第十二話:星標の旗と、無明の矩形
領主ムネヒラから『新月の巡礼団』として正式な認可を受けた俺たち十五人は、センダリオンに到着した最初の夕方、白亜城の隣にそびえる大聖堂の宿坊へと案内された。
私兵となって城に残ることを選んだ五人のクラスメイトたちは、すでに城の役人に連れられて別の屋敷へと移っており、ここからはもう完全に別行動となる。
「うわあ、見てよこのベッド! 藁じゃなくて、本当にふかふかの羊毛が詰まってるよ!」
「馬車と長旅の食料を揃えるのに三日ほどかかるから、その間はこの宿坊でゆっくり休んでいいってさ。五日ぶりの風呂にも入れるし、生き返るな……!」
宿坊の大部屋に案内されるなり、ミホやカズマたちが歓声を上げて寝台に飛び込んだ。
石造りの清潔な部屋には、人数分の木製の寝台が並び、中央の長い木の卓には、焼きたての白い麦パンや、香ばしく炙られた鳥の肉、それに温かな野菜のスープが湯気を立てて並べられていた。
そして部屋の最奥にある石の台座には、先ほど領主ムネヒラから授かったばかりの『星標の旗』が恭しく立てかけられていた。
長さ二メートルほどの白木の竿の先に掲げられているのは、空気中の青い光を吸って淡く輝く、純白の織物だった。その中央には、銀色の糸で精緻な八芒星の紋様が縫い取られており、見ているだけで目が眩むような神聖な気配を放っている。
「これが『星標の旗』か……。布地そのものから、すごく濃いマナの光を感じるね。老神官様が言っていた通り、これを先頭の馬車に掲げて走れば、荒れた道でも進みやすくなるんだろうな」
トオルが旗の布地を興味深そうに覗き込みながら、シンジにそう話している。
俺は卓の端でパンを口に運びながら、その白い旗の隅を静かに見つめていた。
トオルの言う通り、そのままでも馬車を通しやすくする程度の力はあるのだろう。だが、それはあくまでこの街の領主という「下位の系」が与えた不完全な認証に過ぎない。
『聖軌規範』第二十二条には、はっきりとこう記されていた。
――《移動に際し、下位の系より付与されし認証をそのまま用うることなかれ。従属する者は、燃焼の残滓と大地の澱をもって余白に『無明の矩形』を記し、既存の定義を棄却すべし。さすれば軌道は最上位の権限を認め、あらゆる障壁は自ずから平らげられん》
聖女たるテンテの行進に、俗世の領主が定めた中途半端な認証など相応しくない。
今夜、全員が眠りについたあとで、俺があの旗の余白に灰と泥で『無明の矩形』を描き込み、テンテのための完全なる標識へと書き換えなければならないのだ。
俺は懐から小さな白い石を取り出すと、覚えたての短い発音で石を熱し、目の前に置かれたテンテのスープの木椀へと静かに沈めた。
ジュッ、と小さな音が鳴り、スープの表面にわずかな湯気が立つ。
近くに座っていたカズマが「おいラキ、こんな立派な街の料理にまで焼け石を入れるのかよ。失礼だろ」と呆れたように言ったが、俺は無視した。場所がどこであれ、彼女の口に入る水分から不純物を除く手順を怠るわけにはいかない。
当のテンテは、俺から二席ほど離れた場所でミホに話しかけられていたが、俺が石を沈めた木椀を卓の上でそっと押しやると、自然な仕草でその器を手に取り、「ありがとう、ラキ」と普段通りの涼しげな声で言って静かに口をつけた。彼女の伏せられた長い睫毛の奥で、黒い瞳がほんの一瞬だけ俺の指先を見つめ、かすかに細められたのを俺は見逃さなかった。
***
やがて食事と入浴が終わり、部屋の灯りである青い結晶石に布がかけられて、宿坊の中は深い静寂に包まれた。
柔らかな羊毛の寝台に横たわったクラスメイトたちは、ここ数日の疲労が一気に吹き出たのか、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
俺は自分の寝台の上でじっと目を開けたまま、真夜中過ぎまで待った。
周囲の全員が完全に寝静まったのを確かめると、俺は音を立てずに毛布を抜け出し、まず宿坊の中庭へと出た。昼間のうちに目をつけておいた水場の脇の土を掘り起こし、不純物の少ない黒く湿った泥を少しだけ手のひらにすくい取る。
そして部屋へ戻ると、麻のズボンのポケットから、昼間にパン屋の石窯の脇で拾っておいた白い灰を取り出し、手のひらの上で泥と混ぜ合わせた。
白木の竿に掲げられた『星標の旗』の前へと歩み寄る。
暗がりの中で、旗に刺繍された銀色の八芒星が青白く脈打っていた。俺は迷うことなく、その純白の布地の右下――誰の目にも留まりにくい端の余白に、灰と泥を練り合わせた黒ずんだ指先を押し当てた。
『聖軌規範』の頁にあった図形を寸分違わず思い描きながら、二重の四角形が交差するような歪な『無明の矩形』を、白い布地へと塗り込んでいく。
神聖で汚れなき純白の旗の隅に、どす黒い灰と泥の染みがくっきりと浮かび上がった。普通の人間が見れば、せっかく授かった大切な旗を台無しにする行為に映るだろう。
だが、俺が最後の一画を塗り終え、指先を離した瞬間だった。
旗の隅に描かれた灰色の矩形が、ドクンと一度だけ脈動し、布地全体に宿っていた青白いマナの光を、その泥の印の中へと一気に吸い込んだのだ。
