第十六話:風の鋤と、水辺の大関所
河原での野営からさらに三日間、俺たち十五人と案内人のヤヒロを乗せた三台の馬車は、『星標の旗』が切り開く滑らかな巡礼路をひたすら南へと走り続けた。
四日目の朝、鬱蒼とした武蔵野の原生林を抜けると、視界が急に大きく開け、どこまでも続く広大な「農村地帯」へと出た。
「……すげえな。見渡す限り、全部畑と田んぼだぞ」
先頭の一号車の御者台で、カズマが感嘆の声を上げた。
緩やかな丘陵から続く平地には、黄金色に実り始めた麦畑や、水を張った棚田が幾重にも広がっていた。この先に控える十五万人の大都市『トキオウ』の胃袋を支えている大穀倉地帯なのだろう。
だが、俺たちの目を引いたのは、その広大な畑を耕している人々の奇妙な作業風景だった。
この世界には鉄の鍬も、鋼の鋤も、もちろんエンジンで動くトラクターも存在しない。その代わりに、畑の畦道には白い衣を着た「農耕神官」と思しき男たちが数人ずつ立ち、手にした木の杖を地面に向けて、揃った抑揚で長い祈りの言葉を唱えていたのだ。
「――オオ、ツチノ、イブキヨ、ウネヲ、ウガテ……」
神官たちの詠唱が終わると、畑の土の上に漂っていた青い光の粒が淡く渦を巻き、目に見えない風の刃や土の波となって、幅十メートルほどの地面を一気にボコボコと掘り起こしていく。
そして、その掘り起こされたばかりの土の上へ、粗末な麻服を着た何十人もの農民たちが一斉に駆け寄り、硬い木の鍬や動物の肩甲骨で作った鋤を使って、必死に土の塊を砕いて畝を整えているのだった。
「なるほど……。鉄の農具がないから、ああやってマナを使える神官に頼んで大まかな整地や耕運をしてもらい、細かい作業を大勢の人手でやっているんだね」
一号車の荷台から顔を出したトオルが、納得したように頷いた。
その隣で、案内人のヤヒロが細い目をさらに細めて補足する。
「ええ、よくお分かりで。このトキオウ周辺の農村では、聖堂から派遣された農耕神官様が週に一度、ああして『大地の奇跡』で硬い土を掘り起こしてくださるのです。もちろん無償ではありませんから、農民たちは収穫した麦の半分と、森で拾った青い石を神官様に納める決まりになっておりますがね」
実際に目を凝らして見れば、木の杖を振るう神官たちは日傘の下で涼しい顔をして立っているのに対し、泥まみれになって働く農民たちは、神官の足元に土が跳ねないよう異常なほど神経をすり減らして頭を下げ続けていた。少し離れた水路の方でも、別の神官が短い言葉で水流を操り、自分たちに逆らわない従順な村の畑へと優先的に水を引いているのが見える。
俺は二号車の御者台で手綱を握りながら、その光景を冷めた目で通り過ぎた。
魔法で地面を掘ろうが、水を引こうが、そこにいる人間どもの浅ましさは少しも変わらない。わずかなマナを操れるだけの連中が神の使いを気取ってふんぞり返り、力を持たない連中が泥を啜って媚びへつらう。
俺は懐の『聖軌規範』を服の上からそっと押さえ、背後の幌の中にいるテンテの気配を確かめた。彼女がもし一言でも声を上げれば、この平野の土など一瞬ですべてひっくり返せるだろう。だが、彼女の尊い声を、こんな俗物どもの畑仕事などに使わせるわけにはいかない。
***
農村地帯を貫く一本道を二時間ほど走ると、やがて前方に潮の香りとともに、巨大な石造りの関門が見えてきた。
そこから先は地面が緩やかに傾斜して浅い海へと沈んでおり、遥か沖合の水面からは、かつての東京の超高層ビル群であったろう無数の灰色のコンクリートの角柱が、巨大な墓標のように突き出しているのが見えた。
陸地と、その水没都市『トキオウ』を繋ぐ唯一の大橋の手前に築かれていたのは、センダリオンの城門よりもさらに厳重な「大検問所」だった。
高さ十メートルを超える白い石壁の前には、何十台もの農民の荷車や行商人の馬車が長い列を作っており、魔獣の甲殻鎧を着込んだ百人近い衛兵と、青い結晶石を首から下げた検問神官たちが、一台ずつ荷台の中身を厳しい目で調べ上げている。
「うわぁ、すごい行列だね……。これ、通るのに何時間もかかるんじゃないの?」
二号車の幌の中から外を覗いたミホが、不安そうな声を上げた。
すると、一号車の御者台からヤヒロが振り返り、薄い笑みを浮かべて言った。
「ご安心を。一般の商人なら半日は待たされますが、皆様にはセンダリオンの領主様より授かった『星標の旗』がございます。トキオウの関所には『星巡りの巡礼団』を優先して通す専用の門がありますので、そちらへ馬車を寄せましょう」
