬車を走らせ、そのまま『トキオウ』の街の内部へと足を踏み入れた。

そこには、センダリオン以上に歪で厳格な「この世界の仕組み」がむき出しになって広がっていた。


橋の下の泥水に近い浅瀬や、崩れかけたコンクリートのビルの最下層には、ボロボロの麻布をまとった痩せ細った人々が何百人もひしめき合い、網で小さな魚を掬ったり、魔獣の骨を石の槌で砕いたりして泥にまみれて働いている。

その一方で、ビルの高層部を繋いで作られた日当たりの良い石畳の上層街には、魔獣の甲殻鎧を着た衛士たちが立ち並び、青い結晶石を首から下げた白い衣の神官たちが、平民たちに荷車を引かせて優雅に歩いていた。


通り過ぎる神官の一人が、道を塞いでいた小さな子供の荷車に向かって、短い言葉で風の魔法を放ち、荷車ごと子供を道の端へと乱暴に吹き飛ばすのが見えた。だが、周囲の平民たちは怒るどころか、真っ青になって地面に額を擦りつけ、許しを請うように小さな青い結晶石の欠片を差し出している。


「……ひどいな。マナを強く使える神官たちが一番偉くて、魔法を使えない普通の人たちは、魔獣の石や食べ物を差し出して壁の中に住まわせてもらってるんだね……」


一号車の荷台から外を見ていたトオルが、暗い声で呟いた。

俺は二号車の御者台で手綱を握りながら、その光景を何の感慨もなく見下ろしていた。

科学が消えて三百四十年が経とうと、人間のやることは俺たちの時代と何一つ変わっていない。使える道具が金や地位からマナという光に変わっただけで、結局は力を持つ者が上にあぐらをかき、弱い者が泥を啜って媚びへつらう、薄汚い序列の箱庭だ。


俺は、昔からこういう人間どもの作る空気や序列が吐き気がするほど嫌いだった。

ふと、潮風に揺れる街のざわめきの中で、俺の脳裏に、あの釜石の鉱山へ行くよりもさらに前――高校二年生の春、まだ俺たちの普通の日常があった頃の記憶が蘇った。


***


あれは、クラス替えから一ヶ月ほどが経った五月の放課後だった。

激しい夕立が降り出し、雷が遠くでゴロゴロと鳴り響いていた日だ。いつも通り誰とも話さずに一人で昇降口を出た俺は、傘を持っていなかったことに気づき、校舎の裏手にある古い渡り廊下の軒下で雨が弱まるのを待っていた。


その渡り廊下のすぐ横の植え込みで、一羽の黒いカラスが、翼を針金か何かに引っかけて泥水の中に落ちて暴れていた。

渡り廊下を通りかかる生徒たちは、みんな傘を差しながら「うわ、なんかカラスが暴れてる、気持ち悪い」「血が出てるよ、近寄らないでおこうぜ」と笑いながら、スマホで写真を撮るか、汚いものを見るように避けて通り過ぎていった。

俺もまた、連中と同じだった。可哀想だとは思っても、泥まみれになって暴れる不気味な黒い鳥に手を伸ばせば、自分の制服が汚れ、周りから「あいつ変なことをしてる」と白い目で見られる。それが煩わしくて、ただポケットに手を突っ込んだまま遠巻きに眺めていたのだ。


その時だった。

昇降口の方から、一人の女子生徒が歩いてきた。同じクラスになったばかりの、黒髪の優等生――テンテだった。

彼女の周りにはいつもミホたち何人かの女子が群がっていたが、その日は委員会の仕事か何かで遅くなったのか、たった一人だった。


テンテは植え込みの前で足を止めると、泥の中で羽ばたくカラスをじっと見下ろした。

俺は、彼女も他の女子たちと同じように眉をひそめて避けて通るのだろうと思った。いつも誰に対しても愛想がよく、先生やクラスメイトの顔色を完璧に読んで振る舞う「優等生」なのだから、わざわざ誰も見ていない場所で泥に手を突っ込むはずがない、と。