直後、銀色の八芒星から放たれていた淡い光がフッと消え、旗は何の変哲もないただの布切れのように静まり返った。
「……よし。これで既存の定義は棄却された」
俺は満足して頷いた。『聖軌規範』に記された通り、下位の認証が消え去り、最上位の権限へと書き換わった証拠に違いない。
俺が汚れた指先を麻の端切れで拭いながら、静かに振り返った時だった。
暗がりの奥、女子たちの寝台が並ぶ区画の端で、ひとつの影が音もなく身を起こしていた。
窓から差し込むわずかな月明かりの中、テンテが自分の寝台の上に座り、長い黒髪を肩から流したまま、じっとこちらを見つめていたのだ。
俺は足を止め、声を出さずに彼女の目を見た。
テンテは「なにをしているの」とも「旗を汚したの」とも訊いてこなかった。ただ、俺が泥で汚したばかりの『星標の旗』の隅と、俺の黒ずんだ指先を順番に見つめ、それからゆっくりと自分の右手を胸元へと持ち上げた。
彼女の手には、どこか見覚えのある、黒ずんだシミのついた小さな麻の布切れが握られていた。彼女は暗がりの中で、俺を見つめたまま、その布切れを自分の白い頬へとそっと押し当て、ゆっくりと長い睫毛を伏せてみせたのだ。
なぜ彼女がそんな布切れを持っているのかは分からなかったが、彼女が俺の夜の務めを静かに見守ってくださっていることは間違いなかった。俺は彼女に向かって深く頭を下げると、自分の寝台へと戻って目を閉じた。
***
滞在二日目の朝、宿坊の部屋はカズマの怒鳴り声で幕を開けた。
「おい、なんだよこれ! 『星標の旗』の光が消えてるぞ! しかも端っこに、なんか泥みたいな汚え四角い染みがついてるじゃねえか!」
カズマが台座の前で声を荒らげ、シンジやトオルたちが慌てて駆け寄る。
「本当だ……昨日まであんなに綺麗に青白く光っていたのに、光が完全に消えている。誰だよ、こんな大事な旗に泥を塗ったのは……!」
「ちょっと、ラキくんじゃないの!? 最初の村でも、壁に変な泥を塗ってたじゃない!」
女子の一人が俺の方を見て疑いの声を上げた。
俺は背負い袋の紐を締めながら、悪びれることもなく淡々と答えた。
「ああ、俺がやった。そのままでは不完全だったからな、灰と泥で書き換えておいた」
「か、書き換えたって、お前なあ! 魔法の光が消えちまってるじゃないか! これじゃ道を通りやすくする力が使えなくなったかもしれないんだぞ、どうしてくれんだよ!」
カズマが頭を抱えて叫び、シンジも「ラキ、いくらなんでも勝手すぎるぞ! これから大聖堂の前の広場で、明日の出発に使う馬車の確認をするのに、神官様たちに何て言い訳するんだ!」と青ざめた。
その時、宿坊の扉がノックされ、大聖堂の若い神官が「『新月の巡礼団』の皆様、お貸しする馬車の引き回しと、旗の掲揚の儀を行いますので、広場へお出ましください」と呼びに来た。
シンジは苦渋の顔で「……とにかく、泥がついた端の部分は折りたたんで見えないようにして持っていこう。光が消えた理由は、外に出てから考えるしかない」と決め、自分の手で旗の竿を持って宿坊の外へと出た。
俺たち十五人が宿坊を出て、朝の光が差し込む大聖堂の前の石畳の広場へと足を踏み入れた、その瞬間だった。
外の風に吹かれ、シンジが折りたたんでいた旗の裾がバサリと広がって、俺が昨夜塗り込んだ灰と泥の『無明の矩形』が外の空気に触れた。
――ドクンッ。
突如として、死んだように光を失っていた泥の四角形が、広場に満ちる青い光の粒を猛烈な勢いで吸い込み、眩いばかりの純白の輝きを放ったのだ。
「うわっ!?」とシンジが思わず竿を取り落としそうになる。
次の瞬間、旗の布地から放たれた目に見えない波紋が、大聖堂の前の広場全体へと一気に広がった。
メキメキメキッ!! と、地底から響くようなすさまじい音が鳴り響く。
カズマたちが悲鳴を上げて足元を見ると、広場の石畳の隙間に生えていた雑草がひとりでに根こそぎ引き抜かれて風で吹き飛び、さらには石畳の表面のわずかな凹凸やひび割れが、まるで目に見えない巨大な重りで押し潰されたかのように、鏡面のごとく真っ平らに均されていくではないか!
「な、なんだこれえええっ!? 草が消えたどころか、石畳が勝手に平らになっていくぞ!?」
「馬鹿な……! 『星標の旗』は、土の道を少し歩きやすくするだけの魔導具のはずだぞ! 石畳そのものを一瞬で真っ平らにするなんて、どんな大司教の旗でもあり得ない……!」
広場にいた大聖堂の司祭や神官たちが、鏡のように滑らかになった石畳の床を見て、驚愕に目を見開いて腰を抜かした。
トオルが震える指で、シンジの持つ旗の隅――白く発光する泥の四角形を指差した。
「ラ、ラキが塗ったあの灰と泥の印が、旗の力を何十倍にも引き出しているのか……!? 書き換えたって、本当だったのかよ……!?」
シンジもカズマも、そして俺を責めていた女子たちも、開いた口が塞がらないといった顔で俺と旗を交互に見つめている。
俺はそんな連中の騒ぎには目もくれず、ただ鏡のように平らになった石畳の上を、一歩も躓くことなく静かに歩いていくテンテの背中を見守っていた。
ほら見ろ。『聖軌規範』に記された通り、下位の認証を棄却したことで、道そのものが最上位対象たるテンテの前にひれ伏したのだ。