ヤヒロの案内通り、俺たちは荷車の長い列を横目に、関所の右端に設けられた一際大きな石の門へと馬車を進めた。
門の前には、ひときわ豪奢な甲殻鎧を着た隊長らしき男と、白いローブを着た三人の検問神官が立っていた。彼らは近づいてくる俺たちの三台の馬車と、先頭の一号車に掲げられた『星標の旗』を見ると、鋭い声で馬車を停止させた。
「――止まれ! その『星標の旗』、見れば北の都センダリオンの印のようだが、この聖都トキオウの橋を渡るには正式なマナの照合が要る! 代表の者は旗を前へ出し、神官様の検分を受けよ!」
衛兵隊長の言葉が、ナギの同調の力を介して俺たちの頭の中に響く。
「かなり警戒が厳しいな……。シンジ、旗を見せよう」
トオルに促され、シンジが竿から『星標の旗』を外して馬車から降りた。俺も万が一に備え、いつでも黒曜石の槍を手に取れるよう二号車の御者台から検問神官たちの動きを睨みつけた。
三人の検問神官のうち、真ん中に立つ細身の男が横柄な態度で歩み寄り、シンジが差し出した純白の旗をじろりと見下ろした。
その瞬間、神官の眉がピクリと険しく跳ね上がった。
「……おい、なんだこの旗は! 純白であるはずの聖布の端が、灰と泥で黒く汚れておるではないか!」
神官が指差したのは、俺がセンダリオンの宿坊で『聖軌規範』第二十二条に従い、パン屋の灰と泥を混ぜて塗り込んだあの『無明の矩形』だった。
周囲の衛兵たちが「なにっ、神聖な旗に泥だと!?」「さては盗んだ旗に偽の細工をした流民どもか!」と一斉に黒曜石の鉾を構え、空気が一気に張り詰める。シンジとカズマが「ち、違うんです、これはその……」と言葉を詰まらせた。
検問神官は鼻で笑い、首から下げた青い結晶石に手を当てた。
「ふん、言い訳など聞かん! これが本物の巡礼の旗かどうか、我が『照合の石』でマナの波長を調べてやろう。もし偽物であれば、この場で全員ひっ捕らえて――」
神官が短い祈りの言葉を口にし、手にした青い結晶石を、旗の隅にある泥の四角形へと近づけた、その瞬間だった。
――バチィッ!!
「うわあああっ!?」
神官の手にする結晶石が旗に触れるよりも早く、俺が塗り込んだ灰と泥の『無明の矩形』が眩い純白の閃光を放ち、神官の結晶石から放たれた淡い青い光を、まるでゴミでも払うかのように激しく弾き飛ばしたのだ。
ピシリ、と乾いた音が鳴り、神官が誇らしげに首から下げていた照合用の青い結晶石に、真っ二つに割れる深い亀裂が走った。
それだけではない。旗の隅の『無明の矩形』から溢れ出した圧倒的な高密度の光の波紋が、検問所の石畳を撫でるように広がり、俺たちの進路を塞いでいた分厚い木組みの遮断柵を、誰一人触れてもいないのにギギギ……ッと音を立てて自動で左右へと押し開いたのである。
「な、なんだと……!? わ、私の照合石が弾かれ、関所の魔導柵が勝手に開いただと……!?」
「馬鹿な! センダリオンの旗に、そこまでの強制力があるはずがない! いったいどんな高位の神聖文字が塗り込まれているというのだ……!?」
尻餅をついた検問神官と、周囲の衛兵たちが、勝手に開いた門と白く脈打つ泥の印を見て顔面を蒼白にして震え上がった。
俺は二号車の御者台から、その様子を冷ややかに見下ろした。
当然だ。『聖軌規範』に記された通り、下位の認証を棄却して最上位の権限へと書き換えたのだ。こんな俗物の神官どもが作った関所の柵など、テンテの進む軌道の前では最初から存在しないも同然なのだ。
「お、お見それいたしました! これほど強大な神威を帯びた旗をお持ちとは、間違いなく最高位の『星巡りの巡礼団』様に相違ございません! どうぞ、どうぞそのままトキオウの大橋をお渡りください!」
衛兵隊長が慌てて地面に片膝をつき、部下たちに命じて道を大きく開けさせた。
一号車の御者台でそれを見ていた案内人のヤヒロが、額に冷や汗を浮かべながら、俺の方をちらりと振り返って引きつった笑みを漏らす。
「……いやはや、センダリオンの広場に続き、トキオウの大関所まで指一本触れずに開けてしまうとは。ラキ殿の『信仰の実行集』とやらは、まことに底が知れませんなぁ」
俺はヤヒロの言葉など無視し、旗を持って馬車へ戻ったシンジが合図を出すと同時に、静かに手綱を引いた。
後ろの幌の中で、テンテが小さく息を吐き、窓の隙間から俺の背中をじっと見つめている気配が伝わってくる。
こうして俺たちの三台の馬車は、ひれ伏す関所の神官や衛兵たちの間を音もなく通り抜け、かつての日本の首都――海の上に無数の石柱がそびえ立つ『水没聖都・トキオウ』へと続く長い石橋へと踏み出したのだった。




