第十三話:軋む車輪と、三日目の包囲
鏡のように真っ平らに均された大聖堂前の石畳の上で、しばらくの間、誰一人として声を出す者はいなかった。
シンジが持つ『星標の旗』の隅――俺が昨夜、灰と泥を混ぜて塗り込んだ『無明の矩形』は、周囲の青い光の粒を吸い込みながら、脈打つように淡い純白の輝きを放ち続けている。
「……き、奇跡だ……! 『星標の旗』が、これほど強大な神威を放つなど、センダリオン建国以来初めての御業ぞ……!」
腰を抜かしていた大聖堂の司祭が、震える声でそう叫び、滑らかになった石畳の上に深く額を擦りつけた。後ろに控えていた若い神官たちも、慌ててその場にひれ伏す。
シンジやカズマたちは、まだ信じられないといった顔で旗の隅の泥の印と俺の顔を交互に見ていたが、やがてトオルが深く息を吐き出し、俺の肩をぽんと叩いた。
「……驚いたよ、ラキ。君がどこでそのやり方を知ったのかは分からないけれど、あの灰と泥の印のおかげで、旗の力が何十倍にも引き出されたみたいだ。疑って悪かったね」
「いや、俺はただ、必要な手順を踏んだだけだ」
俺は短く答え、視線を広場の奥へと向けた。
ただ、その時――広場のすぐ隣にそびえる白亜城の上層バルコニーから、誰かの鋭い視線がこちらへ注がれていることに気づき、俺はわずかに眉をひそめた。
見上げると、バルコニーの石の手すりの前に、領主ムネヒラが数人の側近だけを連れて立っていた。
ムネヒラは広場の石畳が一瞬で真っ平らに書き換えられた光景を見下ろし、大聖堂の司祭たちのように感動して拝むどころか、まるで見てはならない恐ろしいものでも目撃したかのように、その恰幅のいい顔を蒼白に引きつらせていたのだ。
彼の視線は、シンジの掲げる旗の隅――あの泥の四角形に釘付けになっていた。
そして次の瞬間、ムネヒラの血走った目がギョロリと動き、広場の端で一人だけ冷めた顔をして立っている俺の姿を、射抜くように捉えた。彼の口元が何事かを呟き、すぐ後ろに控えていた黒装束の側近に向かって、周囲に聞かれぬよう険しい顔で何かを早口に命じているのが見えた。
(……なんだ、あの男。気色の悪い目をしやがって)
俺は不快感を覚え、ムネヒラから視線を切ってテンテの近くへと歩み寄った。
その横で、立ち上がった司祭が広場に並べられた三台の大型幌馬車へと俺たちを案内した。いずれも硬い樫の木を削り出し、魔獣の腱と樹脂で組み上げた頑丈な四輪馬車だ。
「こちらが皆様にお授けする三台の巡礼馬車でございます。本日中に長旅に必要な干し肉や麦、水樽を荷台へ積み込みますので、明日の朝――ご滞在三日目の夜明けにはご出立いただけますぞ!」
「すげえ、本当に立派な馬車だ! じゃあ今日は街でゆっくり休んで、明日の朝に出発だな!」
カズマやシンジたちが歓声を上げ、三台のうちどの馬車に乗るか相談し始める。先頭の一号車にシンジやトオル、カズマたち男子。真ん中の二号車にテンテやミホ、ナギたち女子メンバーが乗ることに決まった。
クラスメイトたちが「今のうちに街の市場を見て回ろうよ!」と盛り上がって広場を出ていく中、俺は一人だけその輪から離れ、真ん中に止められた二号車の足元へと静かに歩み寄った。
昨日、街へ入る前に確認した『聖軌規範』の第二十四条には、こう記されていたはずだ。
――《第二十四条:最上位対象を保持する移動筐体は、外部の振動および不純物の侵入を遮断する構造たるべし。従属する者は、連結部の摩耗を検め、推進軸に白き油脂を塗布して摩擦を零へと近づけよ。異音を発する回転部は、即座にこれを破棄すべし》
明日の朝、テンテが乗ることになるこの二号車を、そのまま無造作に走らせるわけにはいかない。
