第09話 結界が破れた日
翌朝の空は、抜けるように晴れていた。
昨夜まで胸につかえていた不安が、少しだけ軽くなるような青さだった。校門をくぐると、朝露に濡れた石畳が朝日を受けて、細かく光を散らしている。
待ち合わせ場所に現れたエスタは、いつもより少し眠そうな顔をしていた。
「昨日、あれから色々考えちゃって、あんまり眠れなかった」
「僕も。コロンに聞いても、結局分からないことだらけだったし」
「歴史の先生なら、少しは違う話が聞けるといいんだけど」
そんな話をしながら中庭を横切り、職員室に続く渡り廊下に差しかかった――そのときだった。
異様な空気に、僕は思わず足を止めた。
廊下を、教師たちが慌ただしく走り抜けていく。誰かが叫んでいる声。そして、聞いたこともないような切迫した響きで、鐘が鳴り始めた。
「な、何かあったの?」
エスタの声も、震えている。廊下の窓ガラスが、遠くの衝撃でびりびりと震えた。すれ違う生徒たちの顔にも、隠しきれない怯えが浮かんでいる。
通りがかった先生を捕まえて尋ねると、その顔は青ざめていた。
「結界に穴が開いた! 外から魔物が入り込んできている、生徒は校舎の中に避難を――」
言うだけ言うと、先生は返事も待たずに駆けていった。
窓の外を見て、僕は息を呑んだ。
つい今しがたまで穏やかだった校庭に、黒い影がいくつも走り回っている。犬ほどの大きさをした獣の群れ。牙を剥き出しにして、騎士団の面々に次々と襲いかかっていた。銀色の鎧が朝日を弾き、剣がぶつかり合う金属音と怒号が、校舎の中にまで響いてくる。踏み荒らされた花壇の土が、無残に空へ舞い上がっていた。
すぐそばで、足をくじいたらしい下級生が座り込んで泣いていた。
「エスタ、あの子」
「見えてる。ちょっと待ってて」
エスタは駆け寄って、手早く応急の処置を施した。その手つきに、迷いはなかった。数日前まであれほど自信なさげにしていた彼女が、今は落ち着いて動いている。
「校舎の中に戻ろう、エスタ」
僕がエスタの腕を引こうとした、そのときだった。
頭上から、これまでとは比べ物にならないほどの重い羽ばたきの音が響いた。
見上げると、朝日を遮るほどの巨大な影が、こちらに向かって落ちてくるところだった。広げた翼が空を裂き、その下で、大地の影がみるみる濃くなっていく。
飛龍だ。
図鑑でしか見たことのない、けれど間違えようのない、翼を持つ巨躯。
それ以上のことは、何も分からなかった。逆光で、色さえ見て取れない。
「エスタ、危ない――!」
叫んだときにはもう、遅かった。
鋭い爪が僕の体を掴み、地面から一気に引き離される。内臓が浮き上がるような浮遊感と共に、視界がぐるりと反転した。
「フェイ!!」
エスタの悲鳴が、みるみる遠ざかっていく。校舎の屋根が、校庭が、騎士団の姿が、あっという間に小さな点になっていった。風が耳元で唸り、それ以外の音は何も聞こえなくなる。眼下に広がる学園が、まるで机の上の模型みたいだった。
――どこに、連れていかれるんだ。
恐怖よりも先に、奇妙なほど冷静にそう思ったのを、僕は覚えている。薄れゆく意識の中で、最後に思い浮かんだのは、エスタの悲鳴と、コロンの小さな光だった。
フェイが攫われた瞬間、わたしの頭の中は真っ白になった。
「フェイ!!」
叫んだきり、体が動かない。
空を見上げても、もう飛龍の姿は豆粒のように小さくなっていて、青い空の中に溶けていくところだった。
最後に見えたのは、その後ろ姿だけだった。長い尾が幾筋にも分かれて、朝日を弾きながら遠ざかっていく。
――尾が、鳥みたいだった。
そんな場違いなことを思ったのを、後になってはっきり覚えていた。
足が震えて、その場に崩れ落ちそうになる。
ついさっきまで隣にいた人が、目の前で連れ去られた。現実感がまるでなかった。
「エスタ! しっかりしろ!」
肩を掴まれて我に返る。キアリーだった。手には、鍛錬場から持ち出したのだろう、木剣ではなく本物の剣が握られていた。額に汗を滲ませながら、彼は鋭い目でわたしを見据えていた。
「フェイは……フェイが、飛龍に……」
