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第十八話:水没聖都の箱庭と、画面の向こうの君


二号車の幌の隙間から、潮風とともに水没聖都『トキオウ』の喧騒が流れ込んでくる。

私の隣では、ミホやナギたちが「すごいね、ビルの屋上に石のお家が建ってるよ」「でも、なんだか下の方の人たちはすごく貧しそうだね……」と、窓の外の景色を見てひそひそと話し合っていた。


私は彼女たちの言葉に「ええ、そうね」と穏やかな微笑みで相槌を打ちながら、揺れひとつない滑らかな馬車の座席に深く腰を下ろしていた。

私の視線の先には、幌の入り口のすぐ向こう――御者台に座り、背筋を伸ばして手綱を握るラキの広い背中がある。


外の景色など、本当はどうでもよかった。

海面から突き出した古いコンクリートの柱の上で、マナを強く使える神官たちが白い衣を着てふんぞり返り、力を持たない平民たちが泥水に浸かりながら必死に頭を下げて青い石を差し出している。

ミホたちはそれを「かわいそう」「不平等だ」と嘆いているけれど、私から見れば、三百四十年前の私たちの世界と何一つ変わらない、退屈でくだらない人間の群れの姿でしかなかった。


親の期待、教師の評価、クラスの中での見えない順位。

人より少し勉強ができて、顔立ちが整っていて、空気を読むのが上手いというだけで、周囲は勝手に私を「完璧な優等生」という枠に押し込め、都合のいい期待を押しつけてきた。それに逆らえば面倒なことになるから、私はただ笑顔の仮面を被って、全員が望む通りの「優しくて清らかなテンテ」を演じ続けてきただけだ。

この『トキオウ』の神官たちも平民たちも、結局は同じ穴の狢よ。上か下かというくだらない序列の中でしか生きられない、どうでもいいノイズの群れ。


そんな灰色の世界で、私の息が詰まるような毎日を根底から壊し、ただ一つの鮮やかな色彩を与えてくれたのが――目の前で手綱を握る彼、ラキだった。


周囲のクラスメイトたちは、私とラキが高校で同じクラスになるまで接点なんてなかったと思っている。さっきの河原の野営でも、カズマくんが得意げにそんなことを言っていたっけ。

何も知らない、愚かな人たち。

私がいつからラキを知っていたのか。どうして私が、彼と同じ高校を受験し、彼と同じクラスになり、彼の視界に入る場所で「理想の少女」を演じ続けてきたのか――誰も知るはずがない。


すべてが始まったのは、今から三年前の秋。私が中学二年生の時のことだった。


***


あの頃の私は、学校でも家でも「非の打ちどころのない良い子」を演じることに疲れ果て、夜になると自分の部屋のベッドに潜り込み、スマートフォンの画面を当て所なく眺めるのだけが唯一の息抜きだった。

SNSを開けば、そこにも学校と同じように「誰かに良く見られたい」「褒められたい」という浅ましい計算ばかりが溢れていて、見ているだけで吐き気がした。


そんなある夜、検索のリンクをいくつも辿るうちに、私は偶然、ひとつの個人のブログに行き着いた。

タイトルすらろくに付けられていない、閲覧数も一日に二人か三人しかいないような、真っ白で簡素なブログだった。


けれど、そこに綴られていた短い文章を読んだ瞬間、私の指は画面の上でピタリと止まった。

そのブログの書き手は、誰に媚びることも、自分の不幸を嘆くことも、誰かを貶めることもしていなかった。ただ、自分が歩いた道端で見つけた名もなき草花のことや、夕暮れの雲の形、あるいは「今日、通学路の真ん中に落ちていた折れ枝を脇へ退けた。誰に見せるためでもないが、歩く道に引っかかるものはない方がいい」といった、ひどく淡々としていながら、驚くほど澄み切った独自のルールと観察眼だけを静かに書き留めていたのだ。


「いい人に見られたい」という下心が、ただの一文字もなかった。

まるで、世界中の人間が消えてしまった後の地球で、たった一人で日記を書いているかのような、絶対的な孤独と純粋さ。

私はその日から、毎晩のようにそのブログを読み返すようになった。過去の記事をすべて読み漁り、新しい記事が更新されるのを胸を躍らせて待った。画面の向こうにいる名も知らぬその書き手だけが、私の息苦しい世界で唯一、同じ空気を吸える「本物の人間」のように思えたのだ。