だが、次の瞬間、俺の予想は完全に裏切られた。

テンテは手にしていた白い傘を、まるでゴミでも捨てるかのように無造作に地面へと放り出したのだ。

降りしきる豪雨が、一瞬にして彼女の長い黒髪と整った制服をずぶ濡れにしていく。けれど彼女は、自分の服が濡れることなど微塵も気にする様子もなく、泥水の中へと真っ直ぐに膝をついた。


暴れるカラスの鋭い嘴が、彼女の白い手の甲を容赦なく突き刺し、赤い血が雨水に混じって流れた。

それでも、テンテの顔はピクリとも動かなかった。痛みに顔をしかめることも、優しい声をかけて鳥を宥めることもない。彼女の顔から、いつも教室で見せているあの「穏やかな優等生の微笑み」が完全に消え失せ、まるで氷の彫刻のように冷たく、絶対的な無表情になっていたのだ。


彼女はただ無言のまま、血の流れる白い指先でカラスの翼に絡みついた針金を力任せに引き千切り、泥まみれの鳥を両手で掬い上げると、雨の当たらない植え込みの奥へと押し込んだ。

そして、自分の手の甲から流れる血を、制服の白いブラウスの裾でぞんざいに拭うと、地面に落ちた傘を拾い上げ、何事もなかったかのように再び冷たい雨の中を歩き去っていったのである。


渡り廊下の柱の陰でそれを見ていた俺は、雷に打たれたように息を呑み、その場から一歩も動くことができなかった。

あの時、彼女がなぜカラスを助けたのかは分からない。もしかしたら、ただ視界の中でバタバタと暴れているのが鬱陶しかっただけなのかもしれない。

だが、ずぶ濡れの黒髪を張りつかせ、血を流しながら泥の中に膝をついていた彼女のあの「氷のように冷たく、周囲の目など塵ほども気にしていない横顔」を見た瞬間、俺の胸の奥には、今まで感じたこともないような激しい衝撃と渇望が突き刺さったのだ。


ああ、この人は、俺や他のクラスメイトたちのような、周りの目を気にして生きる薄汚い人間どもとは根本から違う。

教室で見せている優しい笑顔はすべて偽物で、その奥には、誰にも触れられないほど冷たくて、気高くて、圧倒的に美しい「本物」が隠れているのだ、と。


あの日からだった。俺が教室の窓際の席から、来る日も来る日も、彼女の横顔だけを目で追うようになったのは。


***


「――ラキ。前を見て。橋の真ん中に、水溜まりができているわよ」


すぐ背後から聞こえてきた、涼しげで澄み切った声に、俺はハッと意識を現実へと引き戻した。

見れば、『トキオウ』の上層街を繋ぐ石橋の途中に、昨日の雨水が溜まった大きな泥水溜まりが広がっていた。先頭の一号車はそのまま水溜まりに突っ込んで泥跳ねを上げていたが、俺は咄嗟に手綱を操作し、二号車の車輪が水溜まりを完全に避けて通るよう滑らかに軌道をずらした。


「……すまない、テンテ。少し考え事をしていた。揺れなかったか?」

「ええ、少しも。あなたの引く馬車は、本当に静かだわ」


幌の隙間から顔を出したテンテは、俺の背中のすぐ後ろで、穏やかにそう答えた。

彼女は周囲に広がる『トキオウ』の異様な水没都市の風景にも、道端でひれ伏す平民や威張り散らす神官たちの姿にも、一切の興味を示していなかった。ただ、俺が泥水溜まりを避けて馬車を走らせたその手綱さばきだけを見つめ、潮風に揺れる長い黒髪の奥で、黒い瞳を満足げに細めていた。


やはりそうだ。あの五月の雨の日に俺が見た通り、彼女はこの世界のどんな権威よりも、どんな神話の神々よりも気高く、誰にも縛られない最上位の存在なのだ。そして今、俺にはただ遠くから見ているだけだったあの頃とは違い、彼女に正しく仕えるための『聖軌規範』がある。


俺は手綱を強く握り直し、懐の黒い冊子の重みを確かめながら、水没聖都『トキオウ』の中心部へと向かって馬車を進めた

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