「見てた。……けど、今は他に怪我人がいる。お前にしかできないことがあるだろ!」
キアリーの言葉に、わたしは唇を噛んだ。彼の言う通りだった。校庭には、騎士団の人たちが何人も倒れている。今、わたしが立ち尽くしていても、フェイは戻ってこない。
「……分かった」
わたしは倒れている騎士の元に駆け寄り、震える手を彼の傷口にかざした。習ったばかりの治癒魔法。まだ拙い、頼りない光。それでも、今できることは、これしかなかった。
「お願い、間に合って……!」
祈るようにそう呟きながら、わたしは魔法を紡ぎ続けた。
――そのとき、わたしみたいなのがちゃんと役に立てるかどうか。
いつか自分で口にした不安が、今、目の前で現実になっていた。怖くないと言えば嘘になる。それでも、足は止まらなかった。今のわたしにできることは、ただ祈ることではなく、その手を動かし続けることだけだった。
一人を処置し終えると、すぐ隣で、また別の騎士がうめき声を上げているのが聞こえた。休んでいる暇はなかった。わたしは立ち上がり、次の負傷者の元へ走った。
「大丈夫、大丈夫だから……!」
自分に言い聞かせるように呟きながら、何度も何度も、同じ動作を繰り返した。息が上がり、指先の感覚が鈍くなっていくのが分かる。それでも、止まるわけにはいかなかった。
不意に、視界の端で何かが動いた。地を這うように迫ってきた黒い獣が、無防備なわたしの背後に飛びかかろうとしていた。
「危ない!」
叫び声と同時に、鈍い衝撃音が響いた。振り返ると、キアリーが剣の柄でその獣を弾き飛ばしたところだった。
「油断するな。ここは戦場だぞ」
「……ありがとう」
短く礼を言うと、キアリーは何も言わずに次の敵へと向き直った。その背中を見送りながら、わたしは呼吸を整えて、また次の負傷者へと向かった。
キアリーは剣を構えて、教師たちと共に、校舎に迫る小型の魔物たちを迎え撃っていた。訓練でしか使ったことのない剣が、今は本物の敵に向けられている。
「くそ、思ったより速い……!」
叫びながらも、キアリーの太刀筋には迷いがなかった。牙を剥いて飛びかかってきた獣を、真っ向から斬り伏せる。返り血を浴びながらも、彼の足取りは止まらなかった。
いつの間にか、あの明るいだけの少年が、こんな顔もできるようになっていたのかと、場違いにもわたしは思った。
少し離れた場所では、魔法学の先生が杖を構え、防御の結界を張って逃げ遅れた生徒たちを庇っていた。淡い光の膜に何度も影がぶつかり、そのたびに先生の膝が沈む。悲鳴と怒声が入り混じる中、それでも誰も、諦めた顔はしていなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。
校庭に響いていた怒号や剣戟の音が、少しずつ収まっていくのが分かった。空を覆っていた不穏な魔力の揺らぎが、まるで潮が引くように静まっていく。
「結界が……閉じていく?」
誰かの声に顔を上げると、空一面に薄く広がっていた歪みが、ゆっくりと収束していくのが見えた。陽炎のように揺らいでいた空気が、端のほうから順に、澄んだ青を取り戻していく。ひび割れていた空が、少しずつ縫い合わされていくように。
周りにいた教師や生徒たちも、みな空を見上げて立ち尽くしていた。誰も、何が起きたのか理解できていない様子だった。
「一体、何が……」
「分からん。だが、結界が落ち着いてきているのは確かだ」
騎士団の隊長らしき人が、荒い息のまま剣を鞘に収めた。
「魔物の反応も、潮が引くように消えていく。……何かが、向こうで起きたのか」
隊長の呟きに、周りの騎士たちも顔を見合わせた。誰かが「まさか」と小さく漏らすのが聞こえたが、それ以上の言葉は続かなかった。
どこからともなく、安堵したようなため息と、すすり泣くような声が聞こえてきた。生き残った、という実感が、ようやく皆の顔に戻ってきたようだった。
気づけば、日はすっかり高く昇っていた。踏み荒らされた校庭に、真上からの光が容赦なく降り注いでいる。時間の感覚など、とうに失っていた。
最後の負傷者の手当てを終えたとき、人だかりの向こうに、学園長のオズウィン先生の姿が見えた。