そして、そのブログを読み始めてから三ヶ月が経った、冬の休日のことだった。

私は親から頼まれた買い物のため、自分の通う中学校の学区から二つ離れた隣町の古い商店街を歩いていた。


ふと、商店街の外れにある跨線橋と、その脇に立つ錆びた時計台が目に入った瞬間、私の足が止まった。

三日前に、あのブログに載っていた写真と、まったく同じ構図の風景だったのだ。

『時計台の針が三分遅れている。ここを通る時は、いつも少しだけ空を見上げる』――そう書かれていた場所。つまり、あのブログを書いている人は、この街に住んでいて、この道を普段から歩いているのだ。


急に心臓が早鐘を打ち始めた。

私は買い物袋を握りしめたまま、跨線橋の階段の下で、まるで見えない誰かを探すように周囲を見回した。

その日は木枯らしが強く吹いていて、商店街の歩道には、風で倒れた古いトタンの案内看板と、ひしゃげた空き缶がいくつも散らばり、通行人の足を塞いでいた。道行く大人たちはみんな「邪魔だな」「誰か片付けろよ」と舌打ちしながら、看板の端を踏みつけるようにして通り過ぎていく。


その時だった。

あの錆びた時計台の下から、隣町の中学校の黒い詰襟を着た一人の少年が、静かな足取りで歩いてきたのは。


少年は倒れた看板の前で足を止めると、周囲の視線など気にする様子もなく、無言のままそこにしゃがみ込んだ。

そして、泥と埃にまみれた重いトタンの看板を両手で持ち上げて元の位置へと真っ直ぐに立て直し、さらに歩道に散らばっていた空き缶を一つずつ拾い集めて、脇のゴミ箱へと黙々と戻し始めたのだ。


途中で、看板の錆びたトタンの縁が少年の指先を浅く切り、白い指から赤い血がぷつりと滲んだ。

普通なら「痛っ」と声を上げるか、こんな損な役回りはやめて手を引っ込めるはずだ。あるいは、周りにいる大人たちに「自分が片付けています」とアピールするように顔を上げるか。


だが、少年は違った。

彼は指先から血が滲んだことにも眉ひとつ動かさず、ただ看板の足元に重しの石をきっちりと並べ終えると、血のついた指を自分の黒い制服の裾で無造作に拭い、誰の顔を見ることもなくその場を離れた。

そして、私とすれ違う直前――時計台の下で立ち止まり、ポケットから古いスマートフォンを取り出して、画面に短い文字を打ち込んだ。


ピコン、と私のポケットの中で、あのブログの更新通知が鳴ったのは、そのわずか数秒後のことだった。

震える指で自分の画面を開いた私の目に飛び込んできたのは、たった今更新されたばかりの、こんな一文だった。


『風で倒れていた標識を直した。これで歩く人が躓かずに済む。時計台の針は、今日も三分遅れている』


――息が、止まった。

顔を上げた私の視線の先で、スマートフォンをしまった少年が、指先に小さな血の粒を滲ませたまま、何事もなかったかのような涼しい横顔で、錆びた時計台の文字盤を静かに見上げていた。


彼だ。彼だったのだ。

私が毎晩、画面の向こうで恋い焦がれていたあの澄み切った言葉の主は、こんなにも近くにいて、そして文章と寸分違わぬまま、誰の目も気にせず、誰からの感謝も求めず、指先が傷つくことすら書かずに、ただ自分の中の静かなルールだけに従って道を整えていたのだ。


周りの顔色ばかりを窺い、計算づくの笑顔で生きていた私にとって、彼のその無表情な横顔と、誰にも気づかれない小さな傷跡は、目も眩むほど気高く、そして狂おしいほど美しかった。


(――ああ、見つけた。この薄汚い世界に、たった一人だけ、私のすべてを捧げるべき本物の人間がいたわ)


彼がそのまま雑踏の奥へと歩き去っていく背中を見送りながら、私の胸の奥底に、決して消えることのない黒く激しい炎が灯った。

あの人が欲しい。あの人が生きているあの静かで潔癖な世界の中に、私だけを入れてほしい。あの人が黙々と整える道の先に、私だけが立ちたい。


その日から、私のすべては彼を中心に回り始めた。

彼の着ていた制服から中学校を突き止め、「ラキ」という名前を知り、彼のブログに書かれる何気ない風景の記述を手がかりに、放課後の彼の足取りを遠くから追いかけた。彼がどこの高校を受験するのかを知った時は、親や教師が勧める都心の進学校をすべて蹴って、彼と同じ高校を迷わず選んだ。


高校二年生になって、ついに彼と同じクラスになれた春の日の喜びといったら!