俺は馬車の横にしゃがみ込むと、木製の大きな車輪と車軸が噛み合う部分をじっと睨みつけた。そして、両手で車輪を掴み、少しだけ前後に揺らしてみた。
――ギィ、とごくわずかに乾いた木の擦れる音が鳴った。
「……ダメだ。これでは摩擦がある」
俺は立ち上がると、近くにいた若い神官の一人を呼び止め、動物の白い脂と、きれいな麻布、それから木を削るための黒曜石の小刀を持ってこさせた。
そして、他のクラスメイトたちが街での束の間の休日を楽しんでいる二日目の昼下がりから夕方にかけて、俺はただ一人で二号車の車体の下へと仰向けに潜り込み続けた。
木の車軸のわずかな引っかかりを黒曜石の小刀でミリ単位で削り落とし、そこに壺からすくい取った白い豚の脂を何度も塗り重ねていく。さらに、テンテが座ることになる荷台の床板の裏側や隙間に挟まっていた小さな砂利、木のささくれを、爪の先が赤く滲むのも構わずに一つ残らずほじくり出した。
夕暮れ時、何時間もかけて四つの車軸すべてを完璧に整え終え、俺が泥と脂にまみれた顔で車体の下から這い出てきた時だった。
目の前に、白い麻のスカートの裾が揺れていた。
見上げると、街の散策から戻ってきたらしいテンテが、ミホたちから少し離れて、二号車のすぐ脇に立って俺を見下ろしていた。
「……ラキ。昼間からずっと、ここにいたのね。顔に脂がついているわよ」
テンテは普段通りの、涼しげで落ち着いた声でそう言った。
周囲には神官たちの目があるため、彼女はしゃがみ込んで俺の顔を拭うような真似はしなかった。ただ、俺が丸一日かけて整備し終えた二号車の車輪に白い指先を軽く添え、すっと前に押してみた。
巨大な木製の車輪が、まるで氷の上を滑るかのように、ピクリとも音を立てずに滑らかに回転した。
それを見たテンテの黒い瞳が、ほんのわずかに細められる。俺を見下ろす彼女の瞳の奥底には、俺が街も見ずに丸一日、彼女一人の乗る馬車のために床の下へ潜り込んでいたことへの、息を呑むほど深く、暗い熱を帯びた光が静かに揺らめいていた。
「……とても静かね。これなら、どこまででも揺れずに行けそうだわ。ありがとう、ラキ」
「礼には及ばない。お前が乗る場所だ、軋みひとつ残すわけにはいかないからな」
俺が立ち上がって手の脂を麻布で拭いながら答えると、テンテは他の誰にも見えない角度で、ほんのわずかだけ唇の端を上げて微笑んだ。
***
そして、センダリオン滞在三日目の早朝――いよいよ出立の時が訪れた。
十分な食料と水樽を積み込んだ三台の馬車に十五人が乗り込み、俺はテンテの乗る二号車の御者台――手綱を握る前の席へと上がった。他の連中に手綱を任せて、万が一にも馬車を揺らすようなことがあってはならないからだ。
シンジが『星標の旗』を一号車の横に括り付け、「よし、それじゃあ出発しよう! 南門から街道へ出るぞ!」と号令をかけた。
だが、三台の馬車がゆっくりと動き出し、まだ朝靄の残る人通りの少ない南門前の石畳へと差しかかった、その時だった。
――ガシャン、ガシャン、ガシャンッ!
前方の巨大な城門が重い音を立てて閉ざされると同時に、両脇の詰め所や路地から、重々しい足音がいくつも響き渡った。
先頭の一号車の手綱を握っていたカズマが「うわっ、なんだ!?」と慌てて馬を止める。
二号車の御者台から前を睨みつけた俺の目に飛び込んできたのは、俺たちの進路を完全に塞ぐように黒曜石の鉾と骨の弓を構えた、五十人を超える白亜城の精鋭兵たちの姿だった。
そしてその兵士たちの列の後ろから、昨日一日かけて城の古文書でも調べていたのか、目の下に濃い隈を作り、ギラギラと異常な欲望に目を血走らせた領主ムネヒラが、ゆっくりと姿を現したのだった。