顔面蒼白のまま、教師たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしている。
わたしは、考えるより先に走り出していた。
「学園長先生!」
人をかき分けて詰め寄ったわたしを、学園長は驚いた顔で見下ろした。
「フェイが……三年のフェイが、飛龍に連れて行かれました! わたし、目の前で見たんです! 東の方角に飛んでいきました、まだそんなに時間は経ってません、今から追いかければ――!」
「落ち着きなさい」
「落ち着けるわけ、ないじゃないですか!」
自分でも驚くような大声が出た。周りの教師たちが、こちらを振り返る。
学園長はわたしの肩に手を置いて、静かに、けれどはっきりとこう言った。
「その報告は、既に受けている。……だが、飛龍を追える騎士は、今この場に一人もいない。負傷者も多く、結界の状態も確認が必要だ。今、闇雲に人を出せば、被害が増えるだけだ」
「でも、それじゃフェイが……!」
「王都に要請を出し、正式に調査隊を編成する。飛行魔法の使い手も、探索の専門家も集める。全力で捜索にあたると、私が約束しよう」
「……いつ、ですか」
「早くとも、明日以降になる」
明日。その二文字が、鉛のように胃の底に落ちていった。
「……分かりました」
それだけ言うのが、精一杯だった。
わたしは深く頭を下げると、ふらつく足で人だかりを離れた。周りの音が、また遠のいていく。
校庭の隅まで来て、わたしはようやく足を止めた。
見上げた空は、憎らしいほど澄み渡っていた。つい数時間前まで、この空を巨大な翼が裂いていったなんて、嘘みたいだった。
明日になれば調査隊が出る。それまで、フェイはどこにいるんだろう。無事でいるんだろうか。それとも――
そこまで考えて、わたしは足元を見た。踏み荒らされた土の上に、誰かの落とした教科書が、開いたまま泥にまみれている。その頁を見つめているうちに、目の前が滲んでいった。
何もできなかった。結局、何も。
「――エスタ」
声に振り返ると、キアリーが立っていた。剣を鞘に収め、袖で顔の汚れを拭っている。
わたしの顔を見て、彼は何かを察したように少し黙った。それから、空を見上げて、静かにこう言った。
「あいつが、ただ攫われて終わるようなやつだとは、俺は思ってない」
「……どうして、そんなこと言えるの」
「根拠はない」
キアリーはあっさりとそう言って、少しだけ笑った。
「けどさ。あいつ、鍋焦がして家中を臭くしても、次の日には新しい配合考えてるようなやつだぞ。あんな諦めの悪いやつ、そう簡単にどうにかなると思うか?」
その言い方があんまり普段通りで、わたしは思わず噴き出しそうになった。同時に、堪えていたものが目の縁からこぼれ落ちた。
「……そうね。そうよね」
「だろ」
「わたし、明日までに、もっと治癒魔法の練習しておく。フェイが怪我して帰ってきたとき、すぐ治せるように」
「それでこそだ」
キアリーはそう言って、拳でわたしの肩を軽く小突いた。
空に残っていた歪みの最後の一筋が、静かに消えていく。学園には、束の間の静けさが戻ってきていた。けれど、フェイの姿は、まだどこにもなかった。
ふと、薬草園の方角から、かすかな緑色の光が飛んでくるのが見えた気がした。まさか、と思って目を凝らしたときには、もうその光は搔き消えていた。気のせいだったのかもしれない。
それでも、わたしは何となく、その光がフェイの無事を案じて飛び出してきたコロンなのだと、根拠もなく確信していた。
遠くから、増援の騎士たちが到着する馬の蹄の音が聞こえてくる。事態を収拾するための怒号と指示が、また校庭に満ち始めた。
その喧騒の中で、わたしはもう一度だけ、東の空を見上げた。
どうか、無事でいて。声に出せないまま、わたしはただそれだけを、繰り返し祈り続けた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
明日の22時に次話を更新します。
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