けれど、いざ同じ教室に入ってみると、ラキはやはりブログの通り、誰とも群れずに窓際の席で静かに外を見ているばかりだった。五月の雨の日に私が渡り廊下でカラスを助けた時以来、彼は遠くから私をじっと見つめるようにはなったものの、まるでお高くとまった優等生に遠慮するかのように、決して自分から近づいてこようとはしなかった。

私がこれまで被ってきた「完璧な少女の仮面」が、皮肉にも彼を遠ざける壁になってしまったのだ。もし私が仮面を剥いで、中学の頃からあなたのブログを特定して追いかけてきました、なんて重い執着をぶつけたら、あの潔癖なラキに気味悪がられて拒絶されてしまうかもしれない――その恐怖だけが、私の足を縫い止めていた。


けれど、あの山の地下で目覚め、あの黒い小冊子を手にしてからのラキは、あの頃とはまるで違っていた。


***


「――道を開けよ! 聖都の巡礼路であるぞ、流民どもは橋の下へ下がれ!」


突然、馬車の前方からトキオウの衛士たちの怒鳴り声が聞こえ、私の意識は三年前の冬の記憶から現実へと引き戻された。

幌の隙間から前を見ると、上層街の大通りを我が物顔で歩いていた高位の神官の一団が、通りの端で倒れていた老人の荷車を邪魔だと蹴り飛ばし、その拍子に荷車に積まれていた木箱が崩れて、私たちの馬車の進路へと転がり出てきたところだった。


先頭の一号車を引いていたカズマくんが「うわっ、危ねえ!」と慌てて手綱を引き、馬車がガタガタと大きく揺れて止まる。

「なんだお前たちは! 神官様の御前であるぞ、馬車を後ろへ下げろ!」

神官の護衛である甲殻鎧の衛士が、黒曜石の鉾を振り上げて、私たちの馬車に向かって威嚇するように怒鳴りつけてきた。一号車のシンジくんやトオルくんが、面倒な揉め事を避けようと頭を下げて馬車を後ろへ下げようとする。


だが、二号車の御者台に座っていたラキは、ピクリとも手綱を緩めなかった。

彼は片手で手綱を握ったまま、もう片方の手で傍らの黒曜石の槍を掴んで立ち上がると、鉾を突きつけてきたトキオウの衛士と、その後ろでふんぞり返る神官たちを、冷え切った瞳で真っ直ぐに見下ろした。


「……どくのはお前たちの方だ。そこは、この馬車が通る軌道だぞ」

「なっ……!? 貴様、聖都の神官様に向かって何たる口の利き方だ!」


怒り狂った衛士が鉾を突き出そうとした瞬間、ラキは短い発音とともに槍の石突を御者台の床へトンと打ち据えた。

同時に、先頭の一号車に掲げられていた『星標の旗』――ラキが灰と泥で『無明の矩形』を描き込んだあの旗が激しく脈動し、進路に転がっていた木箱の残骸だけでなく、道を塞いでいた衛士と神官たちの足元の石畳ごと、目に見えない圧倒的な風の圧力で道の両脇へと一気に押し退けたのだ。


「うわあああっ!?」

「ば、馬鹿な! 旗の風が、我々のマナの防壁ごと身体を押し流すだと……!?」


神官と衛士たちが道端へ尻餅をつき、呆然と目を見開く中、ラキは何事もなかったかのように御者台へ腰を下ろし、一切の揺れも生まない完璧な手綱さばきで、ぽっかりと空いた道の真ん中を真っ直ぐに駆け抜けていった。


「ラ、ラキくん、すごい……相手が聖都の偉い神官様でも、全然怯まないんだね……」

隣のミホが、引きつった顔で呟く。


私は幌の薄暗がりの中で、誰にも見えないように自分の口元を左手で覆った。左のポケットから取り出した、あのラキの血が染み込んだ麻布を唇に強く押し当てながら、全身がゾクゾクと甘く震えるのを堪えるのに必死だった。


ああ、見て。やっぱりラキは、三年前のあの冬の日、風で倒れた標識を黙って直していたあの時から、少しも変わっていない。

誰かに褒められるためでも、権威に媚びるためでもなく、ただ自分が決めたルールに従って淡々と道を整えていく。そして今の彼は、そのすべての行動を、この馬車に乗っている「私」の道を開くためだけに捧げてくれているのだ!


「……前が空いたぞ、カズマ。速度を落とすな、このまま進む」


御者台から響くラキの低く落ち着いた声を聞きながら、私は熱く潤んだ黒い瞳で、彼の背中をじっと見つめ続けた。

こんな薄汚い水没都市なんて、さっさと通り過ぎてしまいましょう、ラキ。あなたが私のために整えてくれるこの滑らかな道を走って、邪魔な四つの城を全部壊して、早く――あなたと私だけの世界へ行きましょうね。